鏡へ(麻奈の場合) 1
サルーンは紙切れを拾い上げると、難しい顔をして首をひねった。
「俺ではこれは読めない。誰か読めるか?」
ヒラヒラとサルーンの手の中でそよぐジュリアンの置手紙に全員が顔を寄せ、そして一斉に唸った。どうやら誰も読むことが出来ないらしい。良く考えれば、世界が違えば使っている文字も違うのは当然だろう。そう考えてから麻奈はハッとした。それならば、なぜ言葉は通じているのだろう?
何か特別な力でも働いているのだろうか。しかし、どんなに考えても麻奈には何もそれらしい理由が浮かんでこない。分からないものはいくら考えて分からない。今は考えるのは一時保留にして、麻奈は水槽のガラスをコンコンとノックした。
額を突き合わせるようにしてジュリアンの置手紙を解読しようとしていた面々は、その小さなノックの音に顔を上げた。
麻奈は水かきの生えた指で自分を指差した。自分なら読めるという確信を込めて。ジュリアンとは時間の流れこそ異なるが、同じ世界からやって来た。今となっては、彼も日本人だと語ってくれたのが随分遠い出来事のように思えるが。
もしも英語やフランス語で書かれている手紙ならば読むのは無理だが、日本人であるジュリアンならば日本語で手紙を残すような気がしていた。それに、誰も読めない手紙を残してもしょうがない。これは、きっと自分に書かれた手紙なのだと麻奈は思った。
「君なら読めるのか?」
疑わしそうな目をしながらも、ものは試しとばかりにサルーンが水槽の壁に紙切れを張り付けた。麻奈は水槽の内側にへばりつくようにして置手紙の文面を目でなぞる。視界が歪んで少し読みにくかったが、小さな紙一杯に以外と悪筆な文字が並んでいた。
『さようなら』
それを目にした途端、麻奈の目の前は急に暗くなったような気がした。別れの言葉だと分かっているのに、理解出来ない。理解なんてしたくないと思った。気が付けば、麻奈の目からは涙があふれていた。それは、こぼれた途端水の中に溶けて消えてしまう。
麻奈は皆が自分に注目していることも忘れて、顔を覆って思いきり泣き続けた。そのたった五文字は、突き刺すように麻奈の後悔を刺激した。彼はあんなにも元の姿を求めていたのに、結局失敗してしまった。ジュリアンは一体どんな思いでこれを書いたのだろう。
「貸せ。こんな物、こうしてやる!」
ビシャードがサルーンから置手紙をひったくると、それをビリビリに破いた。紙切れの細かな破片がゴミのように床に散らばる。
「いいのか? もしかしたら何か大切なことが書いてあったのかもしれないぞ」
怒り心頭といった様子のビシャードに、サルーンは困り顔を向けた。
「構わん! 奴の手紙など碌な物ではない。現にミナカミを泣かせた」
「いい年をして子どもかよ――。それに、甘やかせばいいってもんじゃねぇ」
ユエが呆れたようにビシャードにそう言うと、麻奈の水槽に向き直った。彼は一瞬、水槽の中で泣いている麻奈を気の毒そうな目線を送ったが、ユエはコンコンと分厚いガラスをノックした。
その音に驚いて、麻奈は赤い目をゆるゆると上げた。
「手紙は読めたんだろう? そこに俺たちにとって何か重要なことは書いてあったか?」
麻奈は唇を震わせた。口から洩れた小さな言葉は泡になってたちまち消えていく。麻奈だって、本当はもっと違うメッセージを残して欲しかった。それこそ、自分を恨む言葉でもなじる言葉でも良かったのだ。こんな、失望されたような別れの言葉だけを残されるよりよっぽど……。
「泣いてるだけじゃ分からねぇよ」
「止めろ。なぜ泣いているミナカミをそっとしてやれないんだ」
「馬鹿か、てめぇは! このままそっとしてどうなる。こいつを水ん中にずっと入れておきたいなら、気が済むまで泣かせておけばいい。だが、元にもどしてやりたいなら少しでも情報を把握することに努めろ!」
言い合うふたりの注意を引くように、麻奈は水槽の中をぐるぐると泳ぎ回った。ガラスをドンドンと激しく叩いて首を横にふる。ジュリアンからの手紙には、重要なことなど書かれていないという意味を込めて。その気持ちが伝わったのか、ユエもビシャードも麻奈を見て黙り込んだ。
その時、今まで黙って見ていたサルーンが一歩踏み込んできた。
「実は、気に掛かっていることがある。もしかしたら、もう一度鏡の中へと入ることが出来るかもしれない」
真っ直ぐに皆の顔を順番に見つめるサルーンの瞳は真剣そのものだった。そして彼のその真摯な瞳は、この場の雰囲気を一変させた。まるで、終わりの見えない真っ暗なトンネルの中で、一筋の光を見つけた者のように。
「ここに来る前に、俺は例の螺旋階段を通って来た。その時、ほんのわずかだが鏡が光り輝いたんだ」
「それは確かなことなのか? お前の気のせいでないのか?」
ビシャードは懐疑的だ。もともと慎重な性格なのだろう。一方のユエは何かを考えるように顎に手を当てたまま、じっと床の一点を見ていた。まるで、そこに答えが書いてあるとでも言うように視線を集中させている。
「もちろん俺が見間違えた可能性もあるだろう。確実なことは言えない。だが、もうそれ以外に思い当たる方法がない」
サルーンはそう言ってから急に黙った。麻奈という鍵を失った今、この廃校で出来ることは驚くほど少ないことに全員が気付いていた。
「麻奈が鏡に入ることが出来た理由を考えると、あながち嘘くさい話じゃあねぇな」
重たい沈黙を破ったのはユエだった。
「確か、あの鏡は過去を思い出させるために扉を開いていると言っていたな――」
奇妙な少女に言われたことを思い出すように、ユエはゆっくりと呟いた。彼はそれについては半信半疑のようだが、今はそれに縋るしかない。ひとりだけその話を知らされていなかったサルーンは目を丸くしていたが、何も口は挟まなかった。
「つまり、元の姿の者を変化させるために鏡は開く。元の姿に戻った俺たちが中へ入れる可能性は十分にある。今は、それに賭けてみるしかねぇか――。だったら、まずはあいつを連れて行って同じように元に戻るか試してみるか?」
ユエはにやりと唇を歪めると、勢い良く背後の扉を振り返った。見ると、そこには赤い斑模様を持つ蔦植物が床を這っているところだった。いつの間にこの場に入り込んでいたのか、それはリーズガルドの一部だ。
「麻奈をこの水槽から長く出すのは危険なんだろ? 試すなら、あの植物あたりが手ごろなんじゃねぇの?」
「あの少年も、自分は引っこ抜かれたらすぐに死ぬと叫んでいたぞ……」
サルーンが気の毒そうに水玉模様の葉っぱを擁護した。彼の言葉を肯定するように、毒々しい色をした葉が激しく音を立てる。その様子を見て、ユエは舌打ちをした。
「なんだよ。難しい奴らばかりだな」
「お前だって人の事は言えぬ身だろう」
「まぁまぁ、今はそんなことを言っていても仕方がないだろう。結局、決めるのは彼女だ。どうする麻奈?」
突然矛先を向けられて麻奈は驚いた。サルーンの言う通り、自分が行くと言えばこのメンバーはそれを叶えてくれるだろう。そして麻奈が行かないと言えば、彼らはリーズガルドを無理矢理引っこ抜くかもしれない。
あり得る。というか、絶対にユエはそれをやる。麻奈はその場面を想像して、あまりの気の毒さに息を吐いた。ため息が泡となり、プカリと浮かんで水面で弾ける。麻奈は皆の顔を順番に見つめ、大きく頷いた。
「決まりだ。それじゃあ、まずは誰が麻奈と一緒に鏡に入るかだな。これは以外に難しい選択だぞ。もしもトラウマに引きずられて失敗すれば、一緒に入った者も共倒れだ」
なんでもない事のように説明をするサルーンも、心なしか顔が青ざめている。まだ癒えたばかりの心の傷を再び晒すのは酷く勇気がいることなのだろう。彼らは記憶を意図的に無くしていた麻奈と違って、ダイレクトに影響を受けるのかもしれない。
「余が一番に入ろう。恐らく、一番適役だ」
以外にも穏やかな表情をしていたビシャードが一番に名乗りでた。仄かな自信と麻奈を気遣うような顔をしたビシャードを見て、ユエが悔しそうに歯ぎしりをする。しかし、ユエもビシャードの申し出事態には異論はないらしく、何も言わなかった。
「決まりだ。もしビシャードが失敗した時には俺が二番手になろう」
サルーンはユエに確認するようにそう告げた。ユエは不愉快極まりないと言った顔でジロリと睨んだが、やがてしぶしぶ頷いた。彼はまだ、火傷をする以前の顔に微かな未練あるのかもしれない。
「麻奈もそれで構わないか?」
サルーンは最後の確認のように麻奈にも同意を求めた。もちろん異論を唱える理由はない。麻奈は勢いよく頷いて、彼らに頭を下げた。
「じゃ、そこから出て来いよ」
何気なく、しかし唐突にユエが麻奈に向けて手招きに似た仕草をした。
麻奈はユエの言葉を聞いて、一瞬頭が真っ白になった。水から離れる。以前はそれを何とも思わなかったのに、今の麻奈にはそれは高いビルの上から飛び降りるのと同じ意味になってしまった。つまりは自殺を試みるほどの強い意志が必要になる。
「絶対受け止めてやるから、早く飛び降りろ」
水槽の下ではユエが手を広げている。麻奈は水面から顔だけをだし、下にスタンバイしているユエを見下ろす。「問題はそこじゃないんだよ」と言いたいのに、麻奈の声は彼には届かない。
「――俺に無理やり釣り上げられるのと、自分から出て来るのとどっちがいいんだ?」
ユエの声が一段下がった。なかなか踏ん切りがつかない麻奈に、しびれを切らし始めたのだろう。彼のその目は、冗談とも本気ともつかないような気迫を漂わせている。
「いい加減にしろ! それではミナカミが怯えるだけではないか」
「怯えようが震えようが、そこから出てこないことにはこいつは元には戻れないんだよ。いいから、さっさと、俺の所に飛び降りて来い!」
ユエはお怒りだ。麻奈はもう呼吸を諦めて、一度水槽の深くまで潜って大きく深呼吸をした。さようなら酸素。肺呼吸に戻った暁には、どうかまた出会えますように……。
麻奈は勢いをつけて水面まで上昇すると、水槽の縁に手をかけて一気にそれを乗り越えた。待ちかねていたようにユエが落下してくる麻奈の体を受け止める。
麻奈を螺旋階段まで運ぶのは、満場一致でユエの仕事となった。彼以外麻奈を持ち上げられないという理由は至極まっとうなのだが、同時に麻奈の心を軽く傷つけた。
「さぁ、早く大鏡まで行かなければ。ミナカミが死んでしまう」
パクパクと口を開いて苦しがる麻奈を心配するように、ビシャードが焦った声を出した。是非そうして欲しいと、麻奈も息苦しさに耐えながらそう思った。