求めていた答え 3
視線には人の感情が宿っている。麻奈は此処に来てから常々そう感じることがあった。ひとり暮らしを始めてからというもの、誰かにじっと見られることも、人の目を見つめ返すこともほとんど無かった。麻奈はそれらを常に意識的に避けていたのだ。
誰にも懐に入られないように気を配り、同時に他人の懐にも入らない。麻奈は新しい友人と必要以上に親しくならないように、ここ数年気を付けていた。だから視線を合わせるだけで、こんなに真っ直ぐに誰かの心が自分の中に入り込んでくることを、麻奈はすっかり忘れていた。
目は口ほどに物を言うとはよく言ったものだと麻奈は思った。視線を伝って流れてくるビシャードの感情は、ひたすら暖かで優しいものだった。
麻奈はふと、此処から脱出できた時にビシャードはどうするのだろうかと考えた。もしも、離れ離れになってもう二度と会えないとしたら?
麻奈は柔らかな視線に絡め取られながら、急に此処を出てからの事を考えた。もともとは違う世界で生きていた、本来なら出会うべきではない者同士。どう考えても此処を出れば会えなくなる確立の方が高そうだ。
「陛下――」
「うん?」
「陛下はどんなことが好きですか? 趣味とか好きな食べ物とか、それをすると心が休まること」
「随分唐突だな」
「ごめんなさい。陛下の好きなことが知りたくなったんです」
「好きなことか……そうだな、朝日を見る事が好きだ。冷えた夜の空気を切り裂くように空が明るくなり始める瞬間が好きだな。ミナカミはそれを見たことはあるか?」
「そう言われてみると、私朝焼けを見たことがありません。今度早起きして見てみます」
「是非そうしてみたらいい」
麻奈は、帰ったら目覚ましをうんと早くセットしようと心に決めた。
「陛下」
「うん?」
「生きてくださいね」
「また、随分唐突だな」
ビシャードは苦い顔で笑った。
「すみません。……でも、私は陛下と皆のおかげで過去に向き合う決心が付きました。陛下にも、自分だけの幸せな未来を送って欲しいと思っています」
「ミナカミがいない未来でも?」
「はい、私がいなくても」
自分がいなくても幸せになれ、などという自意識過剰な言葉に麻奈は少しだけ自嘲した。きっと他の人が聞いていたら、随分偉そうな物言いだと呆れるだろう。
「はっきりと約束は出来ない。この先どうなるのか検討もつかないからな。だが、この先何年経っても朝日を見る度にミナカミの事を思うよ」
「私も、朝日を見る度に陛下の事を思いだします」
夕焼けの中で、ふたりは別れを予感しながら少しだけ笑った。自分たちの意志だけではどうしようもない事だが、麻奈はその時がきても、なぜか穏やかな気持ちでそれを受け入れられるような気がしていた。そんな少しだけ寂しげな雰囲気を破るように、突然甲高い声が廊下に響いた。
「あぁ良かった、やっと人が見つかった! すみません、ちょっとお尋ねしたいんですが……」
声変わり前の男の子の声。振り向くと、いつの間に現れたのか小さな少年が麻奈の後ろに立っていた。少し戸惑う様子で麻奈とビシャードを見上げている彼は、靴を履いていなかった。
「道を聞こうにも誰も見つからなくて――此処は一体どこですか?」
黒いサラサラした長めの前髪に、利発そうなしっかりした眼差し。彼はいつか見た子ども時代のジュリアンに瓜二つだ。まだ耳にピアスを開ける前、ミカを助ける為に顔を真っ赤にしていじめっ子たちを追い払っていた頃のジュリアンだ。
「あなた……ジュリアンなの?」
「確かに僕の名前はジュリアンですが――。失礼、どこかでお会いしましたか?」
不思議そうにジュリアン少年は麻奈を見上げる。その顔には探るような気配はまるでなく、あどけない表情には屈託がない。麻奈はなぜか無性に泣き出したくなった。
ジュリアンは、ただ己を厭って消えてしまいたかったわけではなかったのだ。彼は今の自分を消し去って、一番幸せだった頃から人生をやり直したかったのだ。それは究極の自己否定に麻奈には思えた。
ミカに去られる自分は自分ではない。誰にも否定されず、真っ直ぐで一番輝いていた頃まで自分をまき戻す。それがジュリアンの望みだったのだ。
何て虚しい願いだろう。麻奈は知らず顔を歪めた。過ぎてしまったことは無かったことになんか出来ないのに……。
いつの間にか乾いていた涙の痕にまた新たな雫が滴った。突然泣きだした麻奈を見て、ジュリアン少年はぎょっとしたように目を真ん丸にした。
「え? 何、どうしたんですか?」
「ごめんね、何でもないの。でも、君はその姿で此処にいるべきじゃないんだよ。――来て」
ジュリアンの小さな手を掴み、麻奈は螺旋階段へと向かった。困惑するジュリアンへの説明は省き、グイグイと引っ張る。時折小さな抵抗を感じるが、麻奈はそれも無視してどんどん歩く。後ろからビシャードも付いてくる足音が聞こえた。彼はこの事態に口を出す気はないらしい。
「ちょっと、待って、どこに連れて行くつもりですか?」
「いいから黙って付いて来て」
かつてないほどの強引な一面を発揮して、麻奈はジュリアン少年を引っ張り回した。大股で廊下を突き進み、真っ直ぐに螺旋階段へと急ぐ。ジュリアンは困ったような顔をしながらも、麻奈の手を振りほどくような素振りはせずに大人しく引きずられている。納得はしていないながらも、抵抗するまで嫌がってはいないようだ。
しかし、三人が螺旋階段のある廊下まで来た時、ジュリアンの足がピタリと止まった。麻奈は繋いだ手を握ったまま、ジュリアンを振り返る。彼は真っ青な顔をしていた。
「急に止まって、どうしたの?」
これには麻奈も驚いた。血色の良かった顔は青ざめ、唇がふるふると震えている。
「そっちには行きたくない……」
ジュリアンは初めて拒絶の意を表し、麻奈の手を力一杯振りほどいた。
「急にどうしたの?」
「僕は絶対にそっちには行かないからな! あんたたちが何をしたいのか知らないけど、僕は家に帰る。もうほっといてくれよ!」
「でも――」
「嫌だ、そっちに行くと頭が痛くなるんだよ。何か……良く分からないけど、嫌なことが起こる気がするんだ」
ジュリアンはじりじりと後退りながら麻奈から離れていく。まるで忌まわしいものから少しでも離れようとするように。麻奈は唇を噛みしめ、ジュリアンを真っ直ぐ見つめた。そして、まるで彼に向かって銃を突きつけ、その引き金を引くような気持ちで口を開いた。
「家に帰っても、もうミカエラはいないんだよ。彼は自分の道を見つけて、ジュリアンの家を出て行こうとしたんだから……」
逃げる足が止まり、麻奈を見上げるジュリアンの目が大きく見開かれた。
「過去に起こったことはどうやっても変わらないんだよ。……ジュリアンの気持ちはすごく良く分かる。私だって、都合の悪いことは全部忘れて無かったことにしたつもりになってたから。でも、それじゃ駄目だったんだよ。忘れたつもりだったのに、夜はいつも悪い夢を見てた。ふとした瞬間に、誰かに責められているような気持になった」
ジュリアンの瞳は不安に揺れている。麻奈は今にも崩れてしまいそうな小さな手を取った。今度はそっと、幼い彼が壊れないように。
「こんな所で自分の殻に閉じこもっていたら駄目なの。だから辛くても頑張って行こう、みんなで家に帰ろうよ」
ジュリアンは今度は抵抗しなかった。ふたりは螺旋階段にゆっくりと近づいた。ビシャードが少し離れた所で麻奈とジュリアンを見守っていた。彼は共に鏡に入るつもりはないらしい。
鏡に映った自分の姿にジュリアン少年は驚いた。無理もない。彼は成長した自分の姿を忘れている状態なのだ。もしかしたら、自分は残酷なことを強いているのかもしれない。麻奈は驚愕する彼を見ながらそう感じた。しかし、訳も分からずこんな所に閉じ込められているのだって酷い事だ。此処には、これ以上の変化も終わりも無いのだから。
「行くよ」
麻奈は大きな鏡へと一歩近づいた。彼とは既に一度、一緒に中に入っている。今度はどんなことになるのか想像もつかなかった。しかし、それでも行くしかない。ジュリアンを導くように手を引き、麻奈は冷たい感触に目をつぶってから、いつもの癖で息を止めた。
麻奈はそっと目を開けた。前回のジュリアンの記憶の続き、つまりはミカが窓から落ちた所からいきなり始まるのかと思っていたが、辺りは見慣れた暗い空間だった。拍子抜けして肩の力を抜いた時、麻奈はジュリアンの不機嫌そうなため息を聞いた。
見上げると、そこにはもう元の姿に戻った彼が黙って麻奈を見ていた。麻奈は安堵と共に今まで彼にされてきたことを思いだし、顎を逸らして睨み付けた。
「何か言いたいことがあるなら、ジュリアンから先にどうぞ」
険しい目を向けてくるジュリアンに、麻奈は臆することなくそう言った。こんなに誰かを心配しながら、それと同時に腹を立てていることは初めてだった。
ジュリアンはむっつりと黙った後、平坦な声で「別に」とだけ言った。
「じゃあ、私から言わせてもらうね」
麻奈は一度目を閉じてから、大きく深呼吸をしてから目を開けた。
「ジュリアンの馬鹿! どうして黙って消えたりしたの。あなたにとって私たちはそんなに頼りなかった? 一度失敗したから、もう何もかもを諦めて此処で一生過ごすつもりだった?」
ジュリアンは目を伏せたまま何も答えない。
「見くびらないてよ! 約束したじゃない――絶対に此処から出してあげるって。それなのに、勝手にひとりで諦めるなんてひどすぎる! ガルドの双子の姉のリーズが協力してくれることになったおかげで、あともう少しで本当に此処から出られるかもしれないのに……」
「あの小さな女の子に何が出来るんだ」
「彼女にしか出来ないことがあるの。とにかく説明は後でするから、今は廃校に戻ろう」
「私は行けないよ。ミカを死なせてしまったのは私のせいだ。どの面下げて戻ればいいのか分からない……。もう元の場所には戻れないんだ」
「だからずっと逃げるの? それでミカエラが喜ぶと思うの? 辛くても、罪はきちんと自分で償わなくちゃいけないんだよ」
麻奈は息を吐いて、蝋人形のように白い顔をしているジュリアンを見上げた。とても複雑な気持ちがこみ上げてくる。なりふり構わず、他人を踏みつけてでも元いた場所に戻ろうとしていたジュリアンが帰れないと弱音を吐いている。その顏は、酷く疲れて傷ついているように見えた。
「私たち、よく似てるね。弱くて、過去の自分を否定したくて、必死で逃げ回っている所なんか本当にそっくり」
ジュリアンは、ただただ力の無い目で暗い地面を見ている。
「ジュリアンのそういう心の弱い部分にすごく腹が立つのに……嫌いにもなれなくてどうしても放っておけないの。だから、私はジュリアンにも絶対に立ち直って欲しいって思ってる。……私も昔、好きな人を殺したことがあるんだよ。階段で口論して、揉みあった結果そのまま彼が落ちていったの。事故だって証明されたけど、すごく辛かった。その時、私を支えてくれる人は誰もいなかったしね。今は皆のおかげで自分の過去に向きあう覚悟が出来たんだよ。本当に感謝してる」
麻奈は目を閉じた。自分のことを心配してくれた、ビシャードやユエやサルーンの顔を思い浮かべると、不思議と心がフワリと温かくなったように感じる。ゆっくりと目を開けて目の前のジュリアンを見た。彼にもそんな存在が必要なのだ。
「ジュリアンには、私がいるよ」
自分でも驚くほど穏やかな声に、ジュリアンが目を見開いたのが分かった。
「ジュリアンの気持ち、すごく良く分かる。元の場所に戻るのは怖いよね……。私だって、私の事を許せない人たちの事を思うと、本当はちょっと怖い。でも、私には味方がたくさん出来たんだって思えるようになったら、気持ちがすごく楽になったの。ジュリアン、あなたは独りじゃない。私はあなたの味方だよ。だって、ジュリアンは本当は良い人だもん。本当は他人を利用したくなんて無かったんでしょう?」
泣きだしそうな、それでいて今にも笑いだしそうな複雑な顔をしているジュリアンに麻奈は微笑んだ。
「やり直したいってことは、後悔しているってことでしょう? だからって、今までやってきたことが悪くなかったとは言わないよ。騙されてたことは結構ショックだったし……。でも大丈夫。今からだってきっとやり直せるよ」
麻奈は固く握られているジュリアンの拳にそっと触れた。
「大丈夫。ちゃんと気持ちを込めて謝れば、みんな許してくれるよ。きっとミカエラもそれを望んでる。彼のお墓にもきちんと謝りに行って。彼も天国でジュリアンを心配して、許してくれるかもしないよ?」
「ミカエラの墓は、まだ無い」
「どうして? 作ってないの?」
「ミカエラが窓から落ちてから、直ぐに此処に来てしまったんだ。私はまだ、彼の亡骸だって見てない……」
ジュリアンはそう言ってから、自由な方の手で目元を覆った。
「全部分かってたんだ。他人を踏み台にしている私は浅ましいんだってこと。他人を蔑みながら、自分の方がもっと汚い人間だと分かっていた。それでも、こういう生き方を選んだのは自分自身だ。もうこのまま進むしかない」
彼の目を覆う指の隙間から涙が流れる。
「ごめん。君にしてきたことも、こんな風に謝ったって許されないことは分かってるんだ――。ごめん麻奈。本当にごめん……」
「ジュリアン、私の話をちゃんと聞いてた? 私は、謝れば許すって言ったの! それに、私はジュリアンの味方だって言ったのに、それも聞いてなかったの?」
目元を覆っているジュリアンの手を、麻奈はそっと剥がした。涙に濡れている黒い瞳を覗き込むと、その中に微笑んでいる自分を見つけることが出来た。
「駄目な人――私は、もうとっくに許してるよ。駄目で意地悪で狡い人だけど、私はジュリアンが好きなんだから」
麻奈はその勢いのまま、ジュリアンの頬に口づけた。塩辛い涙の味がした。