麻奈のトラウマ 4
マナーモードに設定した携帯電話が震える音は、どこか虫の羽音に似ている気がする。布団を頭からかぶった麻奈はぼんやりとそう思った。
電波を受信した振動と共に、暗い部屋に小さな緑色の小さなライトが点滅している。麻奈はベッドの中から恐る恐る顏をだし、手を伸ばして携帯を取り上げた。
「……また違う」
ディスプレイを確認してから、まるでゴミを捨てるように無造作にそれをベッド脇へと放り投げた。数回バウンドして沈黙した携帯にもう興味はなく、麻奈はまた布団の殻へと閉じ籠った。
この時、麻奈は聖華からのメールを待っていた。もう何通も彼女にメールを送っているのに、一通も返事は返ってこない。彼女にひたすら謝り、あの日何が起こったのかを分かってもらおうと、何度も何度も震える指で送信ボタンを押し続けた。しかし聖華からの返事は無く、その代わりのように、どこでアドレスを調べてくるのかは知らないが、見知らぬ人たちから『人殺し』『もう学校に来んな』といった悪意のあるメールが送りつけられていた。
知らない番号。顔も名前も知らない人たち。そんな人たちに、こちらだけが全てを知られているのは酷く耐え難い事だ。ほんの悪戯半分で送りつけられる罵詈雑言に、麻奈の神経は容赦なく削られた。携帯を見る度に吐き気や頭痛に悩まされる日が続く。それでも、麻奈はメールを確かめられずにはいられないのだ。聖華と連絡が取れるまでは、どうしてもやめるわけにはいかない。
許してとはとても言えない。それだけのことをしてしまったのだ。聖華は大和の死に心を痛め、きっとメールにさえ気がついてはいないのかもしれない。今も大きな瞳を腫らしながら、泣いているのかもしれない。
いっそのこと激しく責めてくれればいい。そうすれば、少しは罪が購えるような気がするのに……。
謝り続けながら、麻奈はそんなことを考えていた。しかし、彼女からの連絡はいつまで待ってもかかってはこない。聖華に無視され続けることが、麻奈にとって一番の罰を与えられているようだった。
学校へも行けず、部屋からも最小限しか出て行かない生活が続いた。初めは食事ごとに声をかけてくれた母親も、麻奈を部屋から出すことを諦めたのか遂に何も言わなくなった。
麻奈の肩に重く圧し掛かっていた将来への期待は、母親の中ではいつの間にか消え去ってしまったようだ。無理もない、と麻奈は自嘲気味に笑った。こんな事件を起こしてしまったら、もう家を継ぐことなど出来るはずもない。それどころか、麻奈のスキャンダルは病院の存続すら危うくしてしまったのだ。
母親は日に日にヒステリックに父親と言い争い、父親に至っては麻奈の部屋に近寄ろうともしない。きっと顔を見るのも煩わしいのかもしれない。皆口には出さないが、無言で麻奈を責めていた。まるで、針の莚だ。麻奈はますます心を閉ざして部屋に閉じこもった。
麻奈は薄暗い部屋でぼんやりと丸くなりながら、机の上をぼんやりと見つめていた。どこかの土産屋で買った陶器で出来たペン立てが乗っている。いつも当たり前にそこにあったそれは、今までその存在を忘れていたほど。ペン立てには、シャープペンシルと共にカッターナイフが立っている。
出来るだろうか?
麻奈は頭の中でカッターを掴み、チキチキと刃を押し出した。あまり長く出すと力が入りにくいかもしれない。それを左の手首に宛がい、一息に引く。
麻奈は立ち上がった。何だかとても簡単に出来そうな気がした。シュミレーション通りにカッターを掴んで刃を押し出す。音まで想像した通りだった。麻奈は左手を持ち上げ、カッターの刃をひたりとそこに当てた。
一番太い青い線の上。後は、さっき頭の中で実行したようにそれを引くだけだ。それで全てのことから逃げることが出来るのだ。
麻奈は深く息を吸って――止めた。
想像では、カッターは薄い皮膚を切り裂いて容易く血管を切断するはずだった。しかし、麻奈はカッターを握りしめたまま一ミリも刃を動かすことが出来なかった。
怖かった。傷つくことが、血を流すことが、ただ無性に怖かった。
「……意気地無し」
麻奈はその場に膝から崩れ落ちた。固い音を立ててカッターが床に転がった。涙さえ出てこなかった。
麻奈は過去の自分から視線を外し、そっと詰めていた息を吐き出した。哀れで、惨めな気持ちだった。
今まで何も言わずに同じ光景を見ていたビシャードが、突然麻奈を振り返った。驚く麻奈に構うことなく、彼は麻奈の左手を取ってその内側に顔を寄せた。
「傷なんてありませんよ。だって私――出来なかったんですから」
ぽそりと呟く麻奈の言葉はビシャードの耳にも届いていたはずだ。それでも、彼は手首の検査を止めなかった。まるで、麻奈の言葉など信用出来ないとでもいうように。
「本当に大丈夫です。その後も何度か試したんですけど、結局いつも駄目でした。私にはそんな度胸なんてないんです――」
「もう二度とやってはならない!」
いつになく強い口調で言われ、麻奈は驚いた。垂れた瞳を精一杯吊り上げて、ビシャードは瞬きすらせずに麻奈を見つめる。
「これは友としてのお願いだ! ミナカミがいなければ余は生きてはいなかった。だから、ミナカミが死ねば余も後を追う!」
「そんな……大袈裟です。それに、私意気地なしだからこんなこと出来ませんよ」
「一度やれば癖になる。ミナカミも言ったではないか、あの後何度か試したと。記憶が戻った今、また発作的に繰り返したくなるかもしれない。だから、肝に銘じておいてほしい。ミナカミが死んだら、余も生きてはいない」
「……はい」
「自分を大切にしてくれ。自分の為に、余の為に――」
いつもは泣き虫な王様に泣かされた。麻奈は輪郭がぼやけ始めたビシャードを見上げながら、鼻を啜って頷いた。