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ユエのトラウマ 8

 ユエは何度も何度も麻奈の額に口づける。彼が時折小さく息を吐くたびに、麻奈の前髪がふわりと波打つ。麻奈はそれがむずがゆくて、思わずきゅっと目を強く閉じた。


「くすぐったい……」


「黙ってろ」


 ユエの手が麻奈の腰に巻きつき、強い力で抱き寄せた。しがみつくような抱擁は、ユエの不安の表れかもしれない。


「頼むから、目を閉じないでくれ」


 懇願するような響きに慌てて目を開くと、鼻先に泣き出しそうなユエの顔があった。それを見て麻奈は強張っていた全身の力が抜けた。これは、色気も何もないただのセラピーの一環のような触れあいなのだろう。


「分かった、ちゃんとユエを見てる。逸らさないよ」


 麻奈は優しくユエの髪を撫でた。こんな風にすがりつかれたら、突き放すことなんて出来はしない。ユエは安堵したように麻奈の首筋に顔を埋めた。同時に体が軋むほど強く抱きしめられて、少しだけ咳き込んだ。


「なぁ。俺はこれからやり直せると思うか?」


 ユエは麻奈の首に顔を埋めたままで呟く。時折、彼は頬を擦り付けるように麻奈の肩に滑らせていたが、それは決して遊んでいるわけではないらしい。震えるような声は、彼の自信のなさを浮き彫りにしていた。


「きっとやり直せるよ。だってユエにはまだ野心があるんでしょう? リーガンを見返してやりたいんでしょう? ユエは顔だけなんかじゃない。それに、弱気になるなんて貴方らしくない」


 麻奈の言葉にユエは声もなく笑った。息が首筋にかかってくすぐったかったが、麻奈は肩を竦めただけでそれを耐えた。


「知ってた? 人はね、完璧なものよりも何かが欠けているものの方により惹かれるんだよ」


 事実、麻奈は今までのユエよりも弱さをさらけ出した彼の方が好きになれそうだと思った。


「麻奈」


 ユエが不意に名を呼んだ。麻奈は驚いた。彼が自分の名前を呼んだのはこれが初めてのことだった。


「お前は、意外に良い女だな。慰め方が上手い。俺の欲しかった言葉をあっさり言ってくれた」


 麻奈の首から顔を上げたユエは笑っていた。それは、いつもの自信たっぷりのふてぶてしい顔だ。それを見て、麻奈は少しだけ惜しい気がした。もう少し情けないユエを見ているのも良かったかもしれない。


「ついでだから、俺が今一番欲しい言葉も言ってくれよ?」


「どんな言葉?」


「今すぐ寝台に連れて行っ――」


「絶対言わない」


 麻奈はユエを突き飛ばした。げらげらと下品な笑い声を立ててユエは麻奈から離れた。麻奈は怒った顔を向けながら、心の底では安堵していた。ユエの気持ちが少しでも軽くなってくれて良かった。


 麻奈はユエの部屋に立てかけてある姿見を覗きこんだ。姿見はまだ白い光を辺りに放ってはいるが、それはとても弱々しいものになってしまっていた。どうやら長居しすぎたらしい。


「ユエ大変! 出口閉じかけてる」


「何だと? そういうことはもっと早く言えよ」


 ユエは慌てて麻奈を鏡の中へと突き飛ばし、自分も体を縮ませながら姿見の中に入っていった。ユエの体がすべて鏡面に沈み込む瞬間、彼は一度自分の部屋を振り返った。しかし、すぐに前を向いてそこを出て行った。彼の顔には、また以前のような自信と傲慢さがあふれていた。


「痛い……」


 麻奈は膝を抱えながらペタリと地面に座っていた。ユエが突然突き飛ばしたせいで、膝を擦りむいてしまったのだ。過去から帰るときは、なぜか散々な目にあってばかりいるような気がしてならない。恨みがましい目を犯人に向けると、ユエは面倒くさそうに鼻を鳴らした。


「そんなの怪我のうちに入らねぇよ。舐めときゃ治る」


「酷い。結構血が出てるのに……」


「じゃあ足出せ。俺が舐めてやるから」


 そういって麻奈の足首をユエが無造作に掴むと、麻奈は慌ててそれを振り払って立ち上がった。ユエなら本当にやりかねない。


「馬鹿なこと言ってないで早く行こう。廃校に通じる出口は紫色に光ってるからすぐに分かるはず」


 麻奈はすぐに歩き始めたが、どうしたことかユエは後をついてこない。彼はじっと麻奈の後ろを見ているので、麻奈もつられてそちらを振り返って絶句した。


 そこには小さな光の玉が浮いていた。麻奈は目を凝らしてそれをよく見た。蛍のような大きさの光は、だんだんと大きく光も眩しくなっている。


「こっちに来るぞ。あれ、やべぇ物なんじゃないか?」


 今やバスケットボール大の大きさにまでなったそれは、水色の光を振り撒きながら真っ直ぐこちらに向かってくる。麻奈は背中に嫌な汗が流れた。「こっち」にではなく、それは麻奈目がけて近づいているのだ。


「多分あれ、私のだ……」


 それは、麻奈が故意に忘れてしまった過去の出来事なのだ。ユエがすぐさま麻奈の腰を浚って抱き上げると、易々と肩に担いで走りだした。麻奈は振り落とされないようにユエの首に噛り付いた。文句など言えない。きっとこうした方が速いことは麻奈にも良く分かっている。


 実際、人をひとり担いでいるとは思えないスピードでユエは走った。やはり、彼の体力や筋肉は自分たちとのそれとはまるで違う。


「お前の言う、紫色に光る出口とやらはどこにあるんだ!」


「私だって分からないよ」


「何だと? じゃあ、いつもはどうやって帰ってきていたんだ」


「毎回適当に歩いてたら、いつの間にか到着してるんだもん」


 ここには目印になりそうなものが何もなかったので、適当に歩くしか方法がなかったのだが、ユエは苛々したように舌打ちをした。麻奈だってそうしたかったが、それはぐっと我慢した。担がれている身としては、あまり大きな態度に出るわけにもいかない。


「来た。ユエ来たよ!」


 水色の光は、麻奈のすぐ近くまで迫っていた。


「黙ってろ!」


 ひと吠えしてからユエは唐突に左へ直角に曲がった。彼の履いている靴がギリギリと擦れて鈍い音を立てる。速度はほとんどそのままに、彼はジグザグに走り続けた。麻奈の鼻先まで迫っていた光の玉との距離がじりじりと離れていく。


「あった。あそこに紫色の鏡」


 すぐにユエは麻奈が指差す方へと向きを変え、出口へと通じる鏡の方に方向を変えた。速い。しかし、光の玉もだんだん加速しているようだ。まるで、獲物を逃がさないと言っているようだ。


 ユエと彼に担がれている麻奈が鏡に飛び込む直前、光の玉が麻奈の手に触れてしまった。それから、麻奈にはすべてのことがまるでスローモーションのように感じられた。触れた手の甲に光の一部が吸い込まれたかと思うと、麻奈の手が内側から光り始めた。麻奈があっと思った時には、全身に鏡の冷たい感触が通り抜けていて、次には背中にドンという衝撃が走っていた。

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