麻奈のトラウマ 2
一部残酷な表現を含みます。
「ごめんね麻奈。私、大和先輩と付き合ってるんだ」
突然切り出された友達の告白に、麻奈は帰り支度の手を止めて固まった。もう既に知っているとは言えず、つやつやと光を反射する聖華の頭頂部を見ながら、麻奈は曖昧な返事を返した。もっと大きなリアクションを期待していた聖華は以外そうな顔をしていたが、麻奈はそれ以上のことはしたくなかった。
あの告白シーンを目撃したその後、麻奈はどうしても部活に顔を出せずにいた。水泳部は男女共同の部活なので、カップルが誕生した際の冷やかしも盛大なものになる。今の麻奈には、そんな空気に耐えられるだけの余裕はない。
実は、三日も部活を無断で休んでしまったので、ついさっき指導する教師から個別に説明を求められたばかりだった。麻奈は仕方なく、家の事情で休んでいたと苦しい言い訳をした。しかし、部活をさぼってしまった間も毎日のトレーニングは欠かしたことはなかった。
麻奈は塾を終えた後、トレーニングジムでひとり黙々と泳いでいた。塾を休むことは許されないが、夜中ジムに行くことは許可されている。麻奈にとっては、これが最後の大会なのだ。悔いは残したくはなかった。
そのことを教師に説明すると、彼は同情のため息と共に励ましの言葉をくれた。そして、少しでもタイムが落ちていれば、すぐに選手を入れ替えるから覚悟しろと冗談交じりで脅したのだ。
「それでね、もういっこ麻奈にごめんねなんだけど……」
聖華の申し訳なさそうな声に、麻奈は現実に引き戻された。そういえば、大和先輩とのなれ初めを聞かされていた最中だったと思い出す。
「麻奈が大和先輩に差し入れしてたって事をね、秘密にしていてほしいの。だってね、どういうわけか先輩は私が差し入れてたんだと勘違いしてたんだよ。私もついその場の雰囲気で、そうですって言っちゃたんだよね。なんでそんな勘違いしたのかは私も良く分からないんだけど、多分プレゼントを下駄箱で見つけた後に私がその辺りをうろうろしてるのを見たとか、そんなところだと思うんだけど。麻奈には本当に悪いと思っているんだけど、あれは私がやったことにしてもいいかな?」
「いいよ。どうせ聖華以外に誰にも話したことなんてないし……」
「良かった。本当にごめんね」
「もういいから。そんなことより、聖華も大和先輩のことが好きだったの?」
「うん。麻奈が先輩の事が好きだって言い始めたから、なかなか言い出せなくて」
チラリと上目使いの瞳で、聖華は申し訳なさそうに麻奈を見る。その仕草が小動物のようで、麻奈は肩から力が抜けていくような気がした。可愛らしい女の子は得だなぁ。そんなことを考えながら、敗北感と苦笑がこみ上げてきた。
「私に遠慮せずに言えば良かったのに。でも、良かったね。もうデートはしたの?」
「まだ。大会終わるまでは控えようと思ってるんだ。だから大会終わるのが楽しみんだぁ! それはそうと、今日は部活来れるの? みんな心配してるよ?」
「あ、ごめん。今日も早めに塾に行かなきゃいけないんだ。明日には何とかなりそうなんだけど、うちの親勉強には最近特に厳しくて」
「そっか。麻奈のお兄さんが家出しちゃったから、もう跡取りは麻奈に決定なんだもんねぇ。大変だね、私立病院継ぐのは」
「本当だよ。お兄ちゃんが一身に受けてた重圧が全部こっちにかかってくるんだから、大変なんてもんじゃないよ。あぁ、もうこんな時間だ。じゃあ、部活のみんなに明日は顏出すって伝えておいて」
麻奈は参考書の入った分厚い鞄を肩にかけ、聖華に手を振った。彼女もヒラヒラと手を振り返し、軽い足取りで部活へと向かう。その後姿を羨ましいと思いながら、麻奈は歩き出した。
一階には下りず、麻奈は廊下の隅にひっそりと存在する鉄の扉を開けた。滅多に使われることのない、しかし普段から施錠されているわけでもない非常階段の扉を開き、麻奈は吹きさらしの非常階段を上る。石造りの階段は、底の薄い上履きで上るとゴツゴツとした固い感触がする。
一番上まで来ると、中庭のテニスコートが良く見えた。そこで練習に励む友達を見つけ、麻奈は彼女に手を振った。テニスコートからもこちらの様子が良く見えるようで、友達はすぐに手を振り返してくれる。
オープンすぎて、あまり密会向きの場所じゃないなと麻奈は思った。麻奈はポケットにしまってあったメモ紙を取り出した。皺くちゃになったそこには、シンプルな文字で放課後非常階段に来てほしいと書かれていた。
「あれ、俺の方が先だと思ったのに、水上の方が先に来てたのか」
階段を上がって来たのは大和だった。麻奈は不思議な気持ちになりながら、彼に頭を下げて挨拶をした。これでは待ち合わせをするカップルのようだ。
メモには彼の名前が書かれていたのだから、大和が来ることは知っていた。しかし、彼女持ちの先輩が人目を忍ぶように自分と二人きりになるのは、何だか周囲に誤解を招きかねない。
聖華に悪いと思わないのだろうか。
軽い怒りも湧いていたが、心の底ではこの状況を喜んでいる自分を自覚していた。しかし、大和の口から出てきたのは、麻奈が期待したような言葉ではなかった。
「はっきり言うんだけどさ、水上は今度の大会の選手を辞退するべきだよ」
「え?」
「お前、最近全然練習に来ないだろう。なんか事情があるらしいけど、お前よりもっともっと努力してる奴がいるのに、そいつが大会に出られないなんて理不尽だろ?」
麻奈は何を言われているのか分からなかった。大和の言葉は止まらない。
「みんな必死なんだよ! 遊び半分じゃないんだ。それなのに練習にも来ない奴がみんなの代表として大会に出るなんて、俺は納得出来ない」
「……先生の許可は取っています」
やっと出た麻奈の声は震えていた。大和は悔しそうに顔を歪め、吐き捨てるように言った。
「あの先生はタイムが全てなんだよ。俺が抗議しに行ったら、タイムが良いかぎり水上は選手のままだと言っていた。でも、俺はそんなのおかしいと思う。真面目に取り組んでる奴が大会に出るべきだ。――聖華はさ、自分が選手でもないのに皆が帰ってからもずっと練習してるんだよ。選ばれなかったのが悔しくて、どうして自分じゃないんだろうって泣くんだよ。聖華のそんな姿見せられたら、俺の方が堪んないんだよ」
麻奈は指先から血が凍るような冷たさを感じた。まるで、血が逆流しているようだった。
聖華はそういう人間だ。真っ直ぐで一生懸命で、思わず応援したくなるほど一途だ。しかし、彼女は自分の感じたことを感じたままに撒き散らす。聖華が悪い訳じゃない。それは分かっている。しかし、自分だって悪るいことなどしていない。
「私だってこの大会にかけてるんです。……私には、これが最後の大会なんです」
「途中で辞めるなら、なおさら他の奴に譲れよ。最後まで部に居られないのに、他の奴から機会を奪うな」
「でも、でも……私」
大和は一度大きく呼吸を吐くと、ぞっとするほど冷たい目つきで麻奈を見た。
「どこまでいっても、私、私かよ。お前って、自分が良ければ他の奴がどうなろうが、どうでもいいんだな」
「そんな……」
「もういい。頼もうとした俺が馬鹿だった。どうしても譲りたくないんだったら――怪我してでも譲ってもらう」
不穏な空気を感じて、麻奈は大和から一歩離れた。彼はまるで、敵でも見るかのような異様な目つきで麻奈を見返していた。
「ちょっと怪我するだけだ。足を捻挫するだけでいいんだ」
「止めて、止めてください!」
大和の腕が麻奈へと延びる。麻奈はそれに捕まるまいとして狭い階段のスペースを逃げ回った。危うい場所で揉みあうふたりに気が付き、中庭にいたテニス部の部員たちが階段の下に集まり始めていた。
麻奈は彼らに助けを求めようとした次の瞬間、もの凄い力で腕を引かれた。階段から落ちると思った瞬間、麻奈の頭は真っ白になった。だから、自分が肩にかけていた鞄を持てる力の限りで振り回したことなど、完全に理解していなかった。
あ、という形のまま口を開けて落下する大和。麻奈はそれをスローモーションのように見下ろしていた。落下する大和は間抜けなほど驚いたような顔をしていた。それだけが目に焼き付いて、彼が落下した後に響いたゴンという鈍い音は麻奈の耳には届いてはいなかった。
誰かの鋭い悲鳴が上がった。麻奈がのろのろとした動きで下を覗き込むと、横たわる大和を中心とした人だかりの隙間から、ちらりと赤い物が見えた。麻奈はこの時初めて、大和を突き落としてしまったことを理解した。