脱出 2
作業は意外にも手際良く進められていた。鏡を見つけ、ジュリアンが危険な武器を振り回して邪魔をするガルドの蔦を簡単に切り裂いていく。その隙をついて、麻奈が鏡を片っ端から割っていった。ガシャーンという音が響き、鏡の破片がキラキラと夕日を受けて散らばる。
バクを破壊している。それを見ながら、麻奈はふとそんなことを考えた。此処から出ようとして鏡を割る行為は、腹の中から化け物を壊しているような気分になった。
「しつこい! お前もいい加減に諦めろ」
ジュリアンが切り落とされた斑模様の葉を踏みつけながら毒づいた。未だ蛇のように付け狙ってくるガルドは、進出気没に現れる。彼もリーズと麻奈たちの話を聞いていたらしく、執拗に麻奈たちの行く手を阻もうとしているのだ。
ジュリアンはそれを難なく焼き切り、麻奈は出来るだけガルドを避けながら廊下を進んだ。油断できないのは、廊下だけでなく教室の中にも鏡が備え付けてあることだ。見落とさないように、何度も辺りを確認する。
「もう一階のほとんどの鏡は割ったと思うよ」
「思い込みは危険だ、慎重に探して行こう。それよりも、私はガルドの邪魔があまりにも少なかったのが気になる」
「二階や三階の邪魔も同時にしてるなら、こっちばかりを構っていられないんじゃないかな。そもそも蔦だって限りがあるだろうし」
ジュリアンは何かを考え込むように黙った。その時、騒がしい足音を立ててユエが階段を下りてきた。それを見た麻奈は、下りるというより降って来たという方が正しいなと思った。ユエは階段を四、五段余裕で飛ばしながらこちらへ走って来る。
「何やってんだ、お前等! まだ終わってないの一階だけだぞ」
「そんなはずない、私たちだってちゃんと割ってたよ」
「あの少女が言ったぞ。体育館とやらがまだだ」
麻奈は「あ!」と口を開いたまま固まった。体育館。麻奈は完全にその場所を忘れていた。たしかに体育館には全身を映す大きな鏡と、ステージ横にある体育館用の放送室に小さな鏡がかけてあった。
「行こう。麻奈案内してくれ」
ジュリアンが駈け出した。それに続いてユエも走る。案内してくれと言った割には、ジュリアンは大体の方向が分かっているらしく、迷いなく体育館の渡り廊下へとたどり着いた。しかし、彼はそこを渡ることなく呆然と立ち尽くしていた。
「どうしたの?」
麻奈がジュリアンの後ろから体育館への入口を覗いて、絶句してしまった。たった数メートルの渡り廊下にはびっしりと緑色の蔦が絡まって、侵入者を防いでいる。廊下の上と言わず下と言わず、集まれるだけの蔦を集めてバリケードを張っているようだ。
「考えたな。どこか一つを固く守っていれば、アイツにとっての最悪の状況は防げるってわけか」
「だから蔦の量が少なかったんだね」
ユエは面倒くさそうに首を回すと、蜘蛛の巣状に張り巡らされている廊下へと突っ込んでいた。今気が付いたが、彼は素手だ。
「凄まじいな。やっぱりアイツは化け物だ」
ジュリアンの言葉に麻奈も頷いた。ユエは両の腕だけでガルドの蔦を引きちぎっている。それは、見ていて寒気がするほど野性的だった。ユエの後ろに道が出来、麻奈とジュリアンはそこを通り抜けた。自分たちだけでは、こうもスムーズにはいかなかっただろうなと麻奈は思った。
体育館の中は薄暗かった。誰かがしまい忘れたのか、バスケットボールが一つ中央に置かれているのが物悲しい。ユエがまず目についた大きな鏡の方へと向かった。それは体育倉庫の隣に付いている。もう彼を止めることは出来ないと知っているのに、ユエの後をガルドの蔦が追いかけて伸びた。それは動きも遅く、葉も引きちぎられて見ていて哀れだった。
ガルドはそれほどまでに此処に皆を留めたいのだろう。
「行こう、もう一つの鏡はステージ脇の放送室だよ」
ジュリアンと麻奈は踵を返して走った。埃っぽいステージ脇の階段を上がり、扉に鍵がかかっていないことを願いながらドアノブを回す。以外にも簡単に開き、麻奈を入口で押しとどめるようにしてジュリアンが中へと入る。狭い部屋だ。ジュリアンはいとも簡単に小さな鏡を見つけ、砕いた。小さな破片が床に落ちた。
「終わった……」
ほっと息を吐いた麻奈に、ジュリアンは頷いた。本当にこれで家に帰れるのだ。ジュリアンを先頭に部屋を出ようとした瞬間、麻奈だけを残したまま放送室の扉が閉まった。麻奈はパニックになった。今ま
で何の問題も無く開け閉め出来ていた扉が、何をしても開かなくなっていた。鍵はかかっていない。そもそも、中から開けられるようになっているので鍵がかかったわけではない。
「どうした! 何があったんだ麻奈!」
「分からない。急に開かなくなったの。どうしようジュリアン、怖いよ」
麻奈は扉を叩いた。外でもジュリアンが扉を破ろうとしいるらしく、何かを叩きつける固い音がする。それでも扉はびくともしない。
「どうしよう。どうして急に……あともう少しなのに!」
麻奈は放送室に付いている小さな小窓をチラリと見た。それは嵌め殺しになっている小さな窓で、子どもがやっとひとり通れるかどうかという大きさしかない。
「私じゃ、無理かもしれない」
窓から体育館を見下ろした。ユエが既に鏡を叩き割り、意気揚々と戻ってくるところだった。その間も、ジュリアンが扉を破ろうと外から叩き続けている。麻奈は泣きたくなった。早くここから出なければと気ばかりが焦る。もしかすると、今この瞬間にも割ったはずの鏡が元に戻ってしまうかもしれないのだ。急がなければ、でも出られない。
「ジュリアン、聞こえる?」
麻奈は激しく揺れている扉に額をくっ付けた。
「危ないぞ! 今ここを破るから、扉から離れてろ!」
「いいの。もういいの! このままここで時間を無駄にしてたら、折角の機会を逃しちゃうかもしれない。ジュリアンはもう螺旋階段に向かって。私は……大丈夫だから」
「何が大丈夫なんだ! 置いて行けるわけないだろ!」
「いいの。本人が置いて行ってほしいって言ってるんだから、そうしてよ。私、ジュリアンたちの足手まといになりたくない」
扉を叩いていたジュリアンの動きがピタリと止まった。
「本気で言ってるのか?」
「本気で言ってるの!」
「……分かった」
低く唸るようにそう言うと、ジュリアンの足音が遠ざかって行った。麻奈はその場に膝から崩れ落ちた。これでいい。この機会は絶対に逃してはいけないのだ。
もっときちんと別れの言葉を言いたかった。麻奈がぼんやり膝を抱えていると、放送室の小窓が大きな音を立てて割れた。大きな石が飛び込んできたらしく、ガラスは粉々になっている。麻奈は割れた小窓から下を覗いた。
「早く、そこから脱出するんだ」
ジュリアンとユエが窓の下に居て、麻奈に向かって大きく手を差し伸べている。
「でも、私じゃ通れないかもしれないし――この高さから受け止めるなんて、無理だよ」
「お前なら通れる。胸も尻も薄いんだ。さっさと飛び降りて来い!」
「大丈夫、私が絶対に受け止める。おいで、麻奈」
麻奈は泣きたくなった。放送器具に足を乗せ、窓枠にくっついている割れ残ったガラスを取り除く。息を吐ききって、少しでも体を薄く小さくしてから窓に頭を突っ込んだ。
「っつ、やっぱりキツイ」
麻奈は肩を内に入れ、窓枠ギリギリの体をねじ込んだ。肩の部分が残っていたガラスに引っかかり、ピリリとした痛みが走る。しかし、そんなことに構ってはいられない。
肩が通り、胸も抜けた。引きこもりと不摂生のお蔭で、水泳をしていた時代の筋肉は根こそぎ削げ落ちていた。
今となっては、それが良かったなんて……。麻奈は複雑な気持ちで体をくねらせた。尻が引っ掛かり、ショートパンツが破れる音がする。
ここを抜けられるんだったら、パンツになったって構わない。そう思いながら麻奈は渾身の力で窓枠から尻を引き抜き、その勢いで前のめりになった体が頭から落下する。思わず目をつぶると、力強い腕に受け止められて目を開けた。
「良かった」
目の前にジュリアンの顔があり、麻奈は安堵のため息と共に体中の力が抜けだした。上半身をジュリアン、下半身をユエが見事キャッチしてくれていた。
「喜んでる暇はねぇ。行くぞ!」
腰の部分を持ち上げられ、麻奈はユエに担ぎ上げられたまま荷物のように運ばれた。今は腰が抜けて走れそうもないので、麻奈は文句も言わずに運ばれていった。
「何かが邪魔をしているみたいだな」
ジュリアンが指差す方向には、体育館の扉がある。それが、ひとりでに閉まろうとしている所だ。
「きっとバクが目を覚ましたんだ」
麻奈は震えた。バクが完全に覚醒したなら、全てがなんでも思い通りになる。此処は彼の腹の中なのだ。
「させるか!」
ユエが扉を蹴破り、そのまま螺旋階段へと走った。