ユエのトラウマ 6
残酷な表現があります。
気が付くとユエは寝台の上で寝ていた。書物に四方を囲まれた部屋は、間違いなく自分のものだ。これらは全てリーガンとの実力の差を埋めるために、ユエが自ら集めた兵法書なのだから。
いつもと変わらない寝室で目覚めたはずなのに、ユエは自分の体に妙な違和感を感じた。少し身動きするだけで、全身がばらばらになりそうなほど傷むのだ。おまけに、顔に何かが巻きついているようで、視界が酷く狭かった。
「くそ、なんだこれは」
ユエは顔に巻かれている布を、傷む腕で外し始めた。皮膚に張り付いてしまった布をはがすたびに激痛が走ったが、ユエは躍起になって顔の布を引きはがし続けた。
盗賊たちを討伐に出かけ、味方から火矢の雨を浴びせられたところまでは覚えている。しかしその後のことを思い出そうとすると、なぜか息が苦しくなるような胸が締め付けられるような、そんな不快感を覚えるのだ。
「くそ。一体どうなったんだ俺は……」
ユエはまだふらつく足で立ち上がると、真っ先に姿見の前に立った。さっきから顔の左側に引きつるような痛みが走る。ユエは姿見にかけられている布を乱暴に放り投げ、そして絶句した。そこには顔の半分が焼けただれた醜い自分の姿が映っていた。
ユエは叫び声を上げて姿見を突き飛ばした。固い音を立てて姿見は粉々に割れ、鋭い破片が床に広がる。キラキラと輝く破片を呆然と眺めながら、ユエは自分の身になにが起きたのかを全て思い出していた。
「旦那さま、どうかなさいましたか?」
姿見が倒れた音を聞きつけたのか、下女が扉を叩きだした。ユエは恐怖に見開かれた瞳で戸口を振り返った。こんな姿を人前にさらすのは耐えられない。しかし、ユエが止める暇もなく寝室の扉を開けて下女が入ってきた。
「お目が覚めたのですね。今お医者様をお呼びしま――」
ユエと目があった瞬間、彼女の動きが止まった。下女は口元を引きつらせて小さく悲鳴を上げると、そのまま走り去ってしまった。普段は頬を染めてユエのことを見ていた女だったが、その顔は化け物にでも会ってしまったかのように引きつっていた。
「こんなに醜い顔に……こんなのは、本当の俺じゃない!」
ユエは焼け爛れた顔を両手で覆い隠した。醜い自分の顔を認めたくなかった。ユエがリーガンに勝っていたのは、顔の造形だけだったのだ。誰をも蕩かす美貌、それはユエの自尊心そのものだ。
ユエはその顔を永遠に失ってしまった今、生きていることに意味など見いだせなくなっていた。ユエは寝台にもう一度身を横たえた。もう二度と目覚めたくはないと思ったが、それは騒々しい足音に邪魔された。ユエは再び傷む体を起こして、入ってきた人物を睨み付けた。
「お、お医者様をお連れしました」
さっきとは違う下女が震える声でそう告げた。彼女も、以前は夢見るようにじっとユエを見つめていたのだが、今は目を合わせないように俯いて視線をそらしている。
ユエはそんな態度の女に苛立ちを感じた。かつて戯れに手を出したときには、彼女は嬉しさのあまり涙を流していた。それが今はどうだろうか。ユエはこの時、女という生き物に急激に冷めていく自分を自覚した。所詮、どいつも見かけしか見ていないのだ。
しかし、その見かけに一番こだわっているのはほかならぬ自分なのだと思い直し、ユエはおかしさのあまり声を出して笑った。
「構わない、通せ」
ユエがそういうと、下女はほっとした態度で下がろうとした。ユエにはその態度が酷く不愉快に映り、彼女にわざと部屋に残るように申し付けた。
「医者にも手伝いが必要だろう。お前はここに残れ」
「畏まりました」
低頭して部屋の隅に待機する下女をしり目に、ユエは部屋にやって来た初老の男と向き直った。
「顔と体の節々が痛む。治せるか?」
「顔の痛みは炎に炙られ、中の肉まで焼けてしまったせいでしょう。体の節々が痛むのは熱があるせいです。どちらも冷やさねばなりません。冷たい水で冷やしてくださいませ。それと、この薬を飲めば熱は直に治りましょう」
「そうか。顔の傷は元のように戻るか?」
医者は険しい顔で首を横に振った。
「それは――恐らく治りますまい。痛みは引いても、火傷の跡は一生残ります」
医者はそれだけ言うと、黒い丸薬を置いて帰って行った。残された次女は彼の指示通りに桶に水を汲んで、ユエの顔に冷えた手ぬぐいを当て始めた。その間も、彼女はずっと下を向いたままだった。
「この焼けた顔を、お前はどう思う?」
ユエがじっと見ているのを感じて、下女は顔を上げた。しかしユエと目が合うとすぐに戸惑ったように視線を外してまた俯いてしまう。
「どう、と申されましても――」
「顔を上げて俺を見ろ」
ユエは下女の顎を掴んで無理やり顔を上げさせた。
「以前こうした時は泣いて喜んでいたな。今はどうだ? 目にしたくないほど俺は醜いか?」
「そんな……」
「違うというのなら目を開けて俺を見ろ!」
次女は閉じた瞳から涙を流していた。ユエはそれを見た途端、どうしようもない虚無感に襲われた。掴んでいた女の顎から手を離すと、彼女は一目散に部屋を出て行った。
「俺の顔。俺の価値が……」
寝台で顔を覆って嘆く彼に、誰も声をかける者はいなかった。
ユエはこの日から、白い仮面をつけて生活するようになった。火傷の跡を見なくてもすむように、顔の半分を覆い隠す特別に作らせた物だった。
しかしユエの噂は瞬く間に広がり、好奇の視線にさらされ続けた。そんな耐えがた視線を受けるたびに、顔の傷はいつまでもじくじくと痛みを訴え続けた。今まで嫉妬と羨望の眼差ししか知らなかったユエにとって、これは耐えられないほど自尊心を傷つけられた。そんな中、リーガンだけは以前と変わらぬ態度でユエに接し続けた。
「ユエはいるか?」
突然のっそりと大きな獣のように無遠慮に自分の私室に入ってきた男に、ユエはちらりと視線を投げてまた書物に意識を引き戻した。リーガンは気にする様子もなく、未だ寝台の上にいるユエの隣に腰を下ろした。
「何の用だリーガン? まだ夜が明けたばかりだぞ」
「そう言うなよ。昔はよくお互いの部屋に忍び込んで朝まで語り合った仲だろう」
からりと笑うリーガンに、ユエは厳しい目を向ける。
「今日はお前に別れを言いに来たんだよ」
「別れ? 何のことだ」
「俺は都に戻るぞ」
ユエは驚いて読んでいた書物から顔を上げた。
「昨日、早馬で知らせが来た。ひと月後という話だったが、それまで待っていられるか」
「ここでの仕事はどうするんだ?」
「お前がいれば何とかなるだろう」
「勝手なことを……。お前はいつも周りのことなど気にも留めずに、ひとりでどんどん先に行っちまう!」
「何だよ、寂しいのか?」
「黙れ」
ユエは極力感情を抑えようとしたが、あまり上手くいかなかった。ギリギリと奥歯を噛みしめる音に、リーガンも気が付いていたはずだ。ユエは悔しかった。今回の彼の都への配属は、盗賊討伐の手柄が認められた結果だろう。犠牲になった者のことなどを振り返りもせずに、この幼馴染はただひとり出世の階段を駆け上がっていく。
「いつ発つんだ?」
「これからすぐにでも。一足先に待っているから、お前も早く来いよ」
リーガンはそれだけ言うとユエの部屋を後にした。ユエは彼の背中を見ながら、歯ぎしりを止められなかった。
「そうそう」
リーガンが突然振り向いた。
「あの時の質問に答えといてやるよ」
「質問?」
「盗賊討伐の時にお前が言ったことだ。なぜ奴らの集落を焼き払ったのか、だよ。思い出したか?」
ユエは頷いた。
「簡単なことだ。あいつらの子供が憎しみを持って育ったらどうする? 後の敵を育てたくなかったんだよ。皆殺しにしておかないと、きりないだろ」
リーガンはさも当然と言わんばかりに深く頷いていた。邪気のない顔が余計に恐ろしい。
「じゃ、俺は行くわ」
リーガンは片手を上げると、そのまま日の出前の暗い外へと出て行った。彼はいつも、何ものにも縛られずに行動する。まるで糸の切れた凧だ。ユエの手があと少しで届くと思った瞬間、いつの間にかそれをかいくぐってまた一段と高い所へひょいと逃げてしまう。リーガンは完全に自由で、完全にいかれている。
ユエが一番リーガンを許せないと思う点は、彼はユエの火傷にすら責任なんて微塵も感じていないというところだった。だから、彼はユエに対しても態度を変えることなく接することが出来るのだろう。
ユエはリーガンの後を追いかけて、彼を絞殺したい衝動に駆られた。そうすれば、ようやく自分はいくらか彼の視界に入ることができるだろうか。
もう見えなくなってしまったリーガンの背中を、ユエはいつまでも睨みつけていた。