ユエのトラウマ 4
残酷な表現があります
次に現れた場面は、明るい日の光の下で賑わう町の一角だった。土埃を上げる荷馬車や地面に布を広げて店を開く商人たちや、買い物をするたくさんの人々が溢れている。賑々しい大きな市場のような通りに麻奈とユエは突然放り出されていた。
「ここどこ?」
背後に立つユエは麻奈の質問に答えようとはしない。肩にかかる手は相変わらずで、その重さとプレッシャーに麻奈は息が詰まりそうになった。
麻奈は道を行く人々のほとんどが、漢服に似た裾と袖の長い前合わせの衣服を着ていることに気が付いた。売る者も買う者も身なりが整っているのは、国が豊かな証だ。活気のある市場のような雰囲気の町を見る限り、治安も悪くなさそうだと麻奈は思った。
ところが、突然辺りに悲鳴が上がった。次いで男たちの怒声が沸き起こり、それが呻き声に変わるまであまり間はなかった。土煙を立てて馬に跨る集団が、手に槍や武具を持って手当たり次第に人々を襲っているのが見えた。たちまち、辺りは悲鳴と血で騒然となっていった。
「何あれ、何で人が襲われているの?」
不穏な気配など全く感じなかったのに、今では長い刀を持った男たちが道で暴れている。麻奈は突然の出来事に混乱して、反射的に後ろへ下がった。すると、未だ麻奈の両肩を掴んでいるユエの胸にぶつかった。思わず後ろを振り返ろうとした麻奈の肩に、ギリギリと力が加えられて慌てて正面を向いた。
「あれは盗賊だ」
すぐ真上から、ユエの落ち着いた声が降ってきた。彼はこの悲惨な光景を見ても動揺一つ感じさせない声で続ける。
「この近くの山を根城にしている奴らのことだ」
半ば独り言のように呟いたとき、馬の蹄の固い音が響いた。聞きなれないその大きな音は、麻奈には地鳴りのように聞こえた。
遠目にも甲冑を着込んだ集団が、黄色い砂塵を巻き起こしながら一丸となって駆けてきた。彼らは揃いの甲冑を纏い既に抜刀していた。
その集団の中央から、二騎の馬が前に出た。緋色の鮮やかなマントを付けた巨大な男と、その男につき従うように馬を並べている長身の男。彼らは無言で盗賊の中へと突っ込んでいき、麻奈があっと声を上げる間も無く、猛烈な勢いで盗賊たちを狩り始めた。
彼らの勢いは、まるで駆除という言葉の方が相応しいのではないかと麻奈は思った。マントの男が刀を一振りするだけで、ゆうに三人の盗賊が吹き飛ぶのだ。長身の男は一切無駄の無い刀捌きで次々に相手を切り伏せていく。力の差は歴然だった。甲冑をつけたふたりは、かすり傷一つすら負ってはいないのだ。たった二人に文字通り蹂躙され、盗賊の群れは散り散りになって敗走を始めた。
「捕縛せよ」
マントの男が野太い声を張り上げる。地面が揺れるかと思うほどの大きな声に呼応するように、ようやく動きだした後続の部隊が一斉にそれらを追いかけ始めた。
マントの男は馬上からそれを眺めていたが、被っていた兜を脱いでにやりと笑った。鋭い眼光と大きな鼻と口が露わになる。麻奈ハッとして男を見た。リーガンだ。
厳しくも精悍な顔をした英雄に、町の男たちは称賛の声を上げている。彼はそれを意にも介さず、後ろの男を振り返った。
「なぁ、この中に親玉がいると思うか?」
そう問われて、後ろに控えていた長身の男も重い兜を脱いだ。真っ直ぐな銀色の髪が兜からサラリち落ちると、今度は一斉に女性たちのため息がこぼれた。
「手配書の顔はここにはいない。恐らくまだ山にでもいるんだろう。ここにいるのは雑魚ばかりだろうな」
そう答えるのは、冷たいまでに美しい顔をしたユエだった。もう今と変わらない姿に成長した彼は、表情一つ変えることなく地面に横たわって動かない者の顔を確認していた。
「まだ息のある者にアジトの場所を吐かせるぞ。どうせ今夜にでも乗り込む気なんだろう?」
ユエがそう問いかけると、リーガンはますます不敵に微笑んだ。そして、傷つきながらも自分たちを遠巻きに眺めている民衆に声をかけた。
「今夜野党狩りを行う。これからはもう盗賊共の脅威に怯えずに暮らしていけることを約束しよう。討伐に志願する者は直ちに願い出よ。働きに応じて恩賞を取らせるぞ!」
リーガンの言葉に民衆が湧いた。彼の声は良く通り、その言葉は人の心を鷲掴みにした。何より、盗賊たちを傷一つ負わずに切り伏せたことが、彼のカリスマ性を高めていた。
麻奈は、民衆の興奮の中心にいるリーガンの猛々しい姿に気圧されてしまっていた。彼の攻撃性をむき出しにした言葉も、人を斬ることを当たり前とした態度も、何もかもが怖いと思った。
住む世界が違う。麻奈はこの時ユエと分かり合えない理由が分かった気がした。今まで見てきた世界でも争いごとはあった。血も流れた。しかし、そこでは人を傷つけることに罪悪感を持っている者がほとんどだった。彼らにはそれが無いのだ。麻奈は初めてこの世界に言いようのない恐ろしさを感じた。
それから事が動くのは早かった。麻奈がリーガンに圧倒されている間に、ユエが部下の兵たちに指示を出して逃げ出した残りの盗賊を狩り始めた。
捕まえた彼らのアジトの正確な位置を吐かせるのは、リーガンの役割だった。彼は縄で縛られた盗賊たちを端から順に眺めると、そのうちのひとりに目を付けた。
「その額の黥――お前罪人だな」
声をかけられた男はそっぽを向いたまま口を真一文字に引き結んでいる。しかし、彼の額の黥の横を汗が一筋流れていった。
「大方、都に居られなくなってここまで落ち延びたってところか。罪を更に重ねたとなれば……こりゃあお前、他の奴らよりも重い刑罰を覚悟しろよ。鼻削ぎ耳削ぎの上に死罪は確定だな」
それを聞いて男は顔色を失った。リーガンは自分の言葉が男に効いているのを、目を細めて見ていた。
「だが、アジトの場所を話せば刑を軽減してやってもいいぞ」
男は黙ったままだった。それが返事なのだろう。リーガンはますます笑った。
「では今すぐ鼻を削ぎ落とすか」
リーガンは腰の刀を抜くと、男の顔にぴたりと宛がった。待ち構えていたように、彼の部下たちが男の両脇を押さえつける。
「動くなよ」
リーガンは低い声でそう告げると、刀を男の鼻にゆっくりと押し込んだ。鋭い悲鳴を上げて男が暴れ出す。
「やめろ! 分かった、話す! 場所を教えるから止めてくれっ」
「なんだ情けねぇな。まだ皮一枚しか切れてねぇよ」
リーガンが残念そうに刀を鞘に戻した。男の自白を聞きながら、ユエは筆を持って地図に印をつけていく。
麻奈は目の前の光景に耐えられずに、とうとう目を閉じた。これがユエの日常なのかと思うと、目の前の出来事も後ろで自分の肩を押さえつけている男も恐ろしくて堪らなくなった。
「何だ、震えてんのか?」
麻奈の肩が小さく揺れているのに気が付いたユエが声をかけてきた。麻奈は小さく何度も頷いた。
「リーガン、笑ってる……さっきの人の顔を斬ったときもずっと笑顔だった」
「そうだな」
「どうしてあんなに残酷なことを笑いながら出来るの? 何でもないような顔でいられるの?」
「さぁ、俺にもリーガンのことは良く解らねぇよ」
「幼馴染なのに?」
「幼馴染でもだ――あいつの心の底は誰にも解らないんだよ」
麻奈が見る限りでは、リーガンは本気で男の鼻を削ぎ落すつもりだったはずだ。その証拠に、男の顔には皮一枚では済まない傷が残っている。それなのに、リーガンからはそんなことをしでかしたような残忍な雰囲気がまったく感じられない。彼は太陽のように明るく堂々としているのだ。麻奈にはそれが不思議で、とても薄気味悪く思えるのだった。
どこからか、くしゃりと何かを丸めたような音が聞こえた気がした。気が付くと、皺の寄った風景の後ろに、もう新たな場面がスタンバイしている。
麻奈は思う。この場面転換は一体だれがどんなタイミングで選んでいるのだろうか。次の場面がはっきりするまで、麻奈は自分の胸に手を当てて深呼吸をした。心の準備が必要かもしれない。何にしても、次も見ごたえたっぷりな最悪の場面であることにか間違いないだろうから。