麻奈の変化 3
浴室に反響する悲鳴。麻奈は自分の喉からそれが出ていることに気が付かないまま。顔を引きつらせて叫び声を上げ続けていた。
信じられない。信じたくない。
麻奈は縮めた体を更に小さくするようにして、浴槽の中で丸まっていた。麻奈が身じろぎするたびに浴槽から水が溢れ出たが、そんなことはどうでも良かった。
麻奈はこの世で、一番見たくないものを見たのだ。
「どうした! 大丈夫か」
浴室の扉を叩く音と共に、サルーンの声が聞こえた。彼の声は珍しく焦ったように上ずっている。
「来ないでください」
今の自分を見られるという恐怖に耐えきれず、麻奈は頭を振ってサルーンを拒絶した。しかし、その一言で彼が諦めるはずもなく、サルーンは扉を強引に開けて浴室の中へと入って来た。
「麻奈、さっきの悲鳴は一体――」
中へと入って来たサルーンの声が突然途切れた。サルーンは、丸い浴槽の中で小さく身を丸めている麻奈の姿を見て目を見開いたまま動きを止めた。
「君は……本当に麻奈なのか?」
唖然としているサルーンを振り返り、麻奈は深い絶望の淵に立たされたような気分になった。
見られた。こんな姿を……。
麻奈は自分を抱きしめながら自分の姿を見下ろす。サルーンが驚くのも無理はないと自嘲しながら思った。麻奈の両足だった部分は魚の尾びれに変わり、小さな鱗が浴室の照明をキラキラと跳ね返している。おまけに、手の指の間には透明な膜のような物が生え、それはさながら蛙の水かきのようだ。そして、麻奈にとって一番の衝撃はその顏だった。
「本当に君は麻奈なのか? 全くの別人じゃないか」
麻奈の背中までとどいていた長い髪は、フワフワと肩口で揺れるセミロングに変わり、いつも不安気な色を隠せなかった瞳は、つぶらな丸いそれになっている。例えるのなら、幼く可愛らしい小動物のようだ。
「見ないでください」
麻奈は顔を覆って泣き出した。その声を聞いたサルーンは、更に顔を強張らせた。
「まさか、声まで変わっているのか……?」
サルーンは咽び泣く麻奈を呆然としながら見下ろした。彼は何か言いたげな様子で口を開いたが、そこから何の言葉も出てはこなかった。ショックが大きすぎて、何を言って良いのか分からないようだ。
麻奈は惨めな気持ちになった。このまま浴槽の水に溶けて消えてしまいたい。そう思うのに、鱗に覆われた尾びれは麻奈の意志に反するように水の中で嬉しそうにヒラヒラと揺れている。もうこの浴槽からひとりで出ることも叶わないのに――。
その時、麻奈の喉がまたおかしな音を立てた。一回り小さくなったように、喉がキリキリと絞られるような息苦しさを感じる。
「どうした。苦しいのか?」
急に苦しみだした麻奈にサルーンが狼狽えたように駆け寄った。彼は濡れるのも構わずに浴槽の中へと入る。しかし麻奈の背に手を添えた瞬間、その動きがピタリと止まった。喉を掴む麻奈の隣に膝をついたまま、サルーンは困ったような顔をする。どうしたらいいのか分からないのだろう。
麻奈は焼けつくような痛みを訴える頭を抱え、サルーンにすがりついた。息がどんどんし辛いくなっているのだ。しかし焦る一方で、麻奈はこの事態に妙に納得していた。魚が水から上がって生きていられる訳がないのだ。その証拠に、耳の下のあたりに手をやると、そこに小さな裂け目が出来始めているのが分かった。
鰓呼吸をしなければ死ぬ。サルーンにそう伝えたいのだが、麻奈は口を開いても声を出すことさえ出来ない。もういっその事、このまま消えてしまうのもいいのかもしれない。麻奈がそう思った瞬間、体が浮いた。サルーンが片腕一本で自分の体を持ち上げたのだと理解して、じたばたと暴れた。水から離れる恐怖は、さきほどよりもかなり進行していた。
やめて! 離して。ここから出たくない。
聞こえない声を代弁するように麻奈は暴れたが、サルーンはそれを無視して麻奈を浴槽から引きずりだした。麻奈の尾びれがビタビタと床のタイルを打つ音が響く。
「暴れるな! 大丈夫だ、隣の部屋に大きな水槽があっただろう。あの中に入れる」
サルーンは吊り上げたマグロのように麻奈を引きずりながら移動する。フラフラと頼りなげな足取りは、腕一本で引きずるには麻奈が重たいせいだろう。実際、サルーンの顔は過度に力むせいで真っ赤になっている。
水槽の前まで来ると、まずその巨大さにふたりとも圧倒された。この部屋でしばらく時を過ごしていた麻奈でさえ、その存在をずっと忘れていたのがいっそ不思議なくらいだった。麻奈は、なぜ今までこんなに大きな物が目に入っていなかったのだろうと不思議を通り越して不安にさえなってきた。しかし、水槽はひっそりとその部屋の片隅で出番を待っていたのだ。
碌に水を取り替えてもいないのに、中の水は綺麗なままになっている。見上げるほど高い水位に変わりはなく、初めて目にした時のままの状態を完璧に保っている。
「少し待ってくれ」
サルーンは麻奈を一度床へ下ろしてから、水槽の裏へ回ると何かを探すような素振りを見せた。麻奈はぼんやりとサルーンを目で追った。酸欠のせいか、耳の奥でガンガンと響く音に顔をしかめる。鈍い頭痛が走りるたび、どんどん頭が膨張してそのうち破裂してしまうような気にさえなっていた。
サルーンはどこから持ってきたのか、梯子を水槽に立てかけた。麻奈は霞む意識の片隅で、なるほどと思った。天井近くまでそびえ立つような水槽に入るには、どうしたって梯子が必要になる。
しかし、麻奈は首を振った。それは脚立のようなしっかりした物とは違い、立てかけただけでは不安定な代物だ。人をひとり抱えて上るのはとても難しい。まして、隻腕のサルーンならなおの事。ほとんど不可能だ。
サルーンもそう思ったのか、凛とした眉を悔しそうに歪めている。しかし、麻奈の視線に気が付いた彼は、安心させるように微笑んだ。
「大丈夫。俺に任せておけ」
こういう所が、彼の優しい所なのだと麻奈は思う。しかし、サルーンが足を梯子にかけて上り始めた途端、梯子はグラグラと揺れ出した。
「く、やはり難しいか……」
小さく呟く悔しそうな声。その時、騒がしい足音と共に部屋の扉が勢いよく開いた。まだ教室の名残を残した横開きの扉を震えさせながら部屋へと入って来たのは、肩で息をしたユエだった。その後ろに、汗を滴らせた顔色の悪いビシャードが続いている。
「良かった。手を貸してくれ!」
サルーンは彼らを見るなりそう叫んで、麻奈をドサリとユエの手の中に下ろした。ユエが渡されたものを訝しんで眺めようとする時間すら惜しんで、サルーンはユエに指示を飛ばす。
「麻奈が死にかけている。早くその水槽の中に放り込んでくれ!」
苦しみもがく最中だが、麻奈はサルーンの「放り込んでくれ」発言に肝を冷やした。ユエのことなので、この距離から本当に投げ込まれるのではないかと思ったのだ。しかし、ユエはサルーンに言われた通り、躊躇う素振りさせ見せずに水槽にかけられた梯子に向かった。
たった一瞬でこの状況を判断したのだろう。彼は文句も言わずに麻奈の腰を片腕で易々と掴み、慎重に梯子を登った。そして、巨大な水槽の中に捧げものを供えるようにそっと麻奈を入れた。
水。それも、大量の水の中にやっと入れられた事に安堵して、麻奈はゆっくりと縮めていた手足を伸ばした。耳の後ろに出来た鰓から、冷たい水と共に酸素が体中に取り込まれていくのを感じる。まさに、生き返ったような心地だった。
「ミナカミ、その顔は? さっきとはまた姿が……」
まだ息切れから回復しないビシャードが、フラフラと水槽に近寄ってくるのが見えた。心配そうに垂れた目を凝らして、変わり果てた麻奈を目で追っている。その細く骨ばった手が伸ばされ、麻奈はビシャードの手に自分のそれをそっと合わせた。水槽の内側と外側で重なる手と手。
水掻きの付いた自分の手とビシャードの手の違いを改めて確認し、麻奈は口元を歪めて苦笑した。この水槽と内と外のように、自分と彼らには大きな隔たりがある。
心配ばかりかけて、ごめんなさい。
麻奈はビシャードに向けてゆっくりと口を動かした。誰にも聞こえない麻奈の声は、もちろん彼にも届かない。魚は喋れないのだ。それでも、ビシャードは麻奈が言わんとしていることを察したようで、首を振った。
「必ずミナカミを元に戻してやる。だからほんの少しの間だけ、辛抱してくれ」
泣き出しそうな笑顔を見て、麻奈もゆっくりと頷いた。
「ふん、美人魚みてぇだな」
「ユエの国にはこんな姿の生物がいるのか?」
じっと麻奈を観察するように見つめていたユエに、サルーンが驚いて尋ねた。
「いや、存在はしない。美人魚は空想上の生き物だからな。だが、言い伝えでは上半身が若い娘の姿で下半身は魚だという。そっくりだろう? そういや、通りがかった船乗りを惑わせて船を沈めるっていう伝説があったな」
そう言いながら、ユエは面白そうな目で麻奈を見つめている。しかし、鼻が触れそうなほど水槽に近づいてから、その表情を一転させてため息を吐いた。
「それにしても、これがお前のなりたかった姿か? なんだか妙に幼くなっているし、元のお前の方が断然良いな」
これには麻奈も驚いた。その言い方では、元の自分をさり気なく褒められているのかと勘違いしてしまいそうになる。しかし、ユエはニヤリと笑うと、角度を変えながら麻奈の体を眺めまわした。
「前から色々と足りねぇのに、これ以上出っ張り減らすんじゃねぇよ」
やはり行きつく所はそこなのかと呆れ果て、麻奈は水面まで上昇してからユエに盛大に水をかけてやった。驚いた声を上げて飛び退いたユエが可笑しくて、麻奈はほんの少しだけ笑いながら、そっと目頭を押さえた。こんな馬鹿なやり取りが、今は涙がでるほど楽しくて愛おしい。
みんな優しい人ばかりだ。
麻奈は心からそう思った。そして、今ジュリアンはどこでどうしているのだろうかと不安になった。最後に見た彼の記憶の場面を思いだし、麻奈は彼がたった独りで傷ついているのではないかと考えを巡らせた。
誰もジュリアンの姿を見てはいないのだろうか? 彼を探しに行ってくれたビシャードに話を聞きたかったが、麻奈の声はもう誰にも届かない。本当なら自分の足で探しに行きたいところだが、それすらも叶わない。
「ところでそれは? 見たところ靴のようだが」
サルーンがビシャードの持っている黒い靴を指差した。それは、サイズの大きな黒い革靴だった。艶光りしている値の張りそうその靴は、どこかで見た覚えがある。
「三階の死神の部屋で見つけた」
ビシャードは心底嫌そうな顔をして、持っていた革靴を放り投げた。それは、やはりジュリアンのものに違いないようだ。
「部屋に奴の姿はなく、これだけが残されていた。何のために置いて行ったのかは知らないが、妙に不自然にテーブルの上に乗っていたので持ってきたのだ」
麻奈はひっくり返ってしまった皮靴を見て、悪い胸騒ぎがした。鏡の中に入るとき、ジュリアンは確かに靴を履いたままだった。それは一緒にいた麻奈が一番良く覚えている。しかし、彼はどうして廃校に帰って来たのに姿を現さないのだろうか。
「何か中に入っているようだ」
良く見ると、子どもの天予報のように裏返った靴の中から白い物がはみ出している。一番近くにいたサルーンがそれに気が付き、身を屈めて拾い上げた。
紙切れだ。小さく畳まれた白い紙を起用に広げた途端、サルーンは険しい顔付きになった。
「どうやら、これはジュリアンの置手紙らしい」