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麻奈の変化 1

 頬に当たる冷たくて固い床の感触に気が付き、麻奈は強張っている体をゆっくりと起こした。途端、鋭い頭痛に顔を歪める。


 一体、何が起きたんだっけ?


 ひんやりと冷たい空気、ワックスの剥がれたタイルの感触、そこはいつもの陰気な螺旋階段だった。一体どうやって鏡の中から出てきたのだろうか。


 麻奈は慌てて鏡を振り返った。そこには青白い顔をした自分の姿が映っている。いつの間にか鏡から外へと弾きだされてしまったらしい。


 麻奈は混乱する頭で辺りを見渡した。どこにもジュリアンの姿は見えない。もしかして、彼は鏡の中に取り残されてしまったのだろうか。自分だけが鏡から弾き出されてしまったのだろうか。


 しかし、その考えはすぐに消える。まだジュリアンが鏡の中に居るのなら、その映像が鏡に映っていなければおかしい。それが無いということは、ジュリアンも鏡の外へと出て来ているはずだ。


 麻奈は鏡に手を伸ばした。しかし、鏡面は冷たく麻奈の手を押し返すだけだ。その手にふと目をやって、麻奈はドキリとした。光っている。透明な鱗が、麻奈の左手全体に広がり、それが僅かな光を受けて光っているのだ。


 左手の甲のごく一部に鱗が生えてきたのは少し前のことだった。あれからさほど時間も経っていないのに、なぜ?


 麻奈は震える手でシャツの袖を捲りあげて、絶句した。露わになった二の腕まで、小さな鱗がびっしりと生えている。声にならない悲鳴を上げながら、麻奈は夢中で腕を擦った。しかし、それらは麻奈の肌から剥がれない。


 焦るほどに息が上手く吸えなくなり、喉の奥が引き攣った。まるで、麻奈の周りから空気が少しずつ無くなっているようだ。小さな鉢に入れられた金魚のように口をパクパクと開けて喘ぐが、麻奈の息苦しさは増すばかり。


「誰か、助けて……」


 麻奈は自分の体を抱きしめてその場に蹲った。とても立っていられない。周りが敵だらけの場所に裸で放りこまれたような気分だった。


『助けて? 私の先輩を殺したくせに、虫のいい事言わないでよ』


 誰もいないはずの階段に、誰かの声が響いた。麻奈は驚いて顔を上げた。


(せい)()? 聖華なの?」


 しかし、周りを見回しても誰の姿もない。いつの間にか、麻奈の耳にはひっきりなしに水音が聞こえ始めている。パシャリと魚が水面を跳ねるような音。頭がおかしくなりそうだ。


 息苦しさはいよいよ本格的に麻奈の呼吸を邪魔し始めた。息を吸えば吸うほど、麻奈の喉はおかしな音を立てる。喉に手を当て、床に爪を立てる。自力ではもう立ち上がれなかった。


「ミナカミ? 一体どうしたんだ!」


 霞む視界に突如飛び込んできたのは、図書室で別れたきりのビシャードだった。彼は麻奈の側まで駆け寄って来ると、膝をついて麻奈の顔を覗き込んだ。


 彼のその動きには淀みがない。もう肋骨の骨折は治ったのかとビシャードに聞こうとしたが、麻奈の喉はヒューヒューという空気が漏れるような音しかしなかった。


「よせ、喋るな。苦しいのだな、今何とかしてやるぞ」


 麻奈の肩を抱き寄せたビシャードの骨ばった手は、良く見れば小刻みに震えていた。麻奈はありったけの力を振り絞って、ビシャードの耳に口を寄せた。


「私、みず、に――いれ、て」


 それはとても小さくて掠れてはいたが、何とか声になった。


「分かった、余に任せろ。何も心配は要らないぞ」


 ビシャードは何度も頷いてから、麻奈を抱え上げようとした。しかし、彼の腕力では麻奈を抱き上げることは難しいようだった。仕方なくビシャードは麻奈の脇に体を割り込ませ、麻奈を引きずりながら階段を上り始めた。


 麻奈は一番近くにある自分の部屋へとビシャードを誘導する。誘導と言っても、声を出す余裕はないので手で方向を指し示すだけなのだが、それでもビシャードは麻奈が何を言いたいのかをきちんと読み取ってくれた。


「部屋へ着いたぞ。水に入れるにはどうすればいい?」


 浴室に繋がる扉を指差すと、ビシャードは迷わずそちらへと向かってくれた。ビシャードの額には汗が滲み、息はかなり上がっていた。それでも、彼はここまで来る間に一度も歩みを止めなかった。見るからに体力のなさそうなビシャードが、自分の為にここまで頑張ってくれた事に麻奈は感謝し、同時に申し訳ない気持ちで一杯になった。


「何ということだ! ここの水瓶には水が入っていない。井戸、井戸はどこだ?」


 冷静に見えていても実は内心焦っていたビシャードは、浴室に転がっていた小さな手桶を持って井戸を探し始めた。それが、彼の国で唯一の水源なのだろう。


 麻奈は震える手を伸ばして、浴槽の脇のボタンを押した。流れ出る水の音に安堵しながら、麻奈は服を着たまま浴槽に身を投げるように滑り落ちた。


 どうして水に入りたいと思ったのかは自分でも良く分からない。しかし、ビシャードが助けに来てくれた時、ごく自然にそう口にしていたのだ。


 浴槽の水は勢いよく流れ出て、たちまち水位が上がってくる。もう少しだ。麻奈は水に浸かっている自分を確認した途端、安堵の気持ちが湧いていた。さっきはあれほど苦しかった呼吸も、今では大分楽になっていた。


 そんな麻奈の様子を、円形の浴槽の淵に手をかけながら、ビシャードが心配そうに窺っていた。彼は初めて見るだろう蛇口には目もくれずに、麻奈だけをじっと見つめていた。


「具合はどうだ?」


「ありがとうございます。大分落ち着きました」


 まだ掠れる声で礼を言うと、ビシャードは途端に肩の力を抜いて床に手を付いた。過保護とも言えるほどの心配ようだが、それだけ麻奈が酷い状態に見えたのだろう。


「すみません、陛下にはご無理をさせてしまいました……」


「無理などしていない」


 額に大粒の汗を滲ませながらビシャードは首を振った。そのちょっとした嘘に麻奈は頬を緩めた。ビシャードは麻奈よりも大分年上なのだろうが、彼の純真な気持ちや仕草がいちいち可愛らしく思える。


「さっきは酷い顔色だった。何かの病気なのか?」


「分かりません。でも、多分違うと思います」


 麻奈は少し躊躇ってから、ビシャードに左手を差し出した。初めは怪訝そうな顔をしていたビシャードだったが、麻奈の手に生えた鱗を確かめると、途端に顔をこわばらせた。


「触っても?」


 ビシャードが気遣うように麻奈を見下ろす。なぜかビシャードの方が麻奈よりも傷ついた顔をしていた。そんな顔を見せられたら、麻奈には拒むことは出来ない。麻奈はゆっくりと頷いた。


 許しを得ると、ビシャードはほっとしたような表情を見せて、下から掬うように麻奈の手を取った。鱗が生えている皮膚が銀色に変色し、その上にキラキラと透明に光る鱗が生えている。ビシャードは角度を変えながら、じっと麻奈の手を凝視している。


 麻奈は目を背けた。自分で見てもおぞましい手だ。きっとビシャードもそう思うだろう。本当ならば他人にはあまり見せたくない物だが、状況を把握してもらうためには仕方がない。


 ビシャードはそっと壊れ物を扱うように鱗の部分を指でなぞった。彼の指はゆっくりと手の甲から腕へと上がり、突然ピタリと止まった。不思議に思ってビシャードのほうを見ると、彼は涙を流していた。


「どうかしましたか? もしかして、ご不快にさせてしまいましたか?」


 慌てて手を引っ込めようとすると、ビシャードが両手でそれを阻んだ。そして、痛ましい物を慰めるように肉の薄い頬へと麻奈の手を持ち上げた。これには麻奈も驚いた。しかし、ビシャードはしっかりと麻奈の手を握ったまま頬にそれを擦り付ける。


「可哀そうに。さぞかし不安であっただろう」


 時折かすめる彼の唇に麻奈は落ち着かない気分になったが、同時に温かい気持ちが溢れた。自分の代わりに涙を流して悲しんでくれるビシャード。その存在だけで、恐怖が心なしか薄れていくような気持ちになった。


「いつから始まった?」


「陛下と別れた後、ユエと一緒に鏡に入ったその後からです」


「あの男か……」


 垂れた目を精一杯吊り上げて、ビシャードが唇を噛みしめた。自然と麻奈の手を握っているビシャードの手にも力が入る。


「違います。ユエのせいじゃありません!」


 麻奈は慌てて、リーズという不思議な少女がしてくれた鏡についての説明を彼にも話した。俄かには信じられないことだったが、結果彼女の言った通りのことが起きている。


「では、ミナカミは忘れていた過去の事を思い出したのか?」


「断片的にです。でも、私が以前どんなことをしてしまったのか――それだけは、はっきりと思い出しました」


 麻奈が身を震わせるたびに浴槽の淵で水が跳ねる。その音がするたびに、麻奈は反射的に身を強張らせた。どうやら、自分でも気が付かないうちに水音の幻聴に過敏になっているようだ。もうこうなってはあの鏡には入ることは出来ないのかもしれないと考えて、麻奈は憂鬱な気持ちになった。


「私、もうこのままなのかもしれません」


 麻奈がこうなってしまった今、誰も鏡に入ることは出来なくなった。こうして、体が変化するのを黙って見ているしか出来なくなったのだ。ずっと以前に、体が変化して初めてその恐怖が理解できたとジュリアンは言っていたが、本当にそうだと麻奈も思った。


「心配するな。余が必ず元に戻る方法を探してみせる」


 ビシャードは真っ直ぐに麻奈を見据えた。彼の瞳には強い決意が滲んでいる。


 敵わない。麻奈はそう思った。


「ありがとうございます。――期待、していてもいいですか?」


「任せておけ。それよりも、そろそろ水から上がったらどうだ? 体が冷えてくるころだ」


 そう言って手を差し出すビシャード。麻奈は水の冷たさを感じることはなかったが、彼の優しい言葉に従い、ビシャードの手を取った。引き上げられる体から雫が滴り落ちて、水音がパタパタと浴室に響く。


「嫌、やっぱり駄目です」


 麻奈はビシャードの手を離し、また体を水の中へと沈めた。今まで感じたことのないような恐怖を感じていた。それは、水から離れる事への恐怖心だった。ここから出て行けば、決して生きてはいけない。そう思わせるほどの圧倒的な感情。


「ごめんなさい……。私、まだここにいたいです」


 取り乱した自分が理解出来なくて、同時にとても恥ずかしくて、麻奈は取り繕うようにビシャードに微笑んだ。その笑みは引きつっていたが、ビシャードは何も言わずに麻奈の肩に手を置いた。


「そなたは疲れているんだよ。しばらくゆっくりと休みなさい。何かして欲しいことはあるか?」


 暖かい言葉に頷き、麻奈は少しの間考えた。


「そういえば、ジュリアンがいないんです」


 そう言った途端、ビシャードは露骨に嫌な顔をした。


「陛下が彼を嫌いなことは分かっています。でも、どうしても聞いてほしいんです」


 麻奈は苦笑したが、先を続けた。彼はあまり聞きたくなさそうだが、聞いてもらわなければ話が先に進まないのだ。麻奈はこれまで起こったことをビシャードに全て話した。


 ジュリアンがユエを傷つけた事、ユエも今は元の姿に戻り脱出に協力的なこと、ジュリアンの記憶の再現の途中で麻奈が鏡から出てきてしまったこと。


「そんなことがあったのか。あの銀髪の男が邪魔をしなくなったのは良いが、奴のしたことは許されることではない」


「そうですね。でも彼は、これからは協力を惜しまないと約束してくれました。ここは陛下の広い心で、ユエを許していただけませんか?」


 こういう言い方は、ビシャードにとても甘えていると麻奈は思う。しかし、今ユエを受け入れてもらえなければ、これからの出口探しに支障が出るかもしれない。


「到底許すことは出来ない。――だが、許そう」


 ため息混じりに言葉を吐きだした後、ビシャードは不機嫌そうに口元を引き結んだ。気持ちの上では納得できないが、無理矢理にでも認めざるを得ないということだろうか。 


 麻奈は複雑な葛藤をしているであろうビシャードの気持ちを思い、「すみません」と頭を下げた。


「それで、陛下にお願いしたいことがあります」


 不機嫌が治らないビシャードは、項垂れたまま首だけを上げてジロリと麻奈を見上げた。嫌な予感でもしているのか、一言も言葉を発しない。


「ジュリアンを探して欲しいんです。彼の記憶の再現が今までにないような終わり方をしたので、心配なんです」


「……非常に気が進まないが、それがミナカミの願いなら余はそれを叶えよう」


「ありがとうございます。もし他の人たちに会えたら、私が話したことを伝えてもらえませんか? 皆で情報を共有しましょう。私も、もう少し休ませてもらったら陛下に合流します」


「分かった。無理だけはしないようにな」


 立ち上がったビシャードは、麻奈に心配そうな目を向けてからバスルームから出ていった。後に残された麻奈は、自分の左手に広がる不気味な鱗を見て顔を歪めた。そして、慌てて浴槽に入ったせいで脱ぎ忘れていたブーツのチャックを下ろした。水に濡れたブーツは思いの他気持ちが悪く、早く脱いでしまいたいと思っていたのだ。


 濡れたブーツを浴槽の外に捨て、改めて自分の足を見た麻奈は驚いた。ブーツで隠れていた足。そこに鈍く光る鱗を認めて、麻奈は嫌悪感のあまり顔を背けた。こちらの方が手よりもずっと深刻な事態になっていた。


 鱗がつま先からふくらはぎまで広がっており、足の指と指の間には薄い膜のような物が張っている。それが水かきだと気が付いた麻奈は口を両手で覆って身震いした。


「私、こんな姿になりたいなんて思ってないのに……」


 水面に向かって弱々しく吐き出す。つんと鼻の奥が痛み、麻奈は慌てて目頭を擦った。ここで泣いてしまえば、この奇妙な事態に麻奈を巻き込んだ誰かに負けてしまうような気がした。麻奈は意地でも泣かないように、唇をグッと噛みしめて表情を殺した。


『そうやって泣きもしないなんて、人としての感情がないんじゃないの?』


 そんな麻奈に追い打ちをかけるように、どこからともなく小さな声が聞こえてきた。麻奈はますます唇を強く噛んだ。


『ねぇ、償ってよ。私から先輩を奪った罪を償ってよ!』


「お願いだからやめて!」


 麻奈は気が付いた時には声を荒げていた。この声は幻聴だと分かってはいても、心の一番弱くて痛い部分を抉られるのは辛い。


 息遣いだけがやけに大きく聞こえる浴室で、麻奈は力なく項垂れることしか出来なかった。ジュリアンを探す余裕などとてもない。自分のことで精一杯だ。


「もう嫌だ……全部、もう一度忘れたいよぉ」


 その時、バスルームの扉を引っかくような小さな音が聞こえて、麻奈はギクリとして顔を上げた。細く華奢な影が、すりガラスに映っている。


 まさか。


 ドアノブがゆっくりと回るのを、冷や汗をかきながら見つめていた。


 まさか――まさか。


『見つけた。麻奈』


 セミロングの髪を揺らしながら、小柄な愛らしい少女が浴室に入って来た。丸い瞳にふっくらとした唇。誰もが頬を緩ませるような可憐な少女だ。


「聖華……」


 麻奈は絶望的な気持ちでその少女の名前を口にしていた。

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