ジュリアンのトラウマ 1
一部残酷な表現を含みます。
螺旋階段はいつもと変わらない陰気な薄闇に包まれている。麻奈とジュリアンは手を繋げたままだったが、ここまで来る間ふたりはずっと無言だった。
麻奈は自由になっている左手の甲にチラリと目をやった。気のせいか、さっきからそこが鈍く疼いている。麻奈は下唇を強く噛んだ。いつの間にか、鱗がじわじわと広がってきているような気がする。おまけに、どこからともなく囁くような小さな声が聞こえているのだ。はっきりとした内容は聞き取れないが、断片的に「先輩」や「人殺し」などといった単語が聞こえてくる。
麻奈は耳を塞ぎたくなった。これが、以前サルーンが言っていた幻聴なのだろうか。それらの言葉は身に覚えはなかったが、聞いていると頭が痛くなりそうな声だった。
「少し顔色が悪い。大丈夫ですか?」
ジュリアンが麻奈の顔を覗き込んでくる。螺旋階段をゆっくりと下りながら、麻奈は鏡に映るジュリアンと自分に目をやった。すらりとした全身の姿が映るジュリアンの隣に青い顔をした自分が並んでいる。酷い顔だと麻奈は思ったが、ジュリアンの問いには首を振って答えた。
怯えたような顔をしている自分の表情が悔しくて、麻奈は唇を引き結んだ。絶対に過去など思い出してやるものかという気持ちが湧いてくる。リーズという少女に言われたように、図太くしぶとく足掻いてやる。
ジュリアンは麻奈の手を引いて階段を一段ずつゆっくりと下っていた。鏡越しに見える彼のその仕草は、いつものような洗練された優雅な動きだ。目の前に広がる巨大な鏡は、ふたりが近づくにつれて冷たい銀色に光り始めた。
「行きましょう」
「行こう」
ジュリアンに手を引かれたまま、麻奈は鏡に向かって足を踏み出した。
鏡の中に入るたび、麻奈は満点の星空に突然放り出されたような気分になる。色とりどりに光り輝く星のような点たちは、みなどこかの世界に繋がっているのだろうか。もしもそうだとすれば、この世には世界というものが無数にあるのだろう。
麻奈がそんなことを思っていると、ジュリアンが麻奈の手に力を込めたのが分かった。彼はもう元の姿に戻っていて、気難しい顔をして前方を睨んでいる。
麻奈が不思議に思って彼の視線を辿ると、そこには麻奈の背丈ほどはあろうかという光の玉がじっと鎮座していた。その様子はまるで……
(お出迎え?)
控え目な銀色の光を放っているそれは、まるで主人の帰りを心待ちにしていた犬のようだ。それだけで、どれほどジュリアンが元の姿を取り戻したかったかが伺えるようだ。
「これは、ジュリアンのだよね――?」
「えぇ、恐らく。これに触ればいいんですよね」
麻奈は頷いた。ジュリアンは躊躇いなくそれに手を伸ばした。彼の指先が触れた瞬間、光の玉は嬉しそうに一層眩い光をまき散らした。麻奈は目を閉じた。これからジュリアンの過去が始まると身構えると同時に、麻奈の水色の光が来ることがなかったのを心の奥でそっと安堵した。
目を閉じていた麻奈の耳に甲高い声が聞こえてきた。キャッキャとはしゃぐ子供たちの声。麻奈は目を開いた。そこは、日が暮れ始めた夕暮れの公園だった。
夕日に染まるブランコや滑り台。それから、麻奈が一見しただけではどう遊ぶのか分からないような遊具がたくさん並んでいる。子供たちは本当に楽しそうにそれらで遊びながら、公園の中を縦横無人に走り回っている。
あまりに平和な光景に麻奈は拍子抜けしてしまった。ジュリアンの過去の再現ならば、もっと陰湿で悲惨なものを覚悟していたのだ。例えば、無残に焼けた彼の寝室のような。
「ここ、本当にジュリアンの過去なの?」
麻奈はついついそう尋ねて振り返ったが、ジュリアンは蒼白な顔でこの穏やかな光景を眺めていた。麻奈は驚いたと同時に、後悔した。ここで見せられる映像が、当人に酷いダメージを与えなかったことなどないのだ。
麻奈がジュリアンの視線の先を見ると、小さな男の子たちが数人で輪になって遊んでいるのが見えた。年のころは七、八歳だろうか。彼らはみな上等で仕立ての良い制服に身を包んで、揃いの鞄を背負っている。まるで、どこかの私立の小学生のようだと麻奈は思った。
彼らが作っている輪の中心に、誰かが小さく膝を抱えているのが見えた。ここから見ると、それはまるで『カゴメカゴメ』で遊んでいるようにも見える。しかし、麻奈は目を見張った。彼らがしているのは、そんな生易しい遊びではなかった。いや、それは遊びではなかった。
囲まれている少年は、膝を抱えて小さく小さく蹲っている。その肩を震えていた。彼の膝には擦りむいたような傷が出来ていて、お揃いのはずの制服は所々破けて解れている。その少年を囲んでいる子どもたちは、笑いながら彼に石を投げたり蹴りを入れたりしているのだ。
麻奈は頭に一瞬にして血が上った。苛めている。まだほんの小さな子どもたちなのに、そのやり方は非常に残酷だ。麻奈が彼らの元へ駈け出そうとすると、ジュリアンがその手を引いて留めさせた。
「過去の出来事なのだから、行っても無駄でしょう」
「でも、あれじゃあジュリアンが――」
「私? あぁ、あの苛められている子どもは私ではありませんよ」
「え?」
「私は、あっちです」
ジュリアンが顎で示す先には、少年たちと同じ背格好の小さな子どもが必死にこちらへ駆けてくるのが見えた。サラサラとした黒い髪を揺らして、頬を上気させながら彼は一生懸命走ってくる。可愛らしいその顔は、まさに小さなジュリアンだ。
「ミカー!」
幼いジュリアンは大きな声を上げた。それ声に驚いて輪になっていた少年たちはハッとして顔を上げた。
「お前ら、ミカに乱暴するな!」
小さなジュリアンは背中に背負う皮のリュックを揺らして、顔を真っ赤にしながら走ってきた。ミカという子をいじめていた子どもたちは、ジュリアンの声に一斉に顔を上げた。
「やべぇジュリアンだ」
「くそ、あいつまた来た」
彼らはまさに蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。それをジュリアンは憤慨しながら追いかけたが、しばらくしてからひとり残されたミカの所へ戻ってきた。
「大丈夫かミカ?」
それまで頭を抱えて蹲っていたミカは、ようやく顔を上げた。ミカは大きな瞳一杯に涙を浮かべながら、時折小さくしゃくりあげている。
「ありがとう、ジュリアン」
ミカの白い頬やおでこは砂で黒くなっていて、鼻水と相まって酷く汚れた顔をしていた。しかし、青い瞳を縁取る長い睫毛や血色の好い桃色の唇は、幼いながらも見る者をハッとさせる美しさを備えていた。
「ジュリアン……」
「大丈夫か? ミカ」
ミカが垂直にジュリアンを見上げると、金色の髪が耳を掠めてさらさらと揺れた。おかっぱに切り揃えられた髪には、先ほどの少年たちが投げつけたゴミがくっついていた。ジュリアンがかがんでそれを丁寧にミカの髪から剥がしてやると、ミカはまた小さな声でしゃくりあげた。
「うぅ。僕のこと、ミカって呼ばないでって言ってるのに――」
「ミカエラなんだから、ミカだろ」
「それだと、僕まるで女の子みだいじゃないか」
「確かに、お前女みたいな顔だしなぁ」
そう言いながらジュリアンは砂埃だらけのミカの制服を叩いた。ミカはまだ涙に濡れている顔をしかめてむっとしたが、ジュリアンにされるがままになっている。
「そんなことより、またあいつらに囲まれたらすぐに俺を呼べよ。絶対に助けに来てやるから」
「でも、そうするとジュリアンまであいつらに目を付けられちゃうよ」
「俺は自分で身を守れるからいいんだ。俺たち友達だろう。そんなの気にするな」
「ありがとう、ジュリアン」
ミカエラはようやく笑顔を見せた。それを見てジュリアンも微笑んだ。
麻奈はそんなふたりの少年たちを、目を丸くしながら眺めていた。まるで爽やかな青春ドラマのワンシーンを見ているようだ。
「あの子、本当にジュリアンなの?」
「それは一体どういう意味ですか?」
麻奈は隣で鼻を鳴らす現在のジュリアンを見上げて何とも複雑な気持ちになった。子供のころのジュリアンは、今の彼とは似ても似つかないほど正義感あふれる少年だった。他人のために必死になるジュリアンは、何だかとても彼らしくないようにも思えた。
(それとも、あのミカエラって言う子が特別なのかな? さっきのジュリアンはまるで――)
「正義の味方みたいで、すごく恰好良かったよ」
思ったことがそのまま口から飛び出てしまい、麻奈は慌てて口を噤んだ。
「あの頃はまだ正義の味方気取りでいましたからねぇ」
ジュリアンは目を細めて微笑んだ。それは少しだけ悲しそうな笑みだった。
「ミカエラと私は幼馴染でした。彼は私の家で住み込みで働いている家政婦の子どもで、物心ついたころからよくふたりで遊んでいたんですよ」
「彼、すごく綺麗な子だね。女の子だと思った」
「ミカは彼の母親にそっくりなんです。ミカが唯一父親に似ているのは、髪の色だけだと彼の母親は言っていました」
ジュリアンは幼い頃の自分とミカをちらりと振り返った。冷ややかに、そしてとても辛そうに。
麻奈もジュリアンに倣って、手を繋いで歩き出したふたりの少年の背中を見つめた。微笑ましい後ろ姿だと麻奈は思った。
しかし、一番星が輝く藍色の空の下を歩く少年たちの姿が、急に遠いものへと変わっていった。また場所変わるのだ。麻奈はもう少し二人の少年を見ていたかったが、ひとつ瞬きをするうちにもう辺りの景色は違うものへと変わっていた。