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麻奈のトラウマ 5

 アイロンがしっかりとかけられている皺のないシャツを着て、制服の袖に手を通す。以前は毎日着ていた物なのに、久しぶりのそれは酷く重たく感じる。まるで制服の内側に鉛でも仕込まれているかのようだ。


 麻奈は全身が映る鏡の前に立ち、自身の姿をチェックした。おかしいところは得にない。制服に包んだ体はほんの少しだけ痩せたような気がするが、今は全く嬉しくなかった。もう前の自分とは違う。麻奈は鏡の中から暗い瞳で見返してくる自分の姿を見つめながらそう思った。目つきも、表情も、立場さえも……。


 正直な気持ちを言えば、もう学校には行きたくない。一生自分の部屋に閉じこもったまま、そこで死にたいと思っていた。しかし、そんなことは不可能だということは分かっている。どこかで立ち直らなくてはいけない。そして、それが遅くなるほど立ち上がるのは難しくなってしまう。麻奈はそんな焦りにも似た気持ちから、今日学校に行くことを決意した。


 制服姿で階段を降りると、母親が驚いた顔で麻奈を見た。真昼に幽霊でも見たような顏だ。


「学校、行ってきます」


「ま、待って。車で送ろうか?」


 麻奈は少し考えてから首を振った。事件後に取材を求めて集まった報道関係者も、最近では全くその姿を見せなくなった。どうやら、世間ではもっと刺激的な事件が起こっているらしい。


「もう歩いて行けるから大丈夫」


 朝食も断りそのまま家を出て歩き出す。学校までは徒歩で十分の道のりだ。まだ早い時刻に家を出たので、他の生徒に会うこともない。麻奈は重たく感じる鞄を抱えながら、通い慣れた道をのろのろと歩いた。


 最初に違和感に気が付いたのは、家の角を曲がった所だった。サラリーマンばかりとすれ違う住宅街は、普段学生たちの溢れかえる普段の道とはまるで雰囲気が違う。そのせいだろうかと思ったが、どこか胸がざわざわと激しく騒いだ。


 何気なく目を向けた電信柱の貼り紙を見て、麻奈は一瞬で凍りついた。それは、ほんの小さなメモ紙ほどの大きさだったが、マジックの殴り書きで『人殺し』と書かれていた。どこかで見たことがあるような字だった。


 丁度麻奈の目線の高さに貼られたそれは、良く見ると通学路に立っているすべての電信柱に貼られている。『許さない』『犯罪者』言葉は違えど、それは確実に麻奈に向けられた言葉だった。


 麻奈は恐ろしくなった。自分に向かって真っ直ぐに悪意が突き刺さったような気がした。まるで世界中が敵になってしまったようだ。鞄を抱え直して逃げるように走り、これ以上何も視界に入れないようにずっと下を向いていた。


 麻奈は息を吐きながら下駄箱の前で肩を落とした。もう気持ちが挫けそうだった。しかし、こんなことはまだまだ序の口だった。上履きを取ろうと自分の靴箱に手を伸ばし、麻奈はそのまま固まった。


 麻奈の上靴が真っ黒になっている。まるで、誰かの押さえられない怒り表すかのように、靴箱の中に墨汁がぶちまけられていた。むせかえるような墨の匂いに口元を覆った。まだ乾いていない墨が靴箱から黒い雫となって滴り落ちる。きっと、ついさっきやられたばかりなのだろう。


 上履きを捨てられたり隠されたりするよりも、これは数段不気味でもっともっと威力があった。麻奈はブルリと体を震わせた。背中から這い登ってくるような敵意。


 知らなかった。孤独って、寒いんだ……。


 麻奈は初めて感じた言いようのない寒さを、精一杯気が付かないふりをした。ここで崩れてしまえば、きっともう二度と学校に来られなくなってしまう。


 麻奈は事務室からスリッパを借りて、教室に向かった。まだ早い時間なので、生徒の影もまばらだ。逃げ出したい気持ちを抑え、麻奈は教室の扉を開いた。


「おはよう」


 いきなり声をかけてきたのは、聖華だった。いつもよりも広く感じる教室には彼女の姿しかない。麻奈は挨拶を返すことも忘れ、扉の前に立ち尽くしていた。


「聖華、何してるの?」


「何って、見た通りだけど」


 ひょいと肩を竦める聖華は、困ったように麻奈を見上げた。その手には、彫刻刀が握られている。


「ようやく学校に来たんだね、麻奈。今まで家でなにしてたの?」


 そう言って、聖華は彫刻刀を机にダンと突き刺した。そのままギギギギと耳障りな音を立てて机に傷をつける。麻奈の机は、傷と落書きで酷い有様になっていた。


「そこ、私の机……」


「知ってる」


 いつもの小動物のような真ん丸の瞳が、麻奈を捉えたまま嫌悪するように歪んだ。


「何でそんな傷ついた顔するの? 麻奈にはそんな資格ないんだよ。自分が何をやったのか、ちゃんと解ってるの?」


「私、わざとじゃなかった……何度もメールで謝ったよ。見てくれたでしょう?」


「あんたなんかの気持ち悪いメールなんて、見るわけないでしょ!」


 聖華は赤い顔をして彫刻刀を投げつけた。固い音がして彫刻刀が床に突き刺さる。


「大和先輩の事が好きだったくせに、よくもあんなことが出来たよね! 手に入らないから殺したの? それとも私への復讐のつもり?」


「復讐なんて……」


「麻奈が先輩にあげてたプレゼントの事――。本当は悔しかったんでしょ? 口では気にしてないって言ってたけど、納得いかないって顔してたもん」


「そんなことない」


「嘘つき。あの時すごい怖い顔してたの、私が気が付いていないとでも思ってんの?」


「私、そんな顔してないよ」


「ねぇ、先輩返してよ。まだ初めてのデートもしてないのに……。こんなのってあんまりだよ! 大和先輩の代わりに、麻奈が死んじゃえばよかったのに!」


 聖華は顔を覆って泣き出した。その声を聞いて、登校しだした生徒たちが集まり始める。麻奈と聖華のふたりを中心に、さざ波のようにざわめきが広がっていった。


「何? 喧嘩?」


「あぁ、あの三年生を突き落した人でしょ」


「振られた腹いせでそんなことしたの? 信じらんない!」


 麻奈は立ちすくんだまま制服のスカートを握りしめていた。揺れる。視界が、世界が揺れる。こんなに足元がグラグラしているのに、どうして皆は普通に立っているのだろう。麻奈は眩暈を感じながら聖華の泣き声を聞いていた。


 この日を最後に、麻奈は二度とこの学校に来られなくなった。あと一年過ごす予定だったここでの生活は、麻奈が歩むはずだった未来と共に完全に断たれた。


 いつの間にか乗せられていた母親の車の中から、ぼんやりと通学路の立っている電信柱を見て、麻奈は声を殺して泣いた。あのメモ紙を書いたのは、恐らく聖華だろう。右肩上がりに書かれた基本に忠実な字は、彼女の字に良く似ていた。自分はそれほどまでに恨まれ、憎まれていたのだ。


「もう私には、何にも残ってない」


「何か言った?」


 後部ミラー越しに心配そうな母親と目があった。麻奈は首を振ってそれに答える。母親に心配させないように、出来るだけ何気なく。しかし、心は酷く冷えていた。


「お願いがあるの」


 家に着いた麻奈は、ため息を吐いてソファーにもたれている母親にそう切り出した。怪訝そうな顔で首を傾げる彼女に、麻奈は改まった態度で頭を下げた。


「私、家を出たいの。転校して、独り暮らしをさせてください」


「な、突然何を言っているのよ」


「本気なの。誰も私の事を知らない場所に行きたい。私はもう、ここにはいられないんだよ。これ以上ここに居たらおかしくなりそうなの! お母さんだってそうでしょう? もう私のことで煩わされるのは嫌なんでしょう?」


「麻奈……」


「だからお願い、私に独り暮らしをさせて。お母さんたちに迷惑はかけないように頑張るから」


 母親は何度も瞬きを繰り返して麻奈を見つめた。混乱しているようだ。しかし麻奈はこのとき、母親の戸惑った表情の中に安堵の色が混じっていることに気が付いてしまった。腫物に触れるように麻奈を扱うのも限界だったのだろう。


「いいでしょう。そこまで言うのなら、その通りにさせてあげる。でも、何かあったときにはお母さんに連絡をするのよ」


 心配はしてくれているらしい。しかし、麻奈には何もなければ連絡をしてくるなと聞こえた。自由になった。たった今、自分に雁字搦めに巻きついていた鎖から解放された気がした。しかし、麻奈の心は晴れなかった。





 昔の自分の会話を見て、麻奈はとても複雑な気持ちになった。もしかすると、自分はこの時間違った選択をしてしまったのだろうか。独り暮らしなどしなければ、この廃校に閉じ込められることも無かったのかもしれない。苦しみから安易に逃れたから、その付けが回ってきたのかもしれない。


「大丈夫か?」


 暗い瞳でぼんやりとしていた麻奈を現実に引き戻したのは、ビシャードだった。


「あ、大丈夫です」


「これでミナカミの話も終わりか?」


 懐かしい自宅だった景色は、いつの間にか消えて無くなっていた。辺りはいつもの星空を映したような真っ暗な場所に変わっている。


「はい。私はあの後、すぐに家を出ることが出来ました。独りでの暮らしは意外に大変だったけど、充実してました。何より、私の事件を知っている人たちがいないというだけで、本当に心が軽くなったんです」


「独りは寂しくなかったのか?」


「ほんの少しだけ……。でも、新しい生活に馴染むことに必死だったので、寂しがる余裕はあんまり無かったです」


 麻奈は独りでの生活を振り返った。不思議なほど寂しいという感情は湧いてこなかった。そして新しい生活に慣れるにつれて、自分が犯した事件の事や聖華の事、水泳の事など全てをなかったことにしたのだ。


 人の記憶は不思議だと麻奈は思う。本当は一度も行ったことが無いような場所でも、そこに旅行したことがあると強く思えば、本当にその場所に行ったような気持になってくる。記憶としてそう植えつけられるのだ。その逆もまた然りで、大和を突きおとした事件を無かったことにしたいという麻奈の強い思いは、辛い事件のことを綺麗さっぱり記憶から排除してしまった。


「私、ずるいんです。自分のやったこと全部忘れて、自分だけが幸せになろうとしてたんです。私のせいで苦しんでいる人たちがいることを知っていたのに、全部放り投げて楽な方へと流されてしまった……」


「――仕方がないさ。それに、ミナカミだけが悪いわけじゃない」


「でも、今すごく辛いんです。過去の罪を思いだしただけじゃなく、弱い自分をまざまざと突きつけられているようで、本当に嫌になる。――出来る事なら、このまま消えてしまいたいくらいです」


「では、一緒に逝くか?」


「え?」


 驚いて見上げたビシャードは、穏やかな顔をしていた。優しい問いかけは、死への誘いだ。


「住んでいた世界が違っても、共に死ねば同じところに行けるのだろうか? それとも、どこにも行けないのだろうか……。ミナカミの好きにしていいんだ。余は、それに付き合う覚悟は出来ている」


「なんで、なんで貴方はそこまでしてくれるんですか」


「生きていることに疲れたのは、余も同じだ。あの時、ミナカミがあまりに一生懸命に余を助けるものだから、このまま生きてみるのも面白そうだと思ったのだ。だが、そなたがいなくなってはそれも意味がない」


「私、私は……」


 差しのべられる細く骨ばった手に、麻奈はそっと触れた。少し冷たい。だが生きている。あの時血まみれだったビシャードを生かしたいと願ったのは自分だ。この手の主を、死なせたくはない。


「私は死にません。生きてここを出て、これから私に出来る償いをきちんとします」


 顔を上げた麻奈に、ビシャードは優しく微笑んでいた。安堵したように、少し寂しそうに……。

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