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麻奈のトラウマ 3

 非常階段の踊り場で、麻奈は過去の自分を見つめていた。その行いの一部始終を余すところなく――。


 気が付けば、いつも何かが起こるのはこの踊り場という場所だ。もう金輪際こんな所には立ちたくないと麻奈は思ったが、足が全く動かない。気が付けば、全身がカタカタと小刻みに震えていた。


 自分はなんて恐ろしいことをしてしまったのだろう。そして、こんなにも重大な事件を全て忘れて暮らしていたなんて、何て罪深いのだろう。麻奈は何よりも自分自身が恐ろしかった。


 あの時は無我夢中で、何がどうなったのか分からなかったが、今なら全てが理解出来た。麻奈は大和を突き飛ばしたのだ。鞄を振り回して掴みかかろうとする大和の頭に一撃を加え、怯んだその体を思いきり階段の下へと押した。今ではその時の大和の体温や汗で湿ったワイシャツの感触までしっかりと思い出せる。


 麻奈は両手を見下ろした。今も震えが止まらないその手は、血が滴る真っ赤な手に見えた。


「しっかりしろミナカミ。大丈夫だ」


 ビシャードが麻奈の震えを止めるように麻奈の肩を引き寄せた。骨が当たる固い腕の中に抱かれても、麻奈の震えは収まらなかった。もしかしたら、もう一生止まらないのかもしれないと麻奈は思った。


「わ……私が、先輩を殺した!」


「見るんじゃない。ゆっくり息をして余の声だけを聞くんだ」


「でも……」


「いいから。何も考えずに深呼吸をしなさい」


 目を塞がれ、ビシャードが子どもをあやすように囁いた。悲鳴が飛び交う凄惨なこの場にはそぐわない囁き声は、どういうわけだか麻奈の耳にはよく響いた。少し掠れたビシャードの声に従って麻奈は大きく深呼吸をする。恐ろしいほど激しいかった動悸が、少しずつ治まっていくような気がした。


「私、最低です。陛下にはあんなにエラそうなことを言っておいて、結局自分も同じことをしてた。いえ、相手を殺してしまった私の方が酷い事をしているのに――」


「余が父親を突き落とした時のことを言っているのか? そうだな、考えてみればミナカミも同じような経験をしていたのだな」


 ビシャードは麻奈の目を覆っていた手をそっと外した。それに合わせて麻奈も目を開ける。心配そうなビシャード越しに、呆然と階段の下を見下ろしている過去の自分が目に入る。何の表情も浮かべていないその顔は、明らかに現実に起きた出来事の把握を今日日しているように見える。


 実際、この後に起きたことを麻奈は記憶していない。気が付いたら職員室の来客ようのソファーに座らされ、この世の終わりのような顔をした教師ふたりに挟まれるように脇を固められていたのだ。


「良かった。呼吸が戻ったな」


 ビシャードがホッと息を吐いた。麻奈の視線を辿り、彼も過去の麻奈に目を向けた。


「あの少年を殺めたことを気に病んでいるのか?」


「……はい」


「気にすることはない。ミナカミは自分の身を守るために仕方なく抵抗したのだ。あれは、不運な事故だったのだよ」


「一部始終を見ていた人たちも、みんなそう証言してくれたそうです。私は多少の過失が認められることはあっても、結局罪には問われませんでした。でも、そういうことじゃないんです。人を殺すということは、もっとずっと重い事でした。――私はこの事故で、異端者になってしまったんです」


「異端者?」


「私の国ではほとんど争い事は起こりません。全部話し合いとお金で解決します。そんな世の中で、故意ではなくても人を殺した人間が紛れ込めば、たちまちつま弾きにされてしまいます」


「しかし、悪いのはあの男の方だ。どんな理由があろうとも、先に手を出したほうが悪い。違うか? 例え勢い余って相手を殺してしまっても、それが正当防衛であれば余の国では誰も何とも思わないぞ」


「私の国は誰もが殺人に慣れていないんですよ。罪に問われなくても、生理的に受け付けないんです。私はそんな周りの目に耐えられなかった……」


 麻奈のその言葉を皮切りに、今まで絶えず聞こえていた悲鳴が少しずつ薄れた。それがやがてぷつりと途切れると、まるでそれが合図であるかのように辺りの景色が溶けて崩れた。


 いつも唐突に感じていた場面転換だが、麻奈は自分の番が回ってきて初めて、そのタイミングの良さに納得した。今の場面ではもう見せるべきシーンは終わったのだ。


 次に起こるのはどんなことだったっけ――?


 麻奈はぼんやりとそんなことを考えながら変わり始めた風景を眺めた。


 次に現れたのは、薄暗い部屋だった。カーテンが固く閉じられ、おまけに雨戸まできっちりと閉めてある。ベッドに横たわり、頭から布団をかぶって理うのは間違いなく過去の自分だった。


 そんなことをしても自分の殻に完全に閉じこもることは出来ないのに……。


 まるで哀れな繭を作る虫のような自分の姿を見下ろして、麻奈は既に皺の寄ったシャツの胸元に手を当てた。さっきから息が苦しいのは、きっと気のせいではないのかもしれない。


「麻奈、もういい加減に下に降りてご飯を食べてちょうだい。もう何日もまともに食べてないのよ」


 ノックの音と、憔悴したように力のない母親の声が聞こえた。しかし、布団の中の麻奈はそれには答えない。扉の前で母親が大きなため息を吐いた。もう何度目かの説得も、言葉のバリエーションが尽きたらしい。説得を諦め、ゆっくりと娘の部屋から遠ざかる母親の足音だけが静かな家に響いた。


 その時、電話の鳴る音が聞こえた。いつもなら何気ない音に聞こえていたはずなのに、どういうわけかこういう時には陰気で不吉な音に聞こえる。慌てて階段を降りていく母親の足音の後に「もしもし」という小さな声が聞こえた。


「あぁ……あなた。どうしたの? まだ部屋に閉じこもったままよ。――あなたは簡単にそう言うけど、私だって精一杯やってるわよ! ――あなたが育て方をどうこう言える立場なの!」


 初めは小さかった声も、次第にヒステリックに大きくなっていく。これでは二階にある麻奈の部屋まで母親の声は筒抜けだった。


「これが現実のことだと信じられないのよ……。まさか、あの子が先輩を階段から突き落としただなんて。そんな残酷なことが出来たなんて――もう自分の子どもだと思えないの!」


 いつもは小言で煩かった母親が、この一件では麻奈に何も言わなかった。ただ蒼白な顔をして、まるで腫物に障るように麻奈に接したのだ。


 涙交じりの声をもう一度聞かされて、麻奈はいつの間にか諦めに似た笑みを浮かべていた。この言葉を聞いた瞬間、自分にはもう母親はいなくなってしまったんだ。


 何もかもが歪んでしまったのだ。警察署で体験した事情聴取も、無理矢理連れて行かれた病院のカウンセリングも、全てが現実だとは思えなかった。麻奈の心は、ただ深い水底に沈んでしまったかのように外界の刺激をシャットアウトしていた。


「……何だか人魚姫みたい」


 過去の麻奈がポツリと漏らした言葉が、ひっそりと静まり返る部屋に虚しく消えた。


「人魚姫とは?」


 ビシャードが首をひねった。


 麻奈は可笑しくなって笑った。こんな状態であるのに、悲劇のヒロインに自分を例える余裕がまだ残っている過去の自分が、酷く滑稽に思えた。


「古い童話です。嵐の夜に転覆した船から王子を助けた人魚姫が、彼を好きになるお話です。恋を成就させるために陸に上がる決意をした人魚姫は、海の魔女の所に自分を人間にしてほしいと頼みに行くんですが、その代償に声を失うんです。そして、ある呪いをうけました。この恋が成就しなければ、泡になって消えてしまうだろうと。それでも人魚姫は心変わりせず、人間の足を手に入れて王子のいるお城に向かいました。でも、彼は自分を助けてくれた人魚だとは気が付いてくれません。それどころか、他の国の娘をそうだと勘違いしてその娘と婚約してしまうんです。人魚姫は声が出せないので、自分が王子を助けたのだと名乗り出ることも出来ない……」


 麻奈は、幼い頃に読んだきりの人魚姫の絵本を思い出しながら語った。悲しそうな顔をして王子を影から見ている人魚姫。なぜか、話せば話すほどバカバカしいような気がしてくる。


 しかし、ビシャードは麻奈の話を真剣に聞いていた。


「それで終わりか?」


「いいえ。悲しんだ人魚姫の前に、彼女の姉姫が姿を現します。そして、人魚姫に言うんです。『この短剣で王子の心臓を刺しなさい。そうすればお前は泡にならずに済みます』それを聞いた人魚姫は短剣を持って王子の寝ている部屋へと忍び込みます。でも、結局王子を殺すことが出来ずに、彼女は自分から海の中に飛び込んで、泡になって消えてしまうんです」


 話し終えた麻奈は、途方もない疲労感を覚えた。ビシャードは黙って最後まで聞いてから、ゆっくりと頷いた。


「美しいが悲しい話だ。確かにミナカミの過去と少し似ているな」


「下らない考えです。でも――本当は、私は聖華になりたかった。先輩が聖華を好きになったきっかけが、私が差し入れていた手紙とプレゼントだったと聞いた時には頭を殴られたような衝撃でした。どうして名前を書く勇気がなかったんだろうと今でも思います。そうすれば、先輩の彼女のなれたのは私だったのに! 聖華が横から入ってきて、全てを奪っていったんです。あの童話の女みたいに!」


 麻奈は息を吐いて肩を落とした。


「私は、王子を殺してしまった人魚姫なんです。自分の気持ち殺すことが出来ずに、あの時全てを憎いと思ってしまった。私のしたことを自分の手柄のように横取りした聖華も、聖華のことしか考えられない先輩も、全部全部憎かったんです。本物の人魚姫のように、自分の気持ちを殺してじっと耐えていれば、誰も死なずに済んだのに……」


 麻奈はじっと手を見つめた。そこには小さな鱗が一枚、鈍く光っていた。

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