ジュリアンのトラウマ 5
麻奈の前に華やかな空間が広がっていた。床や壁、天井さえも白く滑らかな石で出来ている。天井には宝石のようなシャンデリアが輝き、そこかしこに置かれた巨大な生け花が煌びやかな雰囲気を演出している。
周りを見渡してみると少し離れた所にフロントがあり、タイトな制服に身を包んだ美しい女性スタッフが笑みを浮かべて接客しているのが見える。ここは間違いなく、ホテルのロビーだ。
ロビーの向かいにはたっぷりとスペースをとったラウンジが広がっていて、リゾートというよりは都会のハイソサエティーなホテルという印象を麻奈に与えた。
行き交う人たちのフォーマルな装いを目にして、麻奈は何となく居心地が悪いような気持になった。周りの人々から自分の姿は見えてはいないのだと分かっているのだが、ショートパンツとラフなシャツという恰好は、完全にドレスコードに引っかかっているような気がする。
麻奈は落ち着かない気持ちを抑えながら、過去のジュリアンを探した。その途端、白い細身のスーツを着た青年が麻奈の横を通り過ぎた。肩まで届きそうな金色の髪を揺らしながらラウンジの方へと歩いて行くのは、あのミカエラだった。
幼い頃は女の子に間違えられてもおかしくないほど可愛らしかった彼は、スラリとした手足を持つ美しい青年に成長していた。線が細く、少し中性的なミカエラを振り返る人々はとても多い。しかし、ミカエラはそんなことを気にも留めずにまっすぐにラウンジへと入って行った。
麻奈は慌ててミカエラを追いかけた。白いスーツの背中は、どんどんラウンジの奥へと進んでいく。そして、あるテーブルの前で足を止めた。
「やっと見つけたよ、ジュリアン。ホテル相続おめでとう。これからは君がここのオーナーだね」
ミカエラが話かけている先には、一人掛けのソファーにゆったりと腰かけているジュリアンがいた。少し長めの前髪に、両耳に開けられたピアスの列。彼は、現在のジュリアンと全く同じ容姿になっていた。
その向かいには、見事な金色の髪を後ろに流している壮年の男性が座っている。彼の眉間には深い皺が刻まれており、ミカエラを認めた途端、元々不機嫌そうに歪められた口元をより一層ひん曲げた。
「旦那様も一緒だったんですね。ジュリアンのお披露目式の直前に申し訳ありませんが、お約束通り少しの間だけジュリアンと話をさせて下さい」
ミカエラは申し訳なさそうに頭を下げた。しかし、男は何も言わずにミカエラから視線を外した。
麻奈は思った。ミカエラが旦那様と呼んだこの男は、ジュリアンの父親なのだろう。それはつまり、義理とはいえミカエラの父親でもあるということだ。それなのに、この素っ気なさはどういうことだろう。
これではまるで、彼はミカエラを無視しているようだ。
分厚い書類に目を通していたジュリアンが、顔を上げて立ち上がった。
「ありがとう。ここで話すのは落ち着かないから、上に行こうか」
ジュリアンはミカエラを促しながらラウンジを離れた。
「まったく、朝から忙しくて目が回りそうだ。もう夕方なのに、今日初めての食事をやっと今取った所だよ」
「そう……忙しい時に悪かったね」
ジュリアンの後に付いて行くミカエラの表情は暗い。いつでも周りを明るくしてくれていたミカエラの面影は今は鳴りをひそめているようだ。
「入れよ。今日は、この部屋は空き部屋にしているんだ」
マスターキーを見せるジュリアンに導かれて、ミカエラは部屋の中へと入った。
麻奈は彼らが入って行った部屋の前でじっと立ち止まった。これから、何かが本格的に始まるのだ。麻奈の予感はそう告げている。ここからは、記憶の主であるジュリアンを差し置いて前に出ることは出来ないような気がしていた。
麻奈は遅れてやって来る現在のジュリアンの到着を待った。彼は、ゆっくり靴音を響かせながらのんびりと歩いてきた。それは意図的に遅れているような、緩慢な歩みだ。ジュリアンは扉の前の麻奈を見つけて肩を竦めた。
「こんな所でどうした? 中に入らないのか?」
「これから始まるんでしょう? 私だけが勝手にそれを見てしまうわけにはいかないじゃない」
「律儀だな。私の許可なんて必要ないのに――。見たければ、勝手に見ればいい」
「決して見たいわけじゃないの。出来れば今すぐ逃げ出したい。でも、それじゃきっと駄目なんだと思う……」
「それじゃあ、行こうか」
ジュリアンは両手で思いきり扉を開け放った。そして、扉の前で麻奈を手招きした。女性が優先とでも言うように、芝居がかったような仕草で道を開ける。麻奈は部屋の中へと一静かに進んでいった。
中は麻奈の予想通り、廃校の三階にあったジュリアンの部屋にそっくりだった。ソファーセットが置いてあるこの部屋にふたりの姿はない。ジュリアンとミカエラは、問題の寝室で話をしているようだった。
続き部屋の入口からそっと中を覗くと、キャンドルの明かりで淡いオレンジ色に照らされたジュリアンとミカエラの姿が見えた。
「わざわざここにミカが来たってことは、きっと明日じゃ駄目な話なんだな?」
「――今日はジュリアンの門出の日だろ。僕にとっても、意味のある日にしたかったんだ」
「どうしたんだ、何か今日のミカ変だぞ」
ミカエラはジュリアンに曖昧な笑みを返して窓辺に寄りかかった。大きな窓から差し込む夕日が彼の金髪をキラキラと輝かせている。憂い顔のミカエラは、天の園を追われた天使のように儚げに見える。
「今日学校を辞めてきたよ」
ミカエラは寂しそうに笑った。
「ねぇ、ジュリアン。君は僕の髪が父親譲りだって知っていたかい? まぁ、このぐらいの色なら結構どこでも見かけるから珍しくないけど、誰かに似てると考えたことはない?」
「……父さんか?」
「そうだよ。旦那様と同じ色なんだよ。彼は僕が自分の子どもだって知っていたんだ。そりゃそうだよね。自分の浮気相手が子ども連れて戻ってきました。その子は自分と同じ金髪でした。なんて事が起きたら、普通は自分の子どもかもしれないと思うだろ」
「父さんに確認したのか?」
「案外あっさり話してくれたよ。僕の何がお気に召したのか良く分からないけど、旦那様はDNA鑑定をした結果、僕を養子にすることを決定したんだよ。それが、僕らがミドルスクールに入る頃だった」
「その頃と言えば――まさか、ミカの母さんがいなくなったのも偶然じゃなかったのか?」
「そうだよ。僕の母さんは旦那様が追い出したんだ」
なんでもないような口調で話すミカエラの様子が、かえって痛々しいと麻奈は思った。彼の空色の瞳は、もう何かを諦めたかのように光が無い。
「僕はずっとお母さんを探してた。だって、あのお母さんが僕を捨てて行くわけがないんだ。知ってた? 僕意外と人を使うのが上手くなったんだよ。ついこの間、親切で優秀な探偵さんがこっそり見つけてくれたんだ。でも、もう遅かった。全部、全部遅かったんだよ」
ミカエラの俯いた顔に夕日の赤い影が出来る。その陰影が、天使のようなミカエラに不吉な暗い影を落とす。ミカエラと対話しているジュリアンは身動き一つしなかった。おそらく出来なかったのだろう。ミカエラの静かな悲しみに圧倒されて、ジュリアンは息すら出来ないのかもしれない。
「だから僕は、これからは自分の好きなように生きようと思ったんだ。それでね、今日はジュリアンにお別れをいいに来たんだ」
「お別れって、どういうことだよ……」
ジュリアンはミカエラに手を伸ばした。しかし、ミカエラは後ろに下がってそれを避けた。
「僕の大事な兄弟。とても大好きだよ。でも、ここにいる意味がもうなくなってしまったんだ。だって、お母さんはもう……僕を迎えには来ないんだ」
ミカエラの瞳に涙が浮かんだ。しかし、ミカエラはすぐに涙を拭ってジュリアンに笑顔を向ける。
「だから、さよならだよジュリアン。僕は僕の力で自分の道を歩みたいんだ」
ミカエラはジュリアンの横を通り過ぎ、部屋を出て行こうとする。しかし、ジュリアンがその手を掴んだ。
「駄目だ。駄目だ、駄目だ! 俺を置いていくなんて、絶対に許さない!」
「ジュリアンは、もう僕がいなくても十分やっていけるよ」
「ミカがいなくちゃ駄目だ! 行かないでくれ。俺を置いていくなんて、そんな恐ろしいことを言わないでくれよ」
ジュリアンを見つめるミカエラの瞳は穏やかだ。もう何を言っても彼の決意は揺るがないのだろう。ジュリアンはそれを悟ったようにミカエラの手を離した。しかし、ジュリアンは諦めてはいなかった。彼は火の灯ったキャンドルを手に取ると、唯一の扉を背にしてミカエラを見た。
「行かせない。行かせたくないんだよ、ミカ。どうしても行くなら、俺はここに火をつける」
「ジュリアン……」
ミカエラは憐れみを込めた視線をジュリアンに向けた。
「出来ないよ。君は賢くて、本当は優しい人だもん」
「俺は、本気だ」
ジュリアンはキャンドルを下に向けると、側にあったキングサイズのベッドに火をつけた。炎はたちまち燃え広がり、瞬く間に黒い煙を立ち昇らせた。
ミカエラは驚いたようにジュリアンを見返す。ジュリアンの黒い瞳は、いつにも増して闇のような黒い色をしていた。
「そこにいたら逃げ場がないぞ。出て行くなんて、もう言わないよな?」
「僕はもう決心したんだよ。頼むからそこをどいて」
ジュリアンは手に持っていたキャンドルを力任せに放り投げた。それは寝室の窓にあたり、窓ガラスが激しい音を立てて割れた。部屋に充満し始めていた煙が、出口を見つけて一斉にそこから流れ出る。
「君は僕が居なくても大丈夫。ジュリアン、さぁ、道を開けて。このままじゃふたりとも火傷じゃすまなくなる」
「何で分からないんだ。俺がこんなに駄目だと言ってるのに……」
ジュリアンはミカエラの細い肩を掴んだ。その突端、黒い煙が目隠しをするように二人を包みこんだ。
「ジュリアン、離して」
「暴れるな! そっちは危ない」
立ち込める煙にむせながら、麻奈は目を凝らして寝室へと一歩踏みだした。視界は煙で塞がれてしまい、もう二人の声しか聞こえてはこない。麻奈はゆっくりと窓辺へと近づいた。恐ろしいことが起こる。そんな予感がしていたのに、麻奈は足を止めることが出来ない。
人の影が見えた。それは揉みあって、一つのシルエットになっていた。
「あっ!」
声を発したのは誰だっただろうか。一瞬部屋の中に小さな風が巻き起こり、煙がもの凄い勢いで部屋の外へと流れて行った。煙にしみた目を開くと、ガラスが割れた窓辺で、もつれ合うようにしていたミカエラが足を踏み外して背中から落下していくところだった。口を僅かに開けて、大きく目を見開いて。
ジュリアンが咄嗟に手を伸ばしたが、ミカエラの手には届かない。
瞬きひとつの間に、ミカエラは姿を消した。
「きゃあぁぁぁ!」
麻奈は叫んだ。目の前が真っ暗になり、自分が叫んでいることさえ分からなかった。
落ちた――人が、落ちていった。
麻奈はそう思った途端、急に息が苦しくなった。崩れ落ちるようにその場に膝をつき、ミカが消えてしまった窓辺を見つめる。しかし、もう涙で何も見えなかった。その場にひとり残されているはずのジュリアンの声さえ聞こえない。
いつの間にか麻奈は泣いていた。ミカエラが落ちていく瞬間の映像が繰り返し頭の中で勝手に再生されている。いつしかそれは、別の人間になっていた。
「先輩……」
いつも緩められている制服のネクタイ、少し茶色い風になびく髪の毛。麻奈を見上げながら落ちていく驚いた瞳に、大きく開けた口。
「私が、突き落とした……」
麻奈は後ろに奇妙な気配を感じた。恐る恐る振り返ると、そこには水色に光る巨大な光の塊がゆらゆらと揺れていた。
遂に追いつかれてしまった。麻奈がそう思った瞬間、麻奈の意識はスイッチを切ったように途切れていた。