ユエのトラウマ 1
目が見えない。身体も思うように動かない。麻奈は自分の体の異変に気が付いていたが、それをどうすることも出来ずにいた。
「なんでこんなことをするの、ユエ?」
口はどうにか動くようだ。麻奈は自分の目を塞ぎ、体を後ろから拘束しているユエに声を掛けた。その言葉に、ユエがびくりと体を震わせるのが麻奈にも伝わってくる。何か言ってくるかと思ったが、彼は無言のまま苦しそうに荒い息を吐き出した。
「まだ傷が痛むの? それとも……怒ってるの?」
「余計なことを」
それは、地の底から絞り出したようなしわがれた声だった。語尾が震えているのは怒りによるものか、それとも――。
「じゃあ、あのまま死んでいても良かったの?」
「元に戻るよりは、死んだ方がましだ」
きっぱりと言い切るユエに、麻奈は驚いた。彼は鏡に入った途端傷が癒えてしまったらしく、すぐに麻奈の目を大きな手で塞いでしまった。同時に、暴れ出さないようにするためなのか、麻奈の両手を後ろで一つに纏めると、それをもう一方の手で掴んで拘束したのだ。
「今すぐに元の場所に戻せ」
「すぐには無理だと思う。今まで過去の再現が終わらないうちに外に出られたことが無いもの」
耳元で舌打ちが聞こえた。相当焦ってイライラしているようだ。麻奈の自由を奪っている手には痛いほどの力が籠められる。
「ねぇ。姿を見られたくないのなら私は目を閉じるから。だからこの手を離して」
ユエは何も答えない。麻奈もどうしていいか分からなくなった。大人しく掴まれたままの両手から力を抜いて、ユエがその気になってくれるのを待つ。
「あれが本当の俺だったんだ」
ユエの呟く声がまた耳元で聞こえた。ユエにしては弱々しい、自信のかけらもない小さな声だった。
「あれが本当の俺だったんだ。この姿に戻るくらいなら、死んだ方がましだ……」
不意に麻奈の手が自由になった。両手の拘束は解けたが、まだ視界は暗いままだ。麻奈はユエを刺激しないように、無理にその手を取ることはしなかった。見て欲しくないならば、目を開ける事はしないでおこうと思った。
「誰もが目を背けた。それまで鬱陶しいほどすり寄ってきた奴ら全員」
麻奈の目を覆っていた目隠しが外された。それでも、麻奈はまだ目を閉じたままじっとしていた。その両肩を、ユエの手がきつく掴んだ。逃がさないというように。
「目を開けろ。お前が知りたがっていたことを教えてやる」
両肩を掴んでいるユエの手が震えている。ゆっくりと体が反転して、ユエと向き合う形にされた。麻奈は、恐る恐る目を開けた。
まず目に飛び込んできたのは、赤色。麻奈は呼吸も出来ないほど驚いて目を見開いた。ユエの顔の左半分は酷い火傷を負ってケロイド状になっている。左側の髪も焦げて短くなっていて、さらに顔が腫れあがって左目が半分押しつぶされている。右半分は美しい顔を残したままなのが壮絶なコントラストとなって、いっそ醜悪とも美麗ともつかない化け物じみた印象を与えた。
「ユエ、顔が……」
麻奈の声は引きつっていた。何と言葉をかけていいのか分からず、麻奈は口を開けたまま固まった。それを冷たいアシンメトリーの瞳がじっと観察するように麻奈を見ていた。
「これでわかっただろう? 俺が変わったのは顔だよ」
麻奈は視線をどこに向けてよいのか分からずに、迷うように泳がせた。そんな麻奈の反応を敏感に察知したユエは、麻奈の顎を掴むと無理やり自分の顔に近づけた。
「目を逸らすなよ、ずっと知りたかったんだろう? どうだい、感想は?」
すぐ目の前で揺れるアイスブルーの瞳は、酷く卑屈な光を称えていた。麻奈は一瞬考えてから、正直に今の気持ちを口にした。
「びっくり、した……」
「なんだと?」
「すごくびっくりした。私、ユエに無神経なことばかり言っていたんだって今気が付いた。本当にごめんなさい」
「同情なんてするな。そういうのが一番腹が立つんだよ」
吐き捨てる言葉と一緒に、顎を掴んでいた手が離れた。ユエは荒れていた。誰にも見られたくなかった姿を見られて、気が立っているようだ。いつも自身に満ちて胸を張っていた彼の姿勢は、今では前かがみになって俯いている。麻奈も目を伏せた。こんなユエは、ユエではない気がした。
「ごめん。じゃあ、どうしてほしいの? どうしたらいいのか分からないの」
「俺を視界に入れるな」
ユエはそれだけ言うと、麻奈の背後に隠れるように下がっていった。麻奈はユエを傷つけた罪悪感に打ちひしがれながら、頷くことしか出来なかった。
鏡の中はキラキラと瞬く星のような光で満たされている。それらを見ながら、麻奈は例の光を探した。気が付いたときにはいつも必ず近くにやってきて、意思を持ったように動く発光体。あれが、きっとこの鏡の中に入った者の一番苦しい記憶なのだろう。
そのとき、瞬きながら円を描くように近づいてくる白い光を視界の端で捉えた。きた。ユエは、麻奈の目に触れないようにすぐ後ろに立っているようだった。麻奈も後ろを振り向く気はないので、気配を探ることしか出来ない。近づいてくる眩しい光を感じながら、ふたりとも無言で立ち尽くしていた。
目も眩むような眩しい光に触れた瞬間、麻奈は目を閉じた。これはたぶんユエの記憶だ。なぜなら、麻奈はまだ自分の過去を思い出せないままなのだから。
また自分は人の一番辛い記憶に付き合うことになる。プライドの高いユエにとって、麻奈にそれを知られるのは恐ろしく苦痛であるに違いない。それでも、麻奈はその場に立ち会わなければならないのだ。
「ごめんね――」
麻奈の小さな呟きに、ユエは舌打ちをして返事を返した。