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ユエのトラウマ 2

 麻奈が目を開けた時には、そこは一面の緑の草原に代わっていた。晴れた日差しの照り返す野原で、ふたりの男児が遊んでいる。いや、良く見ると彼らは手に棒を持って剣術の稽古をしているようだった。


 二人とも長い髪を頭の上で結い、頬を真っ赤にして草の海を転がりまわっている。息を荒げているのは、美しい顔をした少年だ。彼よりも背も高く、一回り大きな体格をしている少年はさほど息も乱れずにもう一人の少年の剣をいなしているように見えた。あの綺麗な小さな男の子が、幼い頃のユエなのだろう。


「リーガン、少しは真面目に相手をしろ!」


 小さなユエは悔しさに眉を吊り上げながら、リーガンと呼んだ少年に怒鳴った。リーガンは大づくりな顔を豪快ににやつかせると、ひらりと素早い身のこなしでユエの剣先を難なく避けた。


「ユエこそ、早く俺を本気にさせてみせろよ」


 リーガンは笑っているが、その目は子供らしからぬ鋭さを称えている。力の差があろうとも、彼は手加減などしないつもりでいるのが窺える。


 ユエは角棒を構えなおすと、リーガンに突っ込んでいった。その真剣眼差しは、子供のチャンバラごっことは明らかに違う。ユエにもリーガンにも殺気があった。お互いに怪我をすることを覚悟している本気の打ち合いなのだろう。そう、これは試合なのだと麻奈は感じた。


 ユエの角棒が風を切って振り下ろされる。しかしリーガンは体を捻っただけで避け、下段に構えていた角棒を素早く振り上げた。それがユエの脇腹にめり込む寸前、ユエは咄嗟に左腕を突き出してそれを受け止めた。鈍い音がした。ユエはほんの一瞬だけ苦痛に顔を歪めてから地面に膝をついていた。


「今日も俺の勝ちだ」


 リーガンは額に浮き出た汗をぬぐいながら大きな口を開いて笑った。清々しいほどの喜びを表す彼とは対照的にユエは無表情で立ち上がると、汚れた裾を軽く払った。良く見ると、角棒を受け止めた左腕を僅かにかばっている。赤く腫れてきているのを見ると、相当痛むようだ。ユエはそんな事は一切顔に出さずに、暮れてゆく夕日を見上げた。


「もう日が暮れるな。今日はここまでにしよう」


「あぁ、また明日な」


 角棒を腰の帯に突き刺して、リーガンは駆けだした。ユエはそれを黙って見送っていたが、リーガンの背中が見えなくなった頃、ユエは持っていた角棒を思い切り地面に叩きつけた。


「くそ、くそ――くそぉ!」


 ユエは力任せにそれを踏みつけた。


「また負けた。くそ、どうして勝てないんだ」


 リーガンに膝を着かされた時には決して見せなった悔しがる顔。涙の滲むその顔をリーガンには見せまいとして、さっきからじっと我慢していたのだろう。


 まだこんなに幼い少年の時から、ユエはプライドが高かったのだなと麻奈は思った。泣くほどの悔しさを押し隠していたからあんなにも冷めた表情をしていたのだろう。


 今ではプライドの塊のように成長した麻奈の後ろの男は、一体どんな気持ちでこれを見ているのだろうか。恐ろしくて、麻奈にはそれを確かめる勇気などとてもない。


 少年のユエは着物の袖で目元を拭いながら、リーガンとは逆の方向へと歩き出した。見ただけで上等だと分かる着物を汚し、少しだけ足を引きずるようにして歩くその背中は、麻奈には何故だか可愛そうに思えた。


 ユエにとっては、さっきの試合は楽しくなかったに違いない。それでも、自分の名誉のためにリーガンに掛かっていく。しかし、リーガンは完全にユエとのそれを楽しんでいた。彼にとってはさっきの稽古も遊びの延長なのだ。だから彼はあんなにも清々しく笑っていたのだろう。

 









 少年たち二人が退場した草原は急激に温度を無くしたように寂しい景色になった。麻奈が少年のユエを追うべきか迷っている間に、くしゃりと音を立てたように草原の景色が潰れた。それは丁度、写真を握り潰したようだ。


 突然やってくる場面転換に今更驚きはしなかったが、麻奈は目を凝らして次の場面を見つめた。暗い。夜の場面なのか、真っ暗闇の中に辛うじて幼いユエが蹲っているのが見える。そして、そこはとても狭い室内のようだった。天井にある小さな窓から微かに光が届くだけで、他に明かりは一つもない。


 どこからか、くぐもった誰かのすすり泣きが聞こえた。幼いユエが声を上げまいと必死で声を押し殺しているようだったが、真っ暗な部屋に反響してそれは四方から聞こえてくる。


「思い出した」


 背後から低い声が聞こえた。


「リーガンとやり合って負けた後は、必ず父上に殴り飛ばされて蔵に籠っていたっけなぁ」


 それは、昔を懐かしむ響きなど微塵も感じない冷たい声だった。


「どうしてお父さんがそんなことを?」


「将軍の息子が、たとえ遊びでも下級士官の息子に負けるのが我慢できなかったんだろう」


「そんなことで殴られるの?」


「力の無い者は生きている価値ねぇんだよ。武士と生まれたからには、戦場で武功を立てられなきゃ死んでいるのと同じだ」


 ユエはそう言うと、麻奈が後を振り向かないように肩に両手を乗せた。ずしりと重たい枷のようなその手を麻奈はふり払わなかった。何となく、彼をこれ以上苦しめたくないような気がしたのだ。


 重たい暗闇に少しずつ目が慣れてきたころ、小さな明かりが灯った。見ると、蔵の戸が開いて提灯を持った背の高い女性が立っていた。薄い絹のような光沢のある着物を幾重にも重ねた服装と、長い髪を高く結って背に流しているのが特徴的な女性だ。


「母上?」


 それまで膝を抱えて小さくなっていた幼いユエが顔を上げた。女性はユエを見てにこりと微笑んだ。切れ長の涼しげな目元と艶のある唇、意思の強そうな眉をした美しい人だ。良く見ると、彼女はユエにそっくりだった。


「今日もこんな所でいじけているの?」


「いじけてなどいません」


「はいはい、そういうことにしておきましょう。顔を見せてみなさい」


 ユエの顔に提灯をかざしながら、彼の母親はわが子の頬をそっと撫でた。赤黒く腫れ上がった頬が提灯の小さな明かりで薄闇に浮かび上がった。酷い怪我だと麻奈は思った。しかしユエの母はそれを見てころころと笑った。


「あらあら、これは手酷く殴られたわねぇ。私譲りの綺麗な顔が台無しだわ」


 彼女は懐から小さな貝殻で出来た軟膏入れを取り出すと、ユエの頬に塗りつけた。ユエは痛そうな顔をすることも無く、じっとしていた。


「あんまり殴られて顔が変わっても困るわぁ。これからは、リーガンとの遊びも少し控えて欲しいものね」


 幼いユエは拳を握りしめた。どうせ負けるのだから、剣の鍛錬をやめろと言われているのだ。


「母上。顔が武かと問われれば、私は迷わず武を取ります」


「もう、頑固なんだから。でもまぁ、あなたならそう言うと思ったわ。――確かに、血を吐くほど努力すればリーガンとの差も縮まるでしょう。でもね、人には天から与えられた才能がある。リーガンは武の神に愛されているわ。厳しいことを言うけれど、あなたはそうじゃない」


 彼女はユエの瞳を覗き込みながら淡々と話す。


「リーガンの背を追いかけるならそれでもいいわ。でもね、一番になれない道は険しく辛いわ。決して届かない背中を見続ける覚悟がユエにはあるのかしら?」


「いつか追いついてみせます。時間がかかっても、きっと!」


 それを聞いてユエの母は笑った。息子の覇気に満足しているようにも見えるし、無謀なことに挑もうとしている彼を憐れんでいるようにも見える。


「それならば、なおさら色々なことに目を向けなさい。武器は一つでも多い方がいいの。あなたの天から授かったものの一つは、この美しい顔よ」


 彼女は愛しげにユエの頬を撫で、息子の小さな肩をパンと叩いた。


「まぁ。それは私のおかげでもあるのだけれどね」


 くすくすと笑う彼女を尻目に、その息子は釈然としない表情をしていた。顔しか取り柄がないと実の母親に言われてしまえば当然かもしれない。

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