遭遇 4
「目的、か。それが分かれば少しは此処を出る手がかりが掴めるかもしれませんね」
ジュリアンは、何やらぶつぶつ呟きながらまた歩き出した。それを見て麻奈も後をついて行く。
今は怯えていても仕方が無い。それよりも、この廃校はやはりどこかで見たことがあるような気がする。麻奈は記憶の糸をするすると手繰り寄せ始めた。しかし、その答えが出てくる前に、ジュリアンが突然麻奈を振り返った。
「そうそう、一つ説明しておかなければいけません。此処で暮らしている人たちはそれぞれ自分の部屋を持っていて、普段はほとんどそこから出る事はありません。唯、例外が一人いて、『アノ人』だけはいつも廊下を徘徊しているんです」
「アノ人?」
「ええ、もしもアノ人に会ったなら、全力で逃げて下さい」
「どうして」
ジュリアンは声を一段落として麻奈の顔を覗き込んだ。
「とても危険な人なんです。彼に言葉は通じません。だから、問答無用で襲ってきますよ」
「そんなに危険な人が」
麻奈は青褪めた。
「一体どんな人なの……」
「しっ」
麻奈の言葉を遮って、ジュリアンが麻奈の口を片手で塞いだ。その視線は警戒するように辺りを見ている。一瞬にして緊張が走ったジュリアンを見て、麻奈も息を潜めて周りを窺った。
聞こえる。廊下の突き当たりにある階段からベチャリ……ベチャリと嫌な音が響いてきた。
ジュリアンが麻奈を制して聞き耳を立てる。濡れたモップを床に付けるような音が、階段の下から徐々にこちらに近づいて来る。
「噂をすれば、アノ人です」
ジュリアンが急に踵を返して、麻奈の手を引いて走り出した。いきなりの事で麻奈は完全に面食らっていたが、ダッシュするジュリアンに引きずられるように走り出した。
あまりに素早いジュリアンの動きに、麻奈はアノ人なる者の姿を見る事は出来なかった。最も、散々脅かされていたので、今更見たいとも思わない。今しがた聞こえてきた粘ついた足音と相まって、麻奈の頭の中ではおどろおどろしいアノ人の姿が出来上がっていた。
麻奈は頭を振って、その嫌な想像を無理やり追い出した。今はそんな空想に浸っている暇はないのだ。引っ張ってもらっているとはいえ、ジュリアンの疾走に付いて行くのは麻奈の体力ではかなり無理がある。
麻奈の心臓は今にも張り裂けそうになり、喉はひりひりと痛み、鼻から口にかけて血の味が広がる。もつれる足を懸命に動かし続けるが、もう足はがくがくで言う事を聞いてくれない。倒れそうになった瞬間、麻奈のすぐ後ろで何かがベチャリと貼り付く音がして、慌てて振り返った。
途端、ひっ! と漏れる悲鳴。
淡いピンク色をした細長い物が、麻奈の腰にべったりと張り付いている。
その根元は同じ色をした大きなゼリー状の塊に繋がっていて、ねばねばした粘液を滴らせながら床を這っているのだった。肉色をしたその塊には、真ん中辺りにぱっくりと切れ目が入っていて、そこから真っ赤な内部が見えていた。それは歯も舌も無い唯の裂け目だったが、麻奈には紛れも無くアノ人の口なのだと理解できた。
アノ人は四方に触手のようなものを広げ、麻奈とジュリアン目掛けて這って来る。本体の動き自体はそう速くは無いのだが、そこから伸びる触手はものすごい速さで伸びていて、二人を絡め取ろうとしていた。麻奈の腰に張り付いたのは、その中の一本で、粘液を垂らしながらうねうねと麻奈の腰に更に巻きついてきた。
「いやぁぁ! 取って、取って!」
麻奈はパニックに陥り、腰の触手を振りほどこうと手を目茶目茶に振り回した。その拍子にジュリアンと繋いでいた手が離れる。
「麻奈、駄目です」
ジュリアンが慌ててもう一度麻奈の手を取ろうとする。しかし、不意に麻奈の体が後方へ飛んだ。アノ人が見つけた獲物を逃すまいと、驚異的な力で麻奈を手繰り寄せ始めたのだ。
ずるずると引きずられる麻奈。その顔は蒼白になり、恐怖で悲鳴すら出てこない。
ジュリアンは舌打ちすると、迫る触手をかわしながら麻奈を残して走り去っていった。麻奈はそれにも気が付かずにアノ人を凝視していた。怖くて仕方が無いのに、視線を外すことが出来ない。
麻奈がアノ人の足元まで手繰り寄せられると、ぶよぶよとした体に紅い三日月が浮かんだ。口を吊り上げて笑っているのだと気が付いて、麻奈の背筋は凍りついていた。