ジュリアンのトラウマ 2
一瞬にして変化した周りに戸惑ってしまうのは毎度のことで、こんどはどんな場面を見せられるのかと身構えながら、麻奈は辺りを見回した。
天上の高い巨大なホールの中央に、麻奈とジュリアンは立っていた。ふたりの側を征服姿の小学生たちが幾人か素早く走り抜けていった。
「ここはどこ?」
「学校ですよ」
「こんなに大きな学校初めて見た……」
そこは無駄な装飾も、学校特融の使い古された雰囲気もない無機質なホールだが、天井が高く美しく洗練された場所だった。こんなに所で勉強などしたって落ち着かないだろうな、というのが麻奈の率直な感想だった。
「ところで、昔のジュリアンはどこにいるの?」
「さぁ、小中高とここには九年間通いました。今がいつの時なのかさっぱりわかりませんね」
肩を竦めて答えるジュリアンの顔は、どことなくふてぶてしく見える。もしかすると、物腰も柔らかく紳士然とした彼も全て作り物だったのかもしれない、と麻奈は考えた。
「ねぇジュリアン。皆の過去を見ていて不思議に思ったことがあるの。過去の皆をあの廃校に連れてくるのは、いつも貴方だったよね? どうして他の人は迎えに来なかったの?」
麻奈は今まで心の奥に沈めていた疑問をぶつけてみた。ジュリアンは大して表情も変えずにそれを受け止めている。
「それにね、あの廃校に初めに呼ばれたのは一体誰だったの? ここから誰も出たことがないのなら、それはジュリアンとリーズガルドのふたりしかいないことになる。そのどちらかが何かを知っているんじゃない?」
「何が、言いたいんですか?」
「ジュリアンはここにせっせと新しい人たちを連れてきていた。そもそも、まだ姿が変わらない者だけが出口を見つけられるだなんて、一体どこで知ったの?」
ジュリアンの口元がゆっくと吊り上った。その割に、彼の目は全く笑ってはいない。
「なるほど、私はすっかり麻奈の信頼を失ってしまったってわけですね」
「私だってジュリアンのことを信じたい。信じさせて欲しい――でも、本当のことを知らなくちゃここから出られないと思う」
「一番初めにここに呼ばれたのは、私じゃありませんよ。私がここに来たときにはもうリーズガルドが居ましたからね」
「本当に?」
「えぇ」
「じゃあ、どうして他の皆を連れて来たりしたの?」
麻奈はジュリアンの目をじっと見つめた。彼が本当のことを言っているのか、それとも嘘を吐いているのかを見極めたかった。しかし、ジュリアンの鳶色の瞳は冷たく麻奈を見下ろすだけだ。
不意にジュリアンが麻奈から目をそらしてため息を吐いた。
「全く、君はすぐに人を信用するお人よしだと思っていたのに、面倒なことに気が付いたもんだな」
「ジュリアン……?」
戸惑う麻奈の目の前でジュリアンの雰囲気が一変した。面倒くさそうに頭を掻いたジュリアンは、もういつものような真面目な紳士ではなかった。
「どうしても知りたいと言うなら仕方がない。教えてあげるよ。私はね、あの場所に新しい人間を連れてくる手伝いをすれば、私だけは外へ出してもらえるという約束を交わしたんだよ」
「約束……? 誰と?」
「さぁ、出してくれるなら誰でもいいさ。此処に連れて来られた者たちはね、常に誰かに監視されているんだよ」
そう言われて、麻奈はつい辺りを見渡してしまった。急に絡み付くような視線を感じたような気がして、麻奈はぞっとした。
「そうだよ。今もきっと誰かが私たちを見ているはずだ」
「でも、そんな約束をするなんて無理だよ。外と連絡を取ることは、不可能なんでしょ?」
カラカラに渇いてしまった口の中で、麻奈はやっとそれだけを口にした。しかし、ジュリアンはそんな麻奈の様子が可笑しかったのか、くすくすと笑っている。
「そういう思い込みが、人を前進させる障害になるんだよ。もっと柔軟に物事を考えてほしいな。前に校内放送がかかったことを覚えているかい?」
麻奈は頷いた。あの気味の悪い声は忘れたくても忘れられない。
「外からこちらにコンタクトを取る方法はちゃんとあるんだよ。監視している誰かが望む時のみだけれど、会話をすることだって出来るんだよ」
「そんなの、一体どうやって?」
「大抵どんな建物にも通信手段は備わっているものさ。廃校にいる他の奴らはそんなことに構っていられないようだったから、きっと探してもいないんだろうだけどね。探せば以外に簡単に見つかるんだよ。あぁ、ビシャードとユエの時には無かったな。彼らの文明は私たちのものよりも大分遅れているらしいから」
「じゃあ、ジュリアンは放送室を出た後ひとりで何をしていたの? もしかして、犯人と連絡を取る方法を探しに行ったの?」
「そうだよ。職員室には電話があっただろう? あれでようやく監視者と連絡が取れたけど、あの時は本当に焦ったな。何しろ相手はお怒りだったから、私との約束が反故にならないかと冷や汗が出た」
麻奈は目の前がぐらぐらと揺れているような気がした。ショックなことが多すぎて立っているのももう限界だった。
「麻奈、君はそういう辛そうな顔をしている時が一番綺麗だよ」
ジュリアンが麻奈の頬に触れた。
「私を慕って一生懸命ついてくる姿も可愛かったけど、今の方が私の好みの表情だ」
「触らないで」
麻奈は自分の頬を滑るように撫でているジュリアンの手を払いのけた。
「どうして嘘を吐いたの? どうして人を利用することしか考えられないの?」
麻奈は泣いていた。悔しくて、悲しい。そんな麻奈をどこかうっとりとした様子で眺めながら、ジュリアンは肩を竦めた。
「だって――利用しなければ、利用されてしまうだろう」
麻奈は絶句した。
「人間なんて、本当に信用できない生き物だよ。ぼんやりしていたら他人に良いように使われるだけなんだ。だから、その前にこちらが利用してやればいい」
そう言い切るジュリアンのすぐ横を、制服を着た子どもたちが通り抜けた。その先頭を歩くのは、幼いジュリアンだった。
「ジュリアンって今回の学力テストでまた学年一位取ったんだろう?」
「大したことじゃないよ」
「本当にすごいな。五年連続一位だなんて、初等部始まって以来だって先生が言っていたよ」
「ねぇ、今日ジュリアンの家に遊びに言ってもいいかい?」
「もちろん、皆で来てもいいよ」
「じゃあ、後で」
数人の子どもがそう言って、そこでジュリアンに手を振って別れた。しかし、ジュリアンの後ろ姿が見えなくなると彼らの顔から笑みが消えた。
「あぁ。面倒くせぇ。あいつの家に遊びに行かなくちゃいけなくなったよ」
「何が、大したことないよだ。恰好つけやがって、反吐が出る」
「でも、ジュリアンの家は金持ちだから、今からコネ付けとけってパパに言われてるしなぁ」
「しょうがない。未来への投資だと思って時間を割いてやろうぜ」
そう言いながら、彼らは笑って走り出した。麻奈は子どもたちの背中を見ながら目を丸くしていた。まだ十歳前後のこどもたちが、こんなに冷めた会話をしているなんて。
そこへ、廊下の角を曲がったはずの幼いジュリアンが青ざめた顔で戻ってきた。今の会話を聞いてしまったのだろう。その瞳は不安気に震えていた。
「あぁ。この時のことは良く覚えている。忘れ物を取りに行って、友人たちの本音をうっかり聞いた時のことだ。はは、友人だと思っていたのは私だけで、他の奴らは反吐が出るほど私のことを嫌っていたなんて、本当に笑える話だよ」
麻奈の隣で、ジュリアンは何でもないことのように笑った。それは、自嘲でも自棄になっているのでもなく、過去の自分を本当に愚かだと客観的に見ているようだった。
麻奈はジュリアンを見上げた。目が合うと、ジュリアンはおどけた様子で肩をすくめた。
「ね、言った通りだろう。あんな小さな子どもでも、自分にとって何が有益なのかちゃんと心得ているんだよ。本音と建前を上手く使い分けて、出来れば相手を操作できるのが一番良いんだって」
ジュリアンは薄く笑いながら元同級生たちを眺めている。それは、いつものジュリアンの顔なのに、麻奈には別人のように思えた。
「だから、麻奈も簡単に私を信用しては駄目だったんだよ」
そう言った途端、ジュリアンの背後の景色が円を描くように揺らいだ。それはまるで彼自身が生み出した歪みが辺りにまで影響を及ぼしているかのようだ。
だんだんと暗転するように暗くなる景色を見ながら、麻奈はそんなことを思った。