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遭遇 5

 アノ人は何本も触手を差し出すと、麻奈を抱きしめるようにそれらを絡みつかせた。そして、ゼリー状の自分の身体に押し込めるように、捕まえた獲物をきつく締め付ける。


「っう、くるしぃ」


 顔や身体にべとべとした粘液が滴り落ちてきたが、それを気にしている余裕は麻奈には無かった。身体を締め付けられながらピンクのゼリーに顔を押し付けられると、たちまち息が出来なくなった。


 もう駄目だ、そんな言葉が頭の中をよぎった途端、麻奈は無意識にアノ人の身体をタップしていた。それは、幼い頃に兄とプロレスごっこをしていた時に教わった「参った」のサイン。

 その途端、アノ人の体がピクリと動いた。きつく巻きついていた触手が心なしか緩んだ気がする。


 反応があったことに驚き、麻奈はもう一度とんとんとゼリー状の身体を叩いた。実際にはべチャべチャという音がしたが、締め付けは明らかに弱くなった。

 今度は気のせいではなかった。麻奈は確信をもって、もう一度それを繰り返す。すると、麻奈の背中に回されている触手がとんとん、と同じように叩き返してきた。


「アァオオオオ」


 真っ赤な裂け目から、水の中で喋るような篭った声が漏れた。

 通じた。麻奈は思い切って話しかけてみた。


「あの、ちょっと苦しいんだけど。離してくれませんか?」


 すぐ鼻先にある、肉色をしたゼリーからは何の反応も無い。ジュリアンが言っていたように言葉は通じないらしい。それでも麻奈はアノ人の身体を軽く叩きながら話しかけた。


「じゃあ……せめてコレを少し緩めて欲しいんですが」


 頬がくっつくほどの距離を強いられていて、内心はかなり気持悪かったが、ゼリー状の体を叩きながら勤めてフレンドリーに話し続けた。麻奈が助かる道はこれしか無いのだ。気持悪くても何でも、続けなければならない。さもなくば、麻奈のすぐ横にある真っ赤な裂け目に今にも放り込まれてしまう気がする。

 アノ人は律儀に麻奈の『とんとん』に返事を返してくる。強弱やリズムをそっくり真似て。


「コレ気に入りました? またいつでもするので、今日のところは離してくれませんか?」


 優しい口調で続けるが、正直もう二度とやりたくなかった。『とんとん』のバリエーションも尽きてきた頃、麻奈の体は粘液でぐっしょりと濡れていた。


「あの、そろそろ本当に離し下さいね?」


 麻奈はアノ人の身体を撫でながら続けて話しかける。すると突然、アノ人の動きがまたもピタリと止まった。

 あれ? と戸惑う麻奈を他所に、ゼリー状の体が小刻みに震えていた。

 次の瞬間、がばっと全ての触手が麻奈の身体に巻きつけられ、頬擦りでもするかの様にアノ人が更に身を寄せてきた。


「アァァ、アァァッ」


 圧迫が強くなり、麻奈は霞む意識の片隅でアノ人の咆哮を聞いた。息が出来ない。もう駄目かも知れない。

 麻奈の瞼が落ちかけたその時、突然冷水をかけられた。

 水を浴びせられた途端、アノ人が震えながらその場に硬直した。麻奈に巻きついていた触手たちも、一瞬硬直した後に一斉に力が抜けて離れていった。麻奈はそのままくたりと床に崩れ落ちたが、途端にはっと識を取り戻す。落ちかけていた瞼を引き上げると、バケツを持ったジュリアンがすぐ側に立っていた。


「麻奈、今ですっ」


 後にも先にも、この時の動きが一番素早かったと麻奈は思う。アノ人の足元から転がり出ると、綺麗なクラウチングスタートを決めてジュリアンの元へと走りだした。

 ジュリアンはバケツを放り投げると、バトンを受け取る要領で麻奈の手を掴み、一目散に走り出した。 二人は廊下を曲がり、階段を下りてからも暫く走り、更に手近にあった教室へ飛び込んだ。ここまで来ればアノ人も追っては来られないだろう。

 教室に入ると、麻奈は安堵と共に腰が抜けてその場にしゃがみ込んだ。全力以上の疾走をしたお陰で、麻奈の疲労は限界を超えていた。ぜぇぜぇと肩で息をしている。


「ジュリアン……ありがと」


「どう致しまして。無事で何よりです」


 ジュリアンは涼しい顔で答える。


「アノ人の弱点は水です。水をかけると一瞬だけ動きが鈍るので、今度からは捕まる前に水をかけて下さい」


「了解、覚えとく」


「それにしても……」


 ジュリアンが麻奈を見下ろした。


「酷い有様ですね」


 麻奈はアノ人に捕まったお陰で、全身ぬるぬるの粘液塗れだった。


「知ってる」


 麻奈はぶすっとした顔で頷いて、頬に滴る粘液を指で掬い取ると、嫌そうに手を払った。指に付いていた粘液が、ぴちゃりと音を立てて床に飛び散るのを見て、ジュリアンは麻奈に気取られない様にそっと息を吐き出した。

 麻奈の姿を上から下まで舐める様に見つめながら。


 薄桃色の粘液に濡れて肌に張り付く麻奈の上着は、豊かな胸の膨らみを忠実になぞっている。ショートパンツから覗く太ももはてらてらと光って卑猥なほど眩しい。はぁはぁと力なく乱れる呼吸と、その頬に滴る粘液も背徳感を掻き立てた。


 これはこれで、なかなかそそる。ジュリアンは心の中でこっそりと笑う。唯一つ残念なのは、シャツの中にもう一枚服を重ねていることだろう。濡れても服が透けないのだ。

 しかし、そんな考えをおくびにも出さず、ジュリアンは麻奈の隣にしゃがみ込むと、実に誠実そうな心配顔で話しかける。


「大丈夫ですか? 怖い思いをしたでしょうから、住人を紹介するのはまた今度にしましょう。今は少し休んでください。まずはその汚れを落としましょうか」


 麻奈はこくりと頷いて、まだ疲労感が抜けていない身体に鞭打って立ち上がった。

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