麻奈のトラウマ 1
水の音が聞こえる。強すぎる光が和らいだのを感じて、麻奈は恐る恐る目を開いた。ドーム型の天井にウワンと響く水音と声援を送る人の声。鼻を刺激する塩素のつんとする匂いと衣服に纏わりつく湿気。そこには、麻奈にとっては懐かしくも胸が痛む光景が広がっていた。
麻奈とビシャードは、水しぶきを上げながら泳ぐふたつの影を見つめながら、濡れたプールサイドに並んで立っていた。
「ここは?」
嗅ぎ慣れない匂いに顔をしかめながら、ビシャードが袖で鼻を覆った。
「ここは学校のプールです。私は水泳部だったので、放課後はよくここで泳いでいました」
麻奈の説明の半分も分からないと言った顔で、ビシャードは首をひねる。その時、一際大きな歓声が上がった。どうやら、泳いでいたふたりの決着がついたようだ。
先に顔を上げたのは、一コースを泳ぐ生徒だった。彼女はゴーグルを取り、荒い息を整えながらプールサイドに自ら上がった。それは――
「ミナカミか?」
伸びやかな肢体に、まだ幼さを残した顔の麻奈だった。今の麻奈とは違い肩や足にしっかりとした筋肉が付き、どことなく健康そうな印象を与える。
プールから上がった麻奈は、まだ隣のコースを泳ぐ生徒を待っていた。その顔には優越感や気位の高さなど微塵も見当たらない。真剣に応援し、声援を送っている。
プールサイドでその様子を見ていた麻奈は、あぁと呻いて目を覆った。あの時の自分は、本当に心から泳ぐことを楽しんでいた。そして、友達との友情を少しも疑いもしなかった。
昔の自分はなんておめでたくて、間抜けだったのだろう……。
少し遅れてゴールした生徒は、自分を見下ろしている麻奈を見て息を吐いて笑った。
「やっぱり、麻奈には敵わなかったかぁ」
少しだけ悔しそうな顔をして、彼女は麻奈へと手を伸ばした。麻奈も当然のように少女を引き上げる。
「聖華もすごく早くなってきたよ。いつも遅くまで残って練習してたんでしょう?」
「今年こそ選手に選ばれたかったし、麻奈に勝つために居残り練習一杯したんだよ。でも、やっぱり今年も負けちゃった」
聖華と呼ばれた少女は笑って頷いた。その時、過去の麻奈はようやく何かに気が付いたようにハッと顔を強張らせた。
「そうだよね。ごめん……」
「やだ、やめてよ。麻奈が謝ることない。早い方が選ばれるのは当然でしょ」
その時、ピリリとホイッスルの音がプール全体に鳴り響いた。ジャージを肩に羽織った教師が、生徒全員に集合をかけた音だ。それまでプールサイドに腰を下ろしていた生徒たちが、一斉に教師の元へと集まって行く。麻奈と聖華も、顔を引き締めてそれに続いた。
「今日の泳ぎの結果と、今までの成績を考えて大会に出る奴を決定した。先ず男子、三浦、立石、大和、堀……」
教師の間延びした声が響く。
「次女子。近藤、日吉、斉藤、水上、以上だ。それから水上はもう上がれ。事務から連絡があったんだが、お母さんが迎えに来てるそうだ」
「――はい」
麻奈は苦々しい顔で立ち上がり、壁に掛かっている時計を仰ぎ見た。まだ四時を少し回った時刻だ。約束の時間まであと一時間もある。麻奈は「お先に失礼します」と声をかけて、そそくさと更衣室に駆け込んだ。
念願のリレーの選手に選ばれたのに、麻奈の表情は晴れなかった。ため息を吐きながらシャワーで体を洗い、乱暴に身支度をする。そして、鞄の中からラッピングした袋と共に、可愛らしいピンクの封筒をとりだした。
下駄箱までそれを大事に抱えて行くと、何人かの生徒が大きな笑い声を立てながら下校しているところに出くわした。麻奈は素知らぬ顔してその集団をやり過ごし、自分の靴箱から遠く離れた三年生の靴箱へと走って行った。
大和大輔。目当てのボックスにそっと手紙とプレゼントを入れ、麻奈は足早にその場を後にした。早鐘のようになる心臓を制服の上から撫で、麻奈は急いで靴を履く。入れてしまった。これで二度目の先輩へのプレゼントと手紙。もちろん名前を書くような勇気はないので匿名だ。
先輩が匿名の手紙やプレゼントを迷惑に思っているのなら、もうこんなことはしないでおこうと思ったいた。しかし、彼は麻奈がプレゼントしたタオルをきちんと使ってくれていた。
あまり頻繁であれば嫌がられるかもしれないが、麻奈はここぞという時に憧れの先輩に差し入れをしたいと考えていた。今日の選手発表の時にも、もちろん大和の名は呼ばれている。それのお祝いだと思ってくれればいいなと、この時の麻奈は思っていた。
頬を赤らめながら幸せな想像に浸る麻奈の鞄の中から、突然携帯の音が鳴った。見ると、それは母親からの着信だった。麻奈は暗い気持ちで電話を耳に当てた。
「はい。……今向かってる。身支度があるんだから、そんなに早くは出られないの。もう少しで行くからちょっと待ってて」
麻奈は肩を落としてのろのろと正面玄関から外へと出て行った。外は雨が降っている。まるで麻奈の心を映したようだ。
玄関を出るとすぐにそれは見つかった。黒いセダンタイプの車。麻奈が近づくとウィンドウが音も無く下がった。そこから、不機嫌な顔の母親の顔が出てくる。
「遅いじゃない。もう二十分はここで待っていたのよ」
「だから、身支度に時間がかかるんだってば。それに、今日は五時まで部活に出ていい約束でしょ?」
車に乗り込みながら運転席を睨むと、麻奈の母はもっと険しい顔で睨み返してきた。
「今日塾から模試の結果が届いたの。あんた全部D判定じゃない。部活なんてやってる場合じゃないのよ。受験までもういくらも時間がないんだから、もっと勉強する時間を増やさなきゃ駄目じゃない! それじゃなくても、あんたは塾の進学組よりも大分遅れているんだから――」
「まだ私は二年生だよ。それに、今度の大会が終わるまでは部活は続けていいって約束したじゃない。……ねぇお母さん、私が塾の皆よりも遅れているのは分かってるよ。でも、この大会が終わったら部活も辞めて死ぬ気で頑張るから、それまでは口出ししないで」
諦めに似たため息を吐きながら、麻奈は母を見上げた。彼女はまだ何かを言いたそうに口元を歪めていたが、肩を竦めて頷いた。
「分かった。でも、今日はお母さんが先生にお願いして、授業の前に補習してもらえることになったから、これから塾に送るわよ」
車のギアを入れる音を聞きながら、麻奈はぐったりとシートにもたれた。まるで、刑務所に連行される囚人になったような気分だった。
走り去って行く過去の自分と母親の乗る車を眺めながら、麻奈は握りこんだ拳を開いて苦しい息を吐き出した。緊張するあまり、今まで呼吸すら満足に出来ていなかったようだ。
「大丈夫か?」
ビシャードが、控え目に麻奈に声をかけた。まるで腫れものに触れるような彼の声に、自分はよほど酷い顔をしているのだろうかと麻奈は思った。
「そなたの辛さは分かるよ。体の内側から、めくれ上がるような不快感が這い上がってくるような気持になるんだろう?」
「陛下もそうでしたか?」
「あぁ。今にも逃げ出したいのに、その場に居合わせると恐ろしさのあまり足が動かなくなるんだ」
麻奈もまさにそんな気持ちだと思った。その証拠に、雨に打たれる体は冷え切っているのに、掌にはじっとりとした汗が滲んでいる。しかし、それをビシャードに悟られるわけにはいかない。目の前の青年は、もう十分自分を心配してくれているのだ。これ以上彼を煩わせたくはなかった。
「大丈夫です。さっき廃校でも言われたでしょう? 私以外に図太いんですよ」
弱々しくなってしまったが、麻奈は笑顔を作った。心の底では「まだ、大丈夫」という言葉を付けたしていたのは誰にも秘密だ。
しとしとと降る冷たい雨に濡れながら、この先に起こるはずの記憶を手繰り寄せた。一度思い出してしまった記憶は、取り留めも無くランダムに心に浮かび上がってくる。それはまるで、小さな沼に小石を投げ入れ、そこに溜まった泥が浮上してくる様に似ていた。
麻奈がぼぅっとしている間にも景色はめまぐるしく移り、いつしかそこは夕暮れの廊下に変わっていた。人気のない廊下はしんと静まり、まるで夕日色のライトを浴びているようだ。その舞台に、向き合うふたりの男女の影。
麻奈は無意識にシャツの胸を押さえた。そうしなければ痛みに耐えることが出来ないというように。
廊下の真ん中で向かい合うふたりの間には、濃密な何かの空気が漂っている。お互いを強烈に意識しているのに、それを隠そうとしている青臭い沈黙。その空気に耐えきれなくなったように、男子生徒が急に口を開いた。
「突然呼び止めて、本当にごめんな」
「いえ。でもここ二年生の廊下ですよ。大和先輩こそ何か用事があったんじゃないですか?」
「俺はいいんだよ。……実はさ、ちょっと聞きたいんだけど、お前って好きな奴いるの?」
「――いますよ」
その答えは予想外だったらしい。もともと所在なさ気に揺れていた大和の腕が、急にせわしなく動いて頭を掻きだした。
「そっか、いるんだ。それ、俺の知ってる奴?」
彼女は答えるのを躊躇うように俯いた。
「いや、やっぱり言わなくていいや。ごめんな。俺もう部活にいくよ――」
「……大和先輩です!」
今までずっと俯いていた少女が、意を決したように顔を上げた。
「私が好きなのは、大和先輩です!」
驚いて目を見張る大和に、畳みかけるように少女が一歩前に出た。
「初めはちょっと怖い先輩だと思ってたんですけど、大和先輩楽しそうに泳ぐし、話してみると実はすごく優しいし。それに、後輩たちの面倒見もいいからみんなの憧れだし――」
初めの勢いはだんだんと衰えて尻すぼみになる告白を、大和は口元を押さえながら聞いている。その顔は夕日のせいだと誤魔化しきれないほどに赤い。
「すげー嬉しい。俺もお前がずっと気になってて、今日は本当にダメ元で声かけたんだ」
「それなのに、途中でヘたれちゃったんですか?」
くすくすと笑いながら、少女がからかう。
「そうだよ。お前が好きな人がいるなんて言うから、なけなしの意気地が吹き飛んだんだよ。でも、今日声かけて良かった。――聖華、俺と付き合って欲しい」
「はい。喜んで」
聖華は頷いてから、輝かんばかりの笑顔で笑った。彼女の小さな頭が上下して、柔らかい髪が肩のラインで揺れる。それを見て、大和は小さくガッツポーズを取った。
「ところで、先輩は私のどこを好きになってくれたんですか?」
「それを今、俺の口から言わせるのかよ?」
「そうですよ。私だって恥ずかしいのを我慢して言ったんですから、先輩だって答えてくれなきゃ!」
大和はしきりに照れながら、それを悟られまいとするように頭を掻いた。
「それは、聖華のちっこい所とか、でも元気で明るい所とか……。とにかくお前はどこにいても目立つんだよ。でも、最初に聖華を気にするようになったきっかけはプレゼントだ」
「プレゼント?」
「そう。お前だろ? 俺の下駄箱に手紙とプレゼント入れてくれてたの。タオルとか励ましの手紙とかさ。それがすげー嬉しくて、それからお前のことを目で追うようになったんだよ」
聖華は一瞬大きな目を開いて困惑したように首を傾げたが、すぐにニコリとほほ笑んだ。
「全部バレたんですね。なんか、恥ずかしいな」
頬にかかる髪を耳に掛けながら、聖華は可愛らしく身をよじった。それをとろけるような目で見つめながら、大和は聖華の手をそっと握った。
「部活そろそろ始まるな。このまま一緒に行くか?」
「そんなことしたら、みんなに私たちの事がすぐバレちゃいますよ!」
「いいじゃん。部員全員祝ってくれるよ」
手を繋げたまま、ふたりは廊下をゆっくりと歩いた。いつまでもそうしていたいという想いが伝わってくるほどふたりの歩みはのんびりとしている。
麻奈は彼らの後ろ姿から目を逸らし、廊下の前の教室を振り向いた。不意にその扉が開き、教室の中から過去の自分が出て来るのを見た。その顔は青ざめていて、足取りはフラフラとしている。どことなく生気が感じられないのは、あまりにもショックを受けているせいだろう。
私、あの時こんな顔してたのか……。
麻奈は過去の自分を見てため息を吐いた。実は、麻奈は初めからこの場にいた。放課後の僅かな時間に授業の復習を終え、いざ教室を出ようとしたそのタイミングで、憧れの先輩と親友の声が聞こえてきたのだ。
麻奈は思わず扉に触れていたその手を引っ込めた。運悪く廊下と教室を繋ぐ窓が開いており、彼らの会話は教室までよく響いた。麻奈は誰にも悟られないように窓の下で小さくなり、彼らの会話を初めから終わりまで聞くことになってしまったのだった。
今となってはこれくらいどうという事もない。憧れの先輩が好きだったのは、実は親友のほうだった。良くあるとは言わないが、珍しくもない。しかし、当時の麻奈にとっては突然崖の上から落とされたような気持だった。
麻奈は乱暴に涙を拭いながら、プールとは真逆の方向へと歩きだした。この日、麻奈は初めて大好きな部活をさぼった。