記憶との接触 2
ジュリアンは麻奈の腕を引きながらどんどん先へと進む。こうしてジュリアンと二人きりで過ごすのは随分久しぶりのような気がした。以前はとても安心出来たのに、今では不安と悲しさだけがざらりと麻奈の心を舐める。
「十五分待ちます。それまでに体を休めて支度をして下さい」
部屋に着くなり、ジュリアンは一方的にそう宣言してソファーに座った。麻奈は一応それに頷いたが、たったの十五分でどれだけ体を休めることが出来るか不安だった。
まず麻奈が最初に向かったのは洗面所だった。廃校に戻ってきてから喉が渇いて仕方がなかったのだ。コップに水を汲んでそれを一息に胃に流し込んだ。それでも足りずに、立て続けにもう一杯飲みほした。
自分は急にどうしてしまったのだろう。十分水を飲んだのに、麻奈はまだ自分が渇いていることに気が付いた。水に入りたい。そう思った途端、ほとんど無意識に麻奈は服を脱いで浴室へと入って行った。
シャワーのスイッチを入れて全開にして水を出す。冷たい。しかし、肌に当たる水の感触が心地良かった。麻奈はようやく一息ついた気持ちになった。まるで体全体から水を吸収しているような気がして、やっと強烈な渇きが治まったようだった。
自分は本当に一体どうなってしまったのだろう。風呂は元から好きではあったが、無意識に求めるほどではなかったはずだ。
麻奈は冷たい水を頭から浴びて目を閉じた。そして、自分の体を上から順に手でなぞってみた。顔、喉、滑らかな肌は以前とあまり変わらない。しかし左手の甲に触れたときに僅かな引っ掛かりを感じて目を開けた。みると、そこにはシールのような何かが引っ付いてキラキラと輝いている。どこでこんな物が付いたのだろうかと思いながら、麻奈は何気なくそれを手の甲から剥がした。
途端、ピリッとした痛みがしてそこから血が滲んだ。麻奈は痛みに顔を歪めながら愕然とした。麻奈が剥がしたそれは、シールなどではなかった。
「まさか、鱗?」
麻奈は手の甲で光を反射する小さな鱗を見つめた。それは甲の僅かな部分にしか生えていなかったが、間違いなく魚の鱗だった。
「やだ、嘘でしょう……?」
麻奈は不気味に変化してしまったそこを一生懸命に擦った。そうすればまた元の自分の手に戻るような気がして、必死に擦り続けた。しかし鱗を全て剥がしても、しばらく経つとまたいつの間にかそれは生えている。
麻奈は冷水に打たれながら涙を流した。自分にもとうとうこの瞬間が訪れてしまった。次に鏡の中に入ったら、完全に過去の出来事を思い出してしまうかもしれない。それは、麻奈の姿が完全に変わってしまうことを意味している。
麻奈は自分の頬を叩いて、なけなしの勇気を奮い立たせた。もしも自分の姿が変わってしまっても、ジュリアンを助けたい。たとえ騙されていても、利用されているだけだとしても。
「私って、結構馬鹿だったんだなぁ……」
麻奈は少しだけ笑った。麻奈から剥がれて落ちた小さな鱗が、キラキラと輝きながら涙と一緒に排水溝に吸い込まれていった。
麻奈がバスルームから出てくると、ソファーにジュリアンの姿はなかった。どこかに出かけてしまったのだろうかと部屋を見渡すと、窓辺に彼のサラサラとした黒髪が揺れている。
「さっぱりしましたか?」
窓の外を見ていたジュリアンが振り返った。首だけになってしまってもその端正な顔は変わらない。しかし、今では変化してしまった彼の外見以上に、その中身に恐怖を感じてしまう。
「まだもう少しだけ時間はありますよ。横になりますか? それとも……もう二度と私の言うことに逆らわないように躾けてあげましょうか?」
麻奈の背中がゾクリと粟立った。ジュリアンの真剣な瞳が、彼が冗談などを言っているのではないと告げている。いつの間にか、不機嫌な顔を隠そうともしないジュリアンが麻奈のすぐ側まで近づいていた。
「ねぇ麻奈。ユエとどんな話をしたんですか? 彼のあの顔に触れて、何といって彼を慰めたのです?」
ジュリアンの見えない腕が、震えて後退りをする麻奈の手を摑まえた。ぞっとするほど容赦のない力に麻奈は息を詰まらせた。目の前の人物は、もう完全に麻奈知らない男だった。
「麻奈の全てを私に与えてくれると約束したのに、こんなに待たされたお蔭で……見てください。私はもうすぐ消えてしまいそうだ」
悲しそうにそう言ったジュリアンの体は、もう麻奈には見ることが出来ない。ジュリアン越しに透けて見える黄昏色の部屋が、とても痛々しいように感じられた。ジュリアンはきっと焦って苛立っているのだ。
麻奈はジュリアンに掴まれていないほうの左手の甲に、一瞬だけ視線を向けた。今度鏡の中に入ったら、もう今の姿ではいられないだろう。それでも行かなければならない。今にも消えてしまいそうなこの男のために。
麻奈はもう一度ジュリアンを仰ぎ見た。怒っている。それと同時に、彼は怯えているようにも見える。麻奈は少しだけ笑った。ジュリアンを安心させるために。
「心配しないでジュリアン。必ず助けてあげるから」
ジュリアンは驚いたように目を見開いた。麻奈が頷くと、ジュリアンは再び麻奈を強く抱きしめた。ジュリアンの透明な胸に抱きこまれながら、麻奈は目を閉じた。消えてなくなることを望んだジュリアンが、確かに存在しているという証拠はこの温もりだけになってしまった。
消えないでほしいと麻奈は思った。どんなに薄情で酷い男でも、自分の目の前からいなくならないでほしかった。このとき、ジュリアンのとても小さな呟きが麻奈の頭に落ちてきたが、彼が何と言っているのかは麻奈には上手く聞き取ることが出来なかった。
「もう行こう」
そう言って麻奈が顔を上げると、ジュリアンは麻奈の手を掴んだまま歩き出した。それは麻奈が逃げ出さないようにするためではなく、何かに縋り付きたいという彼の不安を表しているようだと麻奈は思った。