鏡へ(ユエの場合) 2
麻奈は薄暗い廊下をきょろきょろと見回した。確かに理科室の前の廊下から来たはずなのだが、今はそこへ通じる道は無く、ただ目の前に細い廊下が一本続いているだけだ。
たった数歩この不可思議な廊下に足を踏み入れた途端、麻奈たちが入ってきた入り口は唯の壁へと姿を変えていた。
麻奈は何が起こったのか分からなかったが、とりあえず銃撃される脅威から助かったのを知って廊下の奥を見つめた。この恐ろしく暗い廊下を照らすように、一筋の光が前方の扉から漏れ出している。そこに吸い寄せられるように麻奈の足が動いた。
「一体、どうなってんだ……?」
ユエは苦しそうな息を吐きながら、呟いた。彼の足が固まったままなので、麻奈はユエの体を引きずるようにして前に強引に進んだ。ユエの体から流れ出る血が、廊下に弾けるたびにパタパタと音を立てている。
「私にも分からない。でも、ここにいてもしょうがないわ。とりあえずあの光の方へ行こう。ジュリアンが追ってきたら大変だし」
「それにしても、お前がアイツから逃げる日が来るとはなぁ。ジュリアンに愛想がつきたろう?」
ユエは脂汗まみれの顔をにやりと歪ませた。死にかかっているのに皮肉が言えるとは、随分と図太い神経だと麻奈は思った。
「そんなの、分からないよ。でも、ジュリアンにユエを殺して欲しくない」
「俺を助けてどうするつもりだ? 恩でも売るつもりか?」
「そんなんじゃ――」
ない、と言いかけて麻奈は少し考えた。
「それもいいかも。恩に感じてくれるなら、この後私と一緒に鏡の中に来てくれる?」
「お断りだ。俺は、俺のやりたいようにする」
麻奈はため息を吐いた。ユエとはきっと、このままいつまでも並行線を辿ることになるのだろう。それならば、いっそのこと力ずくで鏡に放り込んでやろうかと考える。今ならきっとそれも可能だろう。
麻奈がユエの重たい体を支えながらそんなことを考えた。背が高く、おまけに体格の良い男性を引きずるのは、予想よりも大変な作業だった。麻奈が肩で息をしながら鉄の扉を開けると、黄昏色の夕日が目に飛び込んできた。
「ここって、まさか屋上?」
麻奈は目を瞬かせた。錆びた金網に打ちっぱなしのコンクリート。上を見上げると、二つの色が混ざり合う空。そこは紛れもなく屋上だった。しかし麻奈の記憶が正しければ、屋上に続く道はこんな奇妙な廊下は通らなかったはずだ。
「どうしてこんな所に繋がっているの?」
麻奈は不安に思って辺りを見渡した。屋上からの眺めは良い。しかし、そこには見慣れた光景はなく、周り一面に無数に生えている電信柱が見えるだけで、それが何とも麻奈を不安な気持ちにさせた。
影のように真っ黒なその電信柱を見ると、麻奈はなぜだか罪悪感のようなものを感じてしまう。誰かに責められている。そんな気持ちになって、重苦しい自責の思いに体も心も委縮するようだ。
「私があなたたちを招待したのよ。あそこで人が死んでしまうのは困るからね」
鈴を鳴らしたような可憐な声。麻奈は驚いて後ろを振り返った。その声の主は、いつの間に現れたのか麻奈たちのすぐ後ろに立っていた。神出鬼没な少女の登場に麻奈はもう慣れてしまったが、ユエは大いに驚いたようだった。見ると、彼は死にかけているというのにあんぐりと口を開けている。
「あなたは、いつも突然出てくるのね」
すっかり肝が据わってしまった麻奈の言葉に、少女はふわりとした髪を揺らして笑った。彼女は相変わらず泥だらけの姿をして、無邪気な顔で麻奈たちを見上げている。
「このガキは一体何なんだ? 俺は、こんな奴をみるのは初めてだ……」
血の気の失せた唇を震わせて、ユエは少女を指差していた。麻奈もユエに同意して頷いた。
「私もあなたが何者なのか聞きたかったの。リーズガルドの知り合いなんでしょう?」
「ええそうよ。ガルドに聞いたのね」
少女がリーズガルドを『ガルド』と呼んだことに麻奈は驚いた。愛称を嫌う彼がそれを許しているほどに、少女とリーズガルドは親密な仲なのだろうか。
「どうしてリーズガルドの前に姿を見せないの? 彼がずっとあなたを探しているのは知っているんでしょう?」
少し責める口調で問えば、少女は目を逸らして口をへの字に曲げた。
「私だって、あの子に会いたいわよ。でも、それは絶対に出来ないんだもの。――それより彼を放っておいていいの? このままじゃユエ死ぬわよ」
言われてユエを見上げると、彼の顔色は蒼白を通り越して真っ白になっていた。途端、ズシリと彼の全体重がかかり麻奈は倒れそうになった。ユエはもう立っているのがやっとのようだ。無理もない。床には小さな血だまりが出来ていた。
「まだ傷が治らない……。どうしよう。何か方法はないの?」
「あるけど、彼は嫌がるかもね」
「嫌がったっていい。命には代えられないでしょう!」
「鏡に入ればいいのよ。あそこにいけば一時的に元の姿に戻れるんだから、ここで受けた傷も全部なかったことになる。でも……今度鏡に入ったら、あなたも無事では済まないかもしれないよ」
「どういう事?」
「あそこはね。本当は姿を元に戻す所なんかじゃないのよ」
少女が声を潜めて、秘密を告白するように身を乗り出した。「誰にも内緒よ」と言って秘密をばら撒くあのときの顔。まるでそれを楽しんでいるような顔だ。
「あなたはとっても特殊なケースなの。自分の犯した罪を全て忘れてしまっているの――いえ、きっと故意に忘れているんでしょうね。あそこは、それをあなたに思い出させようとしてあいつが作り出した世界。考えてみて。過去を見せつけるのは何のため? それを克服させるため? いいえ。それをもう一度思い出させて絶望させるためなの」
「そんな……」
「ビシャードやサルーンが元の姿に戻れたのは唯の偶然。彼等はたまたま自分の過去に向き合う覚悟が出来た。それは皮肉なことに、過去から逃げ出続けているあなたのおかげみたいだけどね」
少女はちょっとおかしそうに口元に手を当てた。
「でも、あたなは本当にしぶとい。何度あの中に入ってもなかなか己の罪を思い出せないんだもの。だからあなたの記憶が読めなくて、一緒に入ったサルーンやビシャードの記憶を再生してしまったのよ」
麻奈は言葉も出なかった。
「でも、段々綻びかけている。あなたが記憶の底に沈めた過去の封印は、あともう少しで解けてしまいそう。耳をふさぎたくなるような声が、あなたにも聞こえ始めているでしょう? それでもユエを連れて鏡に入る?」
麻奈はさっき非常階段で聞いた声を思い出した。背中に虫が這いずり回るような気持ち悪さと悪寒。それは、思い出したくない記憶が少しずつ漏れ出してきたためだったのだ。
麻奈は突然、自分が何を忘れているのか思い出すのが怖くなった。此処に来てからいろいろと恐ろしい目に遭ってきたが、そんなものはほんの序の口だったのだ。以前ジュリアンは言っていた。自分でも気付いていない別の一面が存在するのかもしれないと。麻奈も今はそれが一番怖いと思った。
麻奈は深く息を吐き出してから、顔を上げて少女を見つめた。恐怖心にからめ捕られる前に動き出さなければ、動けなくなってしまいそうだった。
「もちろん行く。ユエが暴れたって引きずってでも行くわ」
少女は眉を下げて笑った。呆れながら、でもほんの少しだけ嬉しそうに。
「じゃあ、急ぎましょう。今来たそのドアを開けるだけでいい。私がつないでおいて上げるから」
「ありがとう。そうだ、あなたの名前は?」
「私は……リーズ」
「え?」
「もう行ったほうがいい。私はいつまでもしぶとい麻奈が結構好きよ。だから、頑張ってね」
リーズはそれだけ言うと、屋上の柵をひょいと飛び越えて空に身を躍らせた。麻奈があっと息を飲んだ瞬間、リーズの体はまるで空に溶けるように消えていた。麻奈は驚きを消化できないまま、まだドキドキと治まらない動悸をなだめて扉を開けた。
真っ暗な廊下の代わりに、リーズが言った通りくすんだ色をした螺旋階段の踊り場に麻奈たちは立っていた。こんなことも出来るなんて、本当に不思議な少女だ。
「じゃあ、行くよ」
息も絶え絶えのユエを引きずりながら、もう聞こえていないかもしれない彼に声を掛けた。返事はいらない。嫌がったって引きずりこんでやる。麻奈は白く輝き始めた鏡に身を浸した。