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ユエのトラウマ 7

「随分、危険そうな男でしたね」


 暗い瞳でリーガンの去った戸口ばかり見つめるユエに、突然涼やかな声が話しかけてきた。ユエは辺りを見渡した。寝室には自分以外誰もいない。ところが、ユエの部屋に置かれている布で隠した姿見が仄かに光っている。


 ユエはそこにかけてあった布を恐る恐る外した。すると、いつもならば赤く爛れてしまった自分の顔が映るはずなのに、そこには見たこともない男が一人映っていた。


「何だ。これは……」


 姿見の中の男は、頭を下げて微笑んだ。


「初めまして。やっとそちらの様子を見ることが出来た」


「誰だお前は?」


「私のことは、今はお話できません。それよりも、元の顔を取戻したいのでしょう? 私なら力になれると思いますよ」


 にっこりとほほ笑みを浮かべる男を、ユエは絶望的な眼差しで睨み付けた。


「……俺は、ついに頭もイカれてきたのか?」


「私はあなたの幻覚でも幻聴でもありませんよ。元の姿に戻ることがあなたの願いですか?」


 ユエはこの胡散臭い妙な男と話をすることに抵抗を感じながらも、苦い顔でうなずいた。例えこの男が悪魔でも、自分の意識が生み出した幻覚でも、この顔がもとに戻るならばなりふり構わず縋り付きたいと思った。


「戻れますよ」


 男はユエの欲しい言葉をあっさりと口にした。あまりに簡単に言われた言葉に、ユエはただ呆然と男を見つめるばかりだった。自分はやはり、夢を見ているのだろうか。


「望む姿が与えられます。ただし、私がいるこちら側に来てもらえればの話です。実を言うと、私はあなたを迎えに来たんですよ」


 そう言うと、男は目を丸くして驚くユエに手を伸ばしてきた。差しのべられた手は、姿見の中から鏡面を突き破り、ユエの鼻先まで伸びてきた。


 ユエはそれをほとんど無意識に掴んでいた。元の姿に戻れる。その願いの前に、疑いも迷いも消えていた。


 男は強い力でユエの手を掴むと、ぐいと引っ張った。それはまるで捕えた獲物を引きずり込むような乱暴な仕草だったが、それでもユエは彼の手を離さなかった。ゆっくりと全身を覆う冷たい感触を味わいながら、ユエは完全に鏡の中に身を投じていた。

 




 麻奈は知らず知らずのうちにため息を吐いていた。目の前で起きているのは過去の出来事だとわかっていても、この瞬間を見るのは胸がささくれ立つような不快感を覚える。


 その理由を考えて、麻奈はようやく理解した。この場面を見ると、ジュリアンが自分たちを廃校に閉じ込めた犯人のように見えるからだ。


(ジュリアンは私が思っていたような優しい人じゃなかった。本当の彼は冷静で、残酷で……他人を簡単に切り捨てられる人。だから、彼はきっと私のことを好きでいてくれたわけじゃなかったんだ)


 以前ジュリアンが囁いた「貴女が必要だ」という言葉を思いだし、麻奈はとても虚しい気持ちになった。それはきっと、自分を利用するための甘い餌だったのだ。そんな彼の思惑を見抜くことも出来ずに舞い上がってしまった自分は、どうしようもない大馬鹿だ。


 ジュリアンはきっと、他人を二つに分類しているのだろう。利用できるか、できないか。利用できれば抱き込み、できなければ捨てればいい。そう分かった途端、麻奈の鼻の奥がつんと傷んだ。


「それで、これからどうするんだ?」


 不意に後ろからかけられた声に、麻奈は涙の出かかった目元を擦りながらつい後ろを振り返ってしまった。


 火傷の痕が残るユエの顔を下から見上げると、彼は不愉快そうに顔をしかめたが、以前のように麻奈を無理やり前に向かせるような真似はしなかった。


「今更隠したって、お前にはもう意味がないだろう」


 麻奈の不思議そうな顔に気が付いたのか、ユエは舌打ちしながらそう言った。麻奈は自分の肩に置かれていたユエの手をそっと退けると、それは抵抗なく肩から滑り落ちていった。


 改めてユエに向き直ると、彼も顔を歪めながら麻奈を見返した。しかしその瞳には以前のような強い光はない。自信家で傍若無人なユエはすっかり鳴りを潜めて、代わりに卑屈な瞳をして傷ついた青年がそこにいた。


 麻奈は急に彼が哀れに思えてきた。


「顔、今も痛むの?」


「いや。もう感覚があまりねぇな。ただ、ときどき少し引きつる」


「触っても、いい?」


 麻奈はおずおずと尋ねた。ユエは嫌な顔をしながらも、逃げずに麻奈を見つめて頷いた。麻奈も彼の視線を受け止めながら、そっと両手を伸ばした。


「少し屈んでくれる? 手が届かないから」


 つま先立ちになっても届かない彼の頬。背伸びをするのが辛くて麻奈がそう言うと、ユエは麻奈に覆いかぶさるように頭を屈めて近づいた。


 麻奈は赤い皮膚の内側を晒しているユエの頬に、出来るだけそっと触れた。指が触れた瞬間、ビクリとユエの体が震えた。しかし、麻奈の腕が払われる気配はない。


 麻奈はゆっくりとケロイド状になってしまった彼の頬に指を這わせた。優しく、傷つけないように。ユエは麻奈のすることを黙って見ていたが、やがて目を閉じてされるがままになっていた。


「かわいそう……」


 ユエは閉じていた目を開いて麻奈を睨んだ。


「黙れ。それ以上言うと泣かすぞ」


「でも、痛かったでしょう?」


「覚えていねぇよ。それよりも、自分の部屋で姿見を目た時のほうが辛かった」


 ユエは緊張している顔の筋肉を解すように小さな息を吐いた。かなり近いところで吐かれた吐息は、麻奈の前髪を撫でていった。


「辛かったんだね。かわいそうに――」


「やめろ。これ以上俺を惨めな気持ちにさせるな」


「ごめん。でも、本当にそう思ったの。辛い時に泣けないのは、強いけど不幸なことだよ」


 麻奈は左右の大きさの違うユエの瞳を覗いた。それは以前の彼と変わりない鮮やかなアイスブルーだ。


「姿は変わってしまったけど、ユエの中身は変わらないよ? だったら、きっとすべてを失ったわけじゃない。それに、ユエが子供の頃にお母さんに言った言葉覚えてる? 『私は顔より武を取ります』って言ったこと。今のユエを必要だと言ってくれる人や、ユエについてきてくれる人が必ずいるよ。私はそっちの文化はよく理解できないけど、ユエはすごく頑張っていたじゃない」


 麻奈は両手でユエの顔を挟み込んだ。


「それに、悔しいけど右半分の顔はやっぱりいい男だから、その……まだ女の人にはモテると思うよ」


 麻奈の最後の言葉を聞いて、ユエはしかめていた顔をさらに険しくした。そうすると彼の凄味が更に増す。それが恐ろしくて麻奈は身を縮めた。自分なりに慰めたつもりだったのだが、失敗だったかもしれない。


 ユエは麻奈の頭の後ろに手を回すと、そのままものすごい力で引き寄せた。ただでさえ近かった距離がますます縮まる。


「ちょっと、何で?」


 麻奈は慌てたが、がっちりと抱え込まれた頭は逃げられない。


「煩い。そこまで言うなら今すぐモテるところを証明してみせろ」


「そんな無茶苦茶な!」


 険しい顔をしたまま迫ってくるユエの唇。それが麻奈の唇に触れる直前、麻奈はユエの口元を両手で覆い隠した。


「何すんだよ」


 口を塞がれているせいでユエの声はくぐもっている。


「だって」


 心拍数が上がりっぱなしの麻奈は、肩で息をしていた。


「ユエの顔が嫌だとかじゃないんだよ。私は、こういうのは好きな人としか出来ないよ」


「俺だって誰とでもするわけじゃねぇ」


 その言葉に麻奈は目を見張った。ずいぶん意外な答えだった。


「この火傷を負ってから、医者以外で俺の顔に自分から触れた奴はお前が初めてだったんだ」


 そう言いながらユエが麻奈の頭から手を離したので、麻奈も彼の口元から手を退けた。今のユエは以前よりも少しだけ穏やかな顔をしているような気がした。


「この顔について誰も何も言わなかったよ。まるで、俺は何にも変わっちゃいないみたいに普段通りに接しようとしているみだいだった。だけどな、皆俺と目が合うとただ黙って目を逸らしやがるんだよ。だから――今のお前の言葉は正直グッときた」


 ユエは麻奈の唇に手を伸ばすと、指でそこをなぞった。そっと優しく。


「唇がダメならどこならいいんだ?」


「え?」


「今まで悪かった。もう無理やりはしねぇよ。どこならいい?」


 今まで見たこともないような真面目な顔でそう問われ、麻奈は心底困り果てた。どこと言われても答えられない。


「それとも醜い顔に触れられるのは嫌か?」


 ユエにまっすぐに見つめられながら、麻奈はずるいと思った。そんな言い方をされたら断ることなど出来ない。


「嫌じゃ、ないよ」


 麻奈がそう口にした瞬間、ユエの薄い唇が麻奈の額に押し付けられた。熱い。麻奈はそのかさついた感触に目を瞑った。

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