ユエのトラウマ 3
「ユエのお母さんってすごい人だね……」
麻奈はパワフルで美しいユエの母親に驚き、そして目を奪われていた。華やかで若々しい容姿といい、ポンポンと飛び出る歯切れの良い言葉といい、彼女には人を引き付ける魅力があった。
「母親なんてどこも大体あんなもんだろう。人の気も知らないで好き勝手なことを言うもんだ」
「違うよ。私のお母さんとは全然違う――厳しいことを言っていても、ユエのお母さんの言葉には暖かさがあるもの」
麻奈は遠くを見るような目つきで目の前の光景を眺めた。美しく豪快に笑う母親の手を、鬱陶しそうにしながらも黙って受け入れる息子。麻奈はなぜだか鼻の奥がつんと痛んだ。
「羨ましい……」
小さな小さな呟きを誰にも聞かれないように、麻奈はそっと自分の口に手で蓋をした。幸い、麻奈のすぐ後ろに立つユエには聞こえていなかったようだ。
仲の良い親子がいる光景が、突然何の前触れも無く色を失って遠ざかり始めた。また次の場面に変わるのだろうか。段々遠く小さくなっていく二人を見ながら、麻奈はどこかほっとしている自分を認めた。これ以上彼らを見ているのは何だかとても辛い気がした。
場面が変わるのはいつだって一瞬だ。今度の場面は、白い靄が薄いベールのように視界を覆っている所からのスタートだった。じっとりとした湿気を含んだ冷たい空気と、露を乗せた草がいつの間にか麻奈の足元を濡らしている。そこは、まだ日も昇らぬ早朝のようだった。
どこかで見たような覚えがある場所なのは、さきほどユエとリーガンが剣の稽古をしていたあの草原なのかもしれない。
「昨夜は、カキョウの寝所に潜り込んで来たのか?」
突然、どこからか太い声が響いてきた。麻奈は目を凝らしてみたが、靄の中にぼんやりとした影しか見出せない。
「なんだ。もう知ってるのか? 流石に耳が早いな」
もうひとりが揶揄するような声を上げた。この聞き覚えのある声はユエの声だとすぐに分かった。
麻奈が一生懸命彼らの姿を見ようと目を凝らしていると、強い風が吹いて薄いカーテンのような靄を一息に吹き飛ばしてくれた。やはり麻奈が思った通り、そこには過去のユエが居た。彼は乱れた髪を紐で結い直しながら、草の上に座っていた。
こちらのユエは少年の面影はなく、立派な青年に成長していた。現在の彼よりも少しだけ若く見えるのだが、気だるげで艶めいた雰囲気を既に備えていた。
麻奈はもうひとりの青年を見て驚いた。間違いなくリーガンであるのが分かるのに、彼は目を見張るほど筋肉が付いて、ユエよりも一回りほども大きくなっていた。
リーガンは木の棒を弄びながら、ユエの支度が整うのをじっと待っていた。
「早くしろよ。髪なんて適当に括ればいいだろう」
「そうもいかないんだよ。カキョウが乱しやがるから全然纏まらねぇ」
ユエはにやりとしてリーガンを仰ぎ見た。それを見てリーガンの眉が跳ねた。
「畜生。カキョウは俺が先に狙ってたんだぞ」
「残念だったな。彼女の方から誘ってきたんだ」
「恐れ入ったよ。女に関してはお前にゃ適わなねぇ」
褒めているとも貶しているともとれる口調で、リーガンはまじまじとユエの顔を見つめた。
「まぁ、この顔じゃあ仕方ねぇよな。お前を宦官にして後宮に放り込んだら、さぞや見ものだろうな」
「それは――俺に息をするなといっているのか?」
ユエが心底嫌そうに眉をしかめた。
「冗談だ。それじゃあ、そろそろやるか」
リーガンがユエに向かって、弄んでいた棒を放り投げた。ユエは片手で難なくそれ受け取る。何の合図もなしに、リーガンがユエ目掛けて突っ込んだ。一息に詰められた間合いから、幹竹割りで棒を振りかざすと、ユエはそれをぎりぎりで防いでから、ふぅと息を吐き出した。
「どうした、寝不足か? 麗しの顔に隈が出来てるぞ」
「そりゃあ無理もないな。こっちは、一睡もしてないんだ」
リーガンの目の色がほんのりと変わり、口元に引きつったような笑みが浮かんだ。
「そんな体調で俺に勝てると思ってんのか?」
「妬くなよリーガン、嫉妬は見苦しいぞ」
優越感がにじみ出るユエの笑みに、リーガンは今度こそ怒りをむき出しにした。唇の隙間から食いしばる犬歯がちらりと覗いた様子は、野性味にあふれている。
リーガンは棒を立て続けに振り回した。十分に体重の乗ったそれを、ユエはそれを何とか防いではいるが、リーガンの攻撃の重さに何度もガードを弾かれてしまう。
ユエの守りが開いたわずかな隙間に、リーガンの横殴りの一撃が腹に入った。ユエは息を詰まらせてわき腹を押さえた。完全に一本取られた。ユエは身をくの字に折り曲げて咳きをした。
「俺の失恋の痛みは、まぁ大体こんなもんだと思えよ」
リーガンはすっきりした顔でうなずいている。
「何だよ、以外に本気だったのか……」
「悔しいがお前の容姿は俺が逆立ちしたって適わねぇ。折角だから、その顔を生かして皇女のひとりでも狙ったらどうだ?」
「考えておくよ」
ユエは口元を押さえながらにやりと笑った。その顔は、案外まんざらでもなさそうな様子だ。ふたりは声を出して笑った。そんな彼らは仲の良い悪友同士そのものだ。麻奈はこんなに楽しそうなユエを見たのは初めてだった。
しかし、この笑顔が壊れてしまうのを麻奈は知っている。麻奈のすぐ背後に控える男は、この光景を歯軋りしながら眺めているのだから。悔しさなのか悲しさなのかは分からないが、麻奈の肩に置かれているユエの手は、ギリギリと肩に食い込むほど力が込められていた。