記憶との接触 1
麻奈が目を開けると、そこはもう薄暗い螺旋階段の踊り場だった。背中が痛くて冷たい。麻奈は色あせたタイルの上に仰向けに倒れていて、そのすぐ上にはユエが覆いかぶさるようにして荒い息を吐き出していた。ユエの額には大粒の汗の玉が光り、それは彼が相当無理をしていたことを物語っている。
力尽きたユエに床に落とされたのだと理解するまで数秒かかり、麻奈は胸を押さえてゆっくりと起き上った。背中を強打したはずなのに、なぜか痛むのは胸だった。
ぼんやりとしながら麻奈は自分の手の甲を見つめた。異常はない。ついさっき光の玉が触れた部分はいつもと何も変わった所はない。あれに触れると悪いことが起きるような予感がしていたのに、触れたと思ったのは気のせいだったのだろうか。
「礼は?」
「え?」
ぜいぜいと息をしながら、苦しそうにユエの絞り出す声に麻奈はハッとした。彼は膝を折り、タイルに手を突きながらこちらを睨んでいた。
「え、じゃねぇよ。お前をここまで運んでやった礼は?」
「あ、ありがとうございました……」
「よし」
ユエは無知な子供を注意をする親のように頷いてから、まだ荒い息を整えて麻奈の頭に手を乗せた。
「怪我はないか? どこかおかしな所は?」
麻奈の体に異常がないかを確かめるように、ユエは麻奈の全身をチェックする。
「何か、ユエが優しいと気持ち悪いなぁ……」
麻奈は思わず鳥肌を立てて身を引いてしまった。ついでに両手でガードするように自分の胸元を覆ってしまったのは無意識の行動だった。それを見た途端にユエはむっとしたようだ。
「それは随分な言い方だな」
それまで軟らかく乗せられていたはずの彼の手が、麻奈の頭をギリギリと締め上げてきた。
「だって、今まで散々酷いことばっかりしてきたじゃない。急に優しくされても、何か企んでいるかと思っちゃうよ」
自分勝手で唯我独尊の彼とはとても思えないほどの気の配り方だと麻奈が言うと、ユエは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「今までのことは、俺も悪かったと思っている。なんと言うか――此処に来てから自分のことしか考えられなくなっていたようだ……」
ユエの言葉は歯切れが悪い。
「元の顔を手に入れてから、俺の中で欲望が膨らんでいったんだ。もっと尊敬されたい、もっとちやほやされたい。俺が誰よりも優れている存在なんだと証明したいと思い始めたんだ。でもな、そう思う一方でまたこの顔を失うんじゃないかと不安でたまらなかった。元の顔に戻ることを望んでいたはずなのに、それを手に入れた途端、俺は元の顔を失うことに怯えていたんだ。そんなときにお前が来た。お前が俺をうっとりと見上げるたびに安心したんだよ。俺はまだ美しいんだと実感できた。だから、お前を欲望のはけ口にしちまったんだ。本当に悪かった。許してくれ」
何の気負いも抵抗もなさそうに頭を下げるユエは、今までの彼よりもずっと高潔に見えた。
「私の方こそ変態みたいに言ってごめんなさい。私、ユエのことをすごく誤解していたみたい」
麻奈もユエに習って頭を下げた。これで仲直りだ。今の彼なら、親しい友人になれそうな気がする。
「姿が変わると正気ではいられなくなるって前にジュリアンに言われていたのに、ユエの言った言葉を全部真に受けちゃってた。あんなの本心じゃなかったんだよね?」
麻奈がそう言うと、ユエは何とも複雑な顔をした。困っているような、それでいて麻奈を憐れんでいるようなそんな顔だ。
「馬鹿だな。あれは、理性がぶっ飛んで欲望むき出しになっていた俺の本心そのものだよ。許可さえあれば今すぐにでもお前を抱きたいし、今でもこの集団の中で一番強い俺に他の連中が従うのは当然だと思っている」
ユエはにやりと笑ってから、長い髪をかき上げた。
「まぁお前は押しに弱そうだから、もうちょっと搦め手で迫れば抱けたかな」
麻奈は開いた口が塞がらなかった。やっとまともに話ができると思ったのに、やっぱりユエは危険人物に変わりはなかったらしい。
麻奈はユエと距離を置かなければと立ち上がって、後ろへと数歩下がった。そんな様子を見てユエは頭を掻いて苦笑する。
「今は突然押し倒したりしないから安心しろ。言っただろう、無理やりはしないって」
「でも……」
「お前等の意見もちゃんと尊重してやる。俺だって力でねじ伏せるだけじゃ物事は上手くいかないってことぐらいちゃんと分かっているさ」
今までとは違う諭すような彼の口ぶりに、麻奈は頭をもたげていた警戒心を少しだけ緩めた。ユエに味わわされた怖い思いは簡単には消えることはないかもしれないが、薄めることは出来そうだった。
「分かった。ユエを信用する。じゃあ、これからは出口探すのに協力してくれる?」
麻奈はユエに右手を差し出した。彼がこの手を取ってくれれば、麻奈は今までのことを水に流そうと決めていた。もしかすると、ユエが仲間に加わることを他の人たちは嫌がるかもしれない。しかし、それは自分が絶対に説得をしようと麻奈は心に決めた。
ユエは立ち上がって麻奈に近づくと、彼の右手がごく自然に上がった。しかしユエが差し出された手を取ろうとしたそのとき、螺旋階段に酷く抑揚のない冷たい声が響いた。
「私の知らないうちに、随分ユエと仲良くなったんですねぇ」
声のした方を見ると、階段の手すりに寄りかかるようにしてジュリアンが二階に立っていた。
「ジュリアン……」
麻奈は彼の姿を見て口元に手を当てた。なぜなら、ジュリアンはもう喉元まで透明になっていた。一見すると彼がどこにいるのかほとんど分からない。麻奈たちを突き放すように冷えたジュリアンの表情は、まるで怨念を内に秘めた生首のようだった。
麻奈はジュリアンの顔を見た途端、泣き出しそうなほどの感情がこみ上げてきた。怖い、許せない。麻奈は涙をこぼさないようにぎゅっと目をつぶった。
(それでもやっぱり、私はジュリアンが好きなんだ……)
例え哀れな姿になってしまっていても、ジュリアンの顔を見てしまえば麻奈は彼を想わずにはいられなかった。理屈ではないのだ。彼に心底絶望していても、この想いはどうしようもなかった。
「ユエとそんなに親しげにしているなんて。本当に妬けますね。私との約束を覚えていないとは言わせませんよ、麻奈」
首だけしか見えなくなったジュリアンが、二階の手すりに沿ってゆっくりと移動を始めた。カツカツという彼の靴音だけが、薄暗い螺旋階段に響く。今はもう見えなくなってしまったジュリアンの右手の辺りに、黒く光る小銃が揺れていた。彼はまだユエを貫いた凶器を持ち歩いているのだった。
ユエが自然な動きで麻奈の前に立った。ちょうど階段を下りてくるジュリアンと麻奈との間に立ちふさがる形になる。
「ジュリアン、お願いだからもうそんな危ないものを持たないで。ユエは私たちの邪魔はしないって約束してくれたんだから」
麻奈はユエの背に庇われるのを良しとせず、彼の横に並んだ。ジュリアンは革靴の音を鳴らしながら殊更ゆっくりと階段を下りてくる。
「ユエを守ろうと必死ですね。そいつとの中をそんなに見せつけるなんて、麻奈は本当に悪い人ですねぇ」
ジュリアンは笑っていた。彼の言葉は、まるで些細な悪戯をした生徒にどう指導しようかと困っているようだった。しかしその笑顔とは裏腹に、彼の纏う雰囲気はそんな穏やかなものでは決してなかった。
「麻奈は私を憤死させる気ですか。全部くれると約束したでしょう? 麻奈の全てを。その体も声も、貴方だけの特別な力も私だけに向けられるべきなのに――」
ジュリアンは一度目を閉じてため息を吐いた。彼の体は透明になってしまったので、その表情だけでしか彼の心情を推し量ることが出来ない。もう一度自分に向けられたジュリアンの瞳を見て、麻奈はぞっとした。彼はずっと麻奈を口説くような言葉を吐いていたが、もうそれらを甘いものだとは思えなかった。
彼の目が告げている。自分以外の者に力を使うことは許さないと。
(狂い始めてる……。それとも、初めから? 私の見る目がなかっただけ?)
麻奈はもうジュリアンが分からなくなった。首と彼の履いている革靴しか見ることが出来なくなったジュリアンは、麻奈のよく知っている彼とはまるで別人だった。
「もうその辺でやめておけよ」
ユエが震えている麻奈に気が付いて、安心させるようにその肩に手を乗せた。
「麻奈に触らないでくれますか」
ジュリアンはすぐさまユエに噛みついた。下を向いていたはずの銃口が独りでにユエの鼻先まで持ち上がる。麻奈は慌ててジュリアンに縋り付いた。
「お願いだからそんなことしないで! もうそんなジュリアン見たくないよ」
ジュリアンは麻奈が自分の元に来たのに安堵したのか、もうユエから視線を外して片手で麻奈を抱き寄せた。ただし、銃口だけはしっかりとユエに定められたままだ。
「あぁ、やっと私の側に帰ってきた。ずっとずっと待っていましたよ。さぁ、今度は私の順番でしょう? 鏡の中に連れて行ってください」
麻奈はジュリアンの腕の中で体を強張らせた。やはり、ジュリアンにとって自分は鏡の中に入るための鍵でしかないのかもしれない。以前ならばそれでも良いと思っただろう。しかし今は――それが悲しくて辛い。
「ごめんジュリアン。少しだけ待って。今鏡から出てきたばかりですごく疲れたの」
麻奈の言葉に、ジュリアンの眉が不機嫌そうに跳ね上がった。麻奈にとっては小さな反抗だったが、それすらもジュリアンは予想外だったようだ。
「お願い、少しでいいの。三十分――十五分でもいいから自分の部屋で休ませて」
「そのぐらい休ませてやれよ。こいつ体力ないからもうへとへとなんだよ」
ユエも味方になってくれるのは嬉しいが、そんな言い方では逆効果になるような気がした。ジュリアンの持つ銃は未だユエに向けられたままなのだ。それがいつまた火を噴くかと麻奈はハラハラしたが、ジュリアンは鋭い目つきでユエを睨み付けるだけで銃を下ろした。
「仕方がないですねぇ。少しだけ待ちましょう。その代わり、私も麻奈の部屋で一緒に待たせてもらいますよ」
ジュリアンは異論は許さないとばかりに、麻奈の手を取って階段を上がり始めた。麻奈はそれに引きずられるようにして付いて行くしかない。
振り返ると、ユエが心配そうな視線を投げてよこしたが、麻奈はそれに小さい頷いた。大丈夫、ジュリアンは多分自分を傷つけたりはしない。ユエにもそれが分かっているようで、彼はあえて何も言わずに黙っていた。