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ジュリアンのトラウマ 3

「先生、俺のキャッシュカードがありません」

 

 ひとりの少年が手を真っ直ぐに伸ばし、大きな声を上げた。


 麻奈はまた一瞬で変わった景色に目を瞬かせた。いつものことなのだが、突然の状況変化に付いていけずに、思わず周囲を見渡してしまった。


 整然と並べられた肘掛付きの机に、たくさんの子どもたち大人しく座っている。手を上げた少年は、その中のひとりだった。


 そこは、どうみても学校の教室だった。周りの生徒たちは皆、驚いた顔で手を上げた少年に注目していた。


「体育の授業の前にはあった俺のカードが、今見たら無くなってました」


 特に焦った様子も見せず、少年は立ち上がった。


 麻奈はその少年に見覚えがあった。彼は、ついさっきジュリアンの陰口を友達と言っていた少年のひとりだ。それに気がついた途端、麻奈は嫌な予感がした。


「貴重品は、朝のうちに事務に預けておく決まりだったろう」


「すいません」


「体育の前には絶対にあったんだな?」


「ありました。絶対間違いありません」


 教師は口をへの字に曲げてクラスを見渡した。気難しそうな初老の男性だ。彼はじっと黙ったまま目じりの皺を深めて生徒たちを見据える。


「お金に困ってる誰かが盗ったんじゃないですかぁ? うちにはそういう生徒がいるんだから」


 誰かが声を張り上げた。それを聞いた生徒たちは、一斉にミカエラの席を振り返った。注目を受けたミカエラは、今にも泣き出しそうな顔で俯いた。


「ミカエラがそんなことするわけない!」


 勢いよく立ち上がったジュリアンの椅子が大きな音を立てた。


「じゃあ誰が盗ったんだよ」


 カードを紛失した少年がジュリアンをじっと睨み付けた。生徒たちの間に、さざ波のような動揺が走る。


「そう言えば、体育の時間に具合が悪いって休んでたのはジュリアンだけだよな」


 誰ともつかない呟きひとつで、今度はジュリアンに疑惑の目が向けられた。そして、それは教師にも伝染したようだった。沈黙を破ったのは、意外なことに震えるようなか細いこえだった。


「あの、ジュリアンはキャッシュカードを取ったりしていません」


 声の上がった方を見ると、ミカエラがおずおずと手を上げていた。


「皆が着替え始める少し前には、ジュリアンはもう保健室に居ました。僕が付き添ってたので確かです」


 教師はジュリアンとミカエラを交互に見た。


「僕じゃありません」


 ジュリアンもきっぱりとした口調で否定したが、その顔はやや青ざめていた。


「保健室に行ってからトイレに行くとか言って、途中で抜け出したんじゃないのか?」


 カードを無くした少年は、食い下がるようにジュリアンを疑っている。それを皮切りに、生徒たちが思い思いのことを喋りだしたので、教室は俄かにざわめいた。


 教壇の上で、教師が手を叩いて生徒の注目を集めようとした。しかし、一旦騒ぎ始めた教室はなかなか静まらない。三度手を鳴らした時、ようやく皆がお喋りを止めた。


「静かに! まだ誰の仕業か決まっていない。高梨はもう一度鞄の中を調べて見なさい。他の皆は、念のために取られた物が無いかを各自で良く調べなさい。それから、これから先生が端から回って皆の持ち物を検査する。鞄の蓋を開けて席についているように」


 そう宣言してから、教師は端の生徒の鞄を覗き込んで中を探り始めた。ジュリアンは悔しそうに顔を歪めて、大人しく着席した。


 持ち物検査は淡々と進み、初老の教師がゆったりした足取りでジュリアンの席に近づくと、生徒全員の静かな好奇の視線が集まった。


 教師がジュリアンの鞄の中に手を突っ込み、それから表情を硬くした。


「これは、お前の物か?」


 そう言って取り出した物は、光沢のある小さなカードだった。麻奈の位置からは良く見えないが、教師の渋い表情を見る限りそれはジュリアンの物ではないことが一目で分かるらしい。


 ジュリアンは目を見開いて自分の鞄から出てきたカードを凝視していた。なぜそんな物があったのか解らないといった顔だ。


「僕の物じゃ、ありません」


 絞り出すようにそう答えたジュリアンは、悔しそうに唇を噛みしめた。


「……田中はこのホームルームが終わったら職員室に来なさい」


 教師は固い声でジュリアンにそう言い渡し、騒ぎは終わりだと暗に告げた。その時、カードを無くしたと騒いだ高梨という生徒と、もうひとりの生徒が誰にも見えないように密かに笑い合った。


 気まずいホームルームが終わり、生徒たちは弾かれたように席を立って帰り支度を整える。そんな中、ジュリアンだけはひとり机に向かい、ピクリとも動かない。俯いた顔には何の表情も浮かんではいない。


 麻奈はいたたまれなくなり、机に座るジュリアンから顔を背けた。


「キャッシュカードが無事に帰ってきて本当に良かったなぁ。うちのクラスは信用出来ない奴らがいるんだから、これからは気を付けろよ」


 何かに耐えるようなジュリアンの背中に小さな笑い声がぶつかって来たのは、ほとんどの生徒が帰宅した頃だった。


「人の物盗んでおいて平気な顔してるんだから、本当に呆れるよ。恥ずかしくねぇのかな」


 ジュリアンに聞こえるようにわざと交わされる密やかな会話に、麻奈は思わず拳に力を込めた。ジュリアンのすぐ後ろでは、数人の少年たちが集まってひそひそと話をしている。そのにやついた顔を見ると、恐らく彼らはわざとキャッシュカードをジュリアンの鞄に入れたのだろう。


 麻奈は見えないと分かっていながらも、少年たちを睨み付けた。悪戯にしてはかなり悪質だ。そして、彼らが公園でミカエラを囲んでいた少年たちと同じ顔ぶれだということに気が付き、更に怒りは膨らんだ。しかし、麻奈にはどうすることも出来ない。


 ジュリアンは彼らの声に肩を震わせながら、俯いていた顔を上げて正面を向いた。ジュリアンは決して後ろを振り返り、彼らに言い返したりはしなかった。その態度は、悪口など相手にしていないという彼なりの精一杯の意思表示に見える。


 少し離れた所でミカエラが心配そうにジュリアンをじっと見つめ、おろおろと落ち着かない様子で歩き回っているのが見えた。


 そんなミカエラの姿がみる間に溶けていくのを見て、麻奈はまた場面転換に身構えた。





 声が聞こえた。小さな声ではなく、相手を圧倒するような大きな声だ。


 ジュリアンの記憶の場面は、随分変わるのが早い。


 麻奈はそんなことを思いながら、いつの間にか目の前に扉が立ち塞がっている大きな扉を見つめた。細かな装飾が施された巨大なその扉の中から、低い男の声が聞こえている。


 麻奈は扉に耳を付け、中の様子をそっと窺った。それを見て、麻奈の後ろで現在のジュリアンが肩を竦めた。咎める気はないようだが、その仕草は褒められる行為ではないと言いたいらしい。それでも、麻奈は耳を扉に付けたまま中から漏れている声を聞いていた。麻奈には扉を開ける気はなかった。どうやら、声の主はとても怒っているようなのだ。


「私の所にまで尻拭いが回ってくるなんて……。お前のおかげで午後の取引が延期になった。たかが同級生にいじめを受けたぐらいで親を呼ばれるなんて、全く情けないぞジュリアン!」


「すみません。でも――」


「言い訳を聞く時間はない。お前も私の息子なら、自分の始末は自分でつけろ。お前にたてついたことが、どういう事なのかを思い知らせるんだ。そうだな、まずは首謀者を除いたクラスの生徒全員を味方に付けろ」


「そんなこと、どうすればいいんですか?」


「金は力だ。クラスメートたちにどんどん奢ってやれ。それだけの小遣いはやっているんだ、容易いだろう。お前の味方をすることで素晴らしいメリットがあるんだということを相手に刷り込め」


「でも、それじゃあ本当の友達とは言えないんじゃ……」


「誰が友達を作れと言った。お前の味方を作れと言ったんだ。そんな甘いことを言っているから、隙を突かれるんだ。利用されて悔しかったんだろう?」


「はい」


「それなら、その悔しさを体に刻み付けろ。そして利用される立場から相手を利用する者になれ。他人を簡単に信用するな。お前ならどうすればいいかはもう分かるだろう」


「……はい」


 消え入りそうな小さな返事が扉越しに聞こえた。その後すぐに扉が開き、中から制服姿のジュリアンが出てきた。彼の両目は真っ赤に染まっていた。


 扉に張り付いていた麻奈は態勢を崩して床に手を付いたが、小さなジュリアンは麻奈には目もくれずに廊下を歩いて行ってしまった。


 麻奈は慌てて立ち上がると、その小さな背中を追いかけた。後ろから、現在のジュリアンが小さくため息を吐いて麻奈の後を追ってくる靴音が聞こえた。


 麻奈はジュリアンの過去に一体何があったのかを知りたかった。どうやって今の彼が出来上がったのかを、きちんと知りたいと思ったのだ。


 ジュリアンは慣れた足取りで一つの扉の前にたどり着いた。彼は思いつめた顔でコンコンと小さくノックをして返事を待った。中から「どうぞ」という小さな声が聞こえると、ジュリアンは部屋の中へと入って行った。


 麻奈は扉が閉まる前に体を滑り込ませると、現在のジュリアンと共に部屋に入ることに成功した。その後に、現在のジュリアンが堂々と扉を開けて灰って来たのを見て、何とも微妙な気持ちになった。


「旦那様に呼ばれてたんだって? どうだったの?」


 中にいたのはもう制服を脱いだミカエラだった。彼は丈が少し短い質素な服を着て、入って来たジュリアンに歩み寄った。仕立ての良い制服を着ているジュリアンと並ぶとその衣服の質の違いが際立ち、彼らの立場をより明確に浮彫にしていた。ミカエラは使用人の子どもなのだ。


「もしかしてお説教だったの?」


 ミカエラは赤い目をしているジュリアを見ると、その綺麗な顔を曇らせた。


「ミカ、頼みがあるんだ」


 ジュリアンの口調は真剣だった。ミカエラは丸い瞳でジュリアンは見返していたが、先を促すように首を傾げた。


「俺の耳に、ピアスを開けてくれないか?」


「えぇ? 急にどうしたんだよ」


 ジュリアンは父親に言われた話をミカエラに話した。ミカエラは目を丸くしながらジュリアンの話に耳を傾けていた。


「ジュリアンはいつも苛められている僕を助けてくれていたから、きっとあいつらに目を付けられたんだ。いつか何かしてくるかもしれないと心配してたけど、こんな形で仕返しをしてくるなんて……」


 ミカエラの瞳が、みるみる涙で盛り上がる。


「ごめん、全部僕のせいだ……」


「ミカのせいじゃない。あいつらが馬鹿すぎるだけなんだよ。俺は決めたよ。もう二度とこんな思いをしなし、ミカにもさせない。だから――今日のことを忘れないために、ピアスを開けて教訓にしたいんだ」


「それじゃあ、旦那様に言われた通りに皆にお金ばらまくの?」


「うん。俺はきっとこの先もこんなトラブルに巻き込まれるかもしれない。そんな時に、今のような弱い人間でいたくないんだよ」


「――本当に、ジュリアンはそれでいいの?」


 ミカエラの問いかけに、ジュリアンは大きく頷いた。


「もう他人に隙なんか見せない。信用なんかするもんか。俺の本当の友達は、ミカだけでいい」


 ジュリアンの強い意志のこもった瞳を見て、ミカエラは眉を下げた。ふっくらとした赤い唇が何かを言いかけ、やがて大きなため息を吐き出した。


「分かったよ。じゃあ、ちょっと待っていて。ママのピアッサーがあるから、それで開けてあげる」


 ミカエラは小さな三面の鏡が付いた鏡台の引き出しから小さな箱を取り出した。


「やっぱり決心は揺るがないの?」


「揺るがない」


 ミカエラは固く頷くジュリアンの横に腰を下ろし、ピアスのキット取り出した。ミカエラはたどたどしい手つきでピアッサーを取り出したり、消毒液をコットンに浸したりしている。


「本当は氷で冷やしてからの方があんまり痛くないってママは言ってたけど――」


「いや、俺は痛いほうがいい。今日のことを忘れたくないから」


 ミカエラは眉を顰めた。耳に穴を開ける痛みを想像しているらしい。


「じゃ、いくよ」


 ミカエラがてしていた器具をジュリアンの耳にあてた。


「息止めて」


 ジュリアンの耳元に顔を寄せ、ミカエラが囁いた。パシッと小さな音がして、ジュリアンの体が一瞬痙攣した。


「ごめん、やっぱり痛かった?」


「大丈夫、これでいいから」


 ジュリアンの声は小さく、震えていた。やはりしっかりしているように見えても、まだまだ子どもなのだ。体に穴を開けることへの恐怖も大きかったのだろう。


「ちゃんと綺麗についてるからもう大丈夫。でも、もしかしたら腫れるかもしれないから今日はこっちむいて寝ちゃ駄目だよ」


「頼んでおいてなんだけど、お前随分詳しいよな」


「ママがやるのを見ていたからね。それより、絶対に汚い手で触っちゃ駄目だからね。それと、穴が定着するまでこのピアスはしばらく外さないこと」


「分かったよ」


 ジュリアンは笑った。それは、子どもらしい屈託のない微笑みだった。

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