鏡へ(麻奈の場合) 2
濁った頭で麻奈は目の前の大鏡を見つめていた。息がしたい、酸素が足りない。目の前の鏡には、苦しそうに喘いでいる自分と、同じように顔色が優れないビシャードが並んで映っている。実際には、尾びれになってしまったために立てない麻奈を、ビシャードがよろめきながら支えている光景なのだが。
乾き始めた麻奈の手を、ビシャードが労わるようにそっと包んだ。乾燥した皮膚は、ちょっとした刺激でもピリピリとした痛みを訴える。
「まだか、早く開け!」
ビシャードの悲痛な声が螺旋階段に響きわたる。もうどのくらいそうして鏡の前に立っていただろうか。全く何の反応も示すことのない鏡面を見つめながら、その場にいる全員がヤキモキとした気持ちでその時を待っていた。
「ここに来れば、後は鏡が勝手に開くような気がしていたんだが、早計だったか……」
「一度戻って、こいつを水槽に返した方がいいんじゃねぇか?」
サルーンとユエは、踊り場から少し離れた所でひそひそと早口で相談をしている。完全に当てが外れたせいで、彼らも焦っているのだろう。
「なぜだ! 私はもう元の姿に戻っているのに、なぜ鏡は反応しない!」
ビシャードが拳を鏡に叩きつけた。彼の力で鏡が割れることはないだろうが、その大きな音に全員のイライラは頂点に達していた。
その時、階段に場違いなほど可愛らしい声が響いた。
「無理だよ。あなたがそんな気持ちでいたら、一生かかったって鏡は開かないよ」
呆れたような、それでいて少し憐れんでいるような口調の少女は、小さな靴音を響かせながらゆっくりと一階の暗がりから姿を現した。フワフワとカールした髪を揺らし、泥だらけの服を平然と来ている少女。彼女は踊り場まで階段を上って来ると、ビシャードに指を突きつけた。
「そんな死にそうな顔してる時点でもう駄目。失格。もっと楽しいことを考えないと鏡は開かないわ。以前の麻奈みたいに図太い思考回路の持ち主じゃないと、この鏡は反応しないんだから」
「図太い? なんだ?」
ビシャードは突然現れて、自分に駄目だしをする少女に完全に面食らっていた。彼だけが少女と対面するのは初めてだった。
「やっぱり、君はこの場所の事を良く理解しているようだな」
サルーンは驚きながらも、彼女の側へと下りてきた。
「そうよ。多分、ここにいる誰よりも理解していると思うわ。でも、今はそれを話さないわよ。だってこのままじゃ麻奈が本当に死んじゃうもの。ふたりが鏡の中から帰って来たら、私が知っていることを全部話してあげる」
少女は僅かに目を伏せて、いつの間にか彼女の足もとに絡み付いている蔦植物をそっと撫でた。
「絶対逃げないって約束するから」
それは、明らかにリーズガルドへの言葉だった。少女は気を取り直したように顔を上げると、キッとビシャードへ厳しい目を向けた。
「聞いて、緑色のお兄さん! コツは楽しいことだけを考えることよ。不幸なんて知りませんって顔して、幸せなことだけ考えて」
「……難しいな。余は自慢ではないが、これまで不幸だらけの人生を送ってきたのだぞ」
「難しくてもやるしかないのよ。お兄さん麻奈が好きなんでしょ? だったらこの際、想像でも妄想でも何でもいいから幸せな事を考えてみて。どんな風に麻奈と休日を過ごしたい? どんな所でデートしたい? どんなシチュエーションで押し倒してベッドインした――」
少女はその言葉を最後まで口にすることが出来なかった。不意に伸びてきた大きな手が、少女の小さな口を押えている。少女は不愉快そうにジロリと大きな手の主を睨んだ。筋肉の付いた逞しいそれは、サルーンの物だ。彼は困ったような難しい顔で少女の口を押えていた。
「君が口にするには、ちょっと言葉が不適切じゃないか?」
「今はそんなこと言ってる場合じゃないでしょう。それよりどうなの? うまく妄想出来そうなの?」
完全に妄想一択を押し付けて、少女はビシャードの顔を不躾に覗き込んだ。全員が見守る中、ビシャードのこけた頬がみるみる赤みをおびていく。
ビシャードは「幸せなこと。幸せなこと……」と口の中で呟いて、ぐったりした麻奈を引き寄せた。もう息も絶え絶えな麻奈の顔をじっと見つめてから、ビシャードは自分の額を麻奈の額に付けて目を閉じた。
「ミナカミに元気になってもらいたい。元の姿に戻り、あの顔で、あの声で……もう一度余に笑いかけてほしい。それが余の幸せだ」
彼がそう口にした途端、鏡が光り出した。水色の点滅を繰り返し、だんだんと光は強く眩しくなっていく。それは、鏡の内側へ入るのに十分すぎるほどの光だった。
ビシャードは冷たい鏡面に手を付き入れ、その先端が飲み込まれたことを確認すると、麻奈を抱きかかえたままフラフラと揺れる頼りない足取りで鏡へと近づいて行った。彼は後ろを振り返らなかった。そして、何の躊躇いも余韻も感じさせることなく光の中へと身を投じた。
ふたりの姿が消えた後、誰かがため息にも似た息を吐き出した。残されたメンバーはしばらくその場に立ち尽くしたまま、鏡をじっと眺めていた。
「彼って、もしかしてすっごく純情なの?」
誰とはなしに訊ねた少女の声に、後に残された者たちはしばし言葉を失い顔を見合わせた。もちろん、その問いには誰も答えなかった。
誰かが自分を揺すっている。麻奈はぼうっとする意識の中で、一生懸命自分の名前を呼ぶビシャードの声を聞いていた。
「大丈夫か、ミナカミ! 元の姿に戻れたのだぞ」
目を開ければ、視界いっぱいに今にも泣きだしそうなビシャードの顔が広がっている。麻奈は目を細めてビシャードの頬に手を当てた。泣きだしそうだと思っていたら、本当に彼の目から涙が溢れてきたのだ。
「どうしてあなたが泣いているんですか?」
麻奈の手に縋り付くようにして、ビシャードが小さく嗚咽を漏らしている。麻奈はそれを見て、この繊細な青年に酷く心配をかけてしまったことが申し訳なくなった。
「もう大丈夫ですから、どうか泣かないで下さい。陛下のおかげでもう苦しくなくなりました」
「良かった。本当に良かった……」
細い肩をポンポンと叩いて慰めると、彼はようやく落ち着いたようだ。麻奈はもう二度と来ることは出来ないだろうと思っていた場所に目を向けた。鏡の中は、まるで小さな宇宙のように光り輝いている。
その中で、こちらへ向かって来る見慣れた丸い光を見つけた。それはクルクルと小さな円を描きながら、真っ直ぐに向かって来る。麻奈は覚悟を決めた。これは、もう避けては通れない自分の過去なのだ。
身を固くした麻奈に気が付いたビシャードが顔を上げた。彼は力強く頷いて、麻奈の手を握りしめた。何があっても自分が側にいると言われているようで、麻奈は小さく頷いてそれに答えた。
しかし、今は手を繋げてくれていても、過去を知ってしまえばこの手は離されるかもしれない。麻奈は急に怖くなった。大きく深呼吸を繰り返して、出来るだけ声が震えないように努めた。
「私、本当は全然いい人間じゃないんです。私の過去を知ったら、きっと陛下にも幻滅されてしまうかもしれません」
「それは奇遇だな、余もいい人間ではないぞ。それでも、ミナカミは恐れながらも余と友達になりたいと言ってくれたではないか」
「怖いんです。本当は昔のことなんて思い出したくなかった。ずっと忘れたまま、汚れなんて一つもない綺麗な自分でいたかったのに……」
「大丈夫、どんな汚れだってふき取ることが出来るものだ」
ビシャードは優しく麻奈の髪を撫でた。どこまでも労わるようなゆっくりとした動きに、麻奈は顔を上げた。
「ありがとうございます。ここに一緒に来られたのが、陛下で良かった。――それじゃあ、これから少しの間私の過去にお付き合いください」
笑って立ち上がり、ビシャードに手を差し伸べると、彼は恭しくその手を取ってお辞儀をした。
「喜んでその招待を受けよう」
小さく微笑みながら、ふたりは眩い光に包まれた。