鏡へ(ユエの場合) 1
螺旋階段を通り過ぎ、サルーンの部屋の手前に転がる瓦礫の山の前に彼はいた。そこはちょうど理科室と理科準備室の中間にあたる廊下で、紅い夕日に照らしだされたその人物は、麻奈にはまるで黒い影絵のように見えた。
壁にもたれ掛かかりながら鳩尾の辺りを押さえているのはユエだった。足を引きずりながら、彼は苦しそうに麻奈の方へ向かって歩いてくる。一目でいつもと様子がおかしいと分かる。彼は被弾していた。
麻奈は恐れながら、しかし足早にユエに近づいた。ユエは長い髪を振り乱し、蒼白になりながら必死に歩いてくる。腹を押さえているその手には、ぬるりとした赤い色が見えた。
「酷い……」
今にも倒れてしまいそうなユエに、麻奈は手を伸ばした。払われるかと思ったその手は、以外にユエに無言で受け入れられた。痛みのためなのか、脂汗が浮かんでいる彼の顔は恐ろしく無表情だった。
そんなユエを見て、麻奈は悲しい気持ちになった。どうしてこんなことになったのだろう。自分はただ、皆で協力して出口を見つけたかっただけなのに。それを邪魔するユエに対しても、決して憎いと思ったことはない。ただ放っておいて欲しいだけだったのだ。
麻奈がユエを休ませられる所へ連れて行こうとしたとき、ふたりの背後から靴の音が響いた。振り返ると、そこには胸まで透明になってしまったジュリアンが、右手に拳銃を構えながらこちらに歩いてくるのが見えた。
「もしかして、ジュリアンが撃ったの……?」
麻奈は信じられないものを見ている気持ちだった。あの優しかったジュリアンが人を傷つけたなんて思いたくはない。
「ユエから離れて下さい。今だって十分危険ですから」
そう言うと、ジュリアンはゆっくりとコックを引き上げた。カチリという冷たい音に、麻奈は鳥肌が立った。
「こんなに酷い怪我をしているんだから、ユエだってもう暴れたり出来ないよ。それよりも、今は彼の傷の手当をしなくちゃ。このままじゃ――死んじゃうかもしれない」
麻奈の言葉に、ジュリアンはすっと目を細めた。
「彼に手当は必要ありません。むしろ、今が絶好のチャンスだと思いませんか?」
「チャンス?」
「そう。私たちの中の異分子を排除する絶好の機会です」
ジュリアンの手の中の銃口は真っ直ぐユエへと向けられたまま動かない。麻奈は冷や汗が出てきた。ジュリアンの浮かべている笑みは、目だけが笑っていないのだ。ユエから離れようとしない麻奈に、ジュリアンはため息を吐いて手を差し伸べた。
「さぁ、危ないから麻奈はこちらに来てください。この距離なら外すことはないと思いますが、万が一を考えると危険です」
麻奈は首を振った。そして、自分の体を盾にするようにユエの前に進み出た。
「ちょっと待ってよ。本気じゃないよね? 冗談なんでしょう?」
「麻奈、いい子だから」
麻奈は恐ろしさに涙が滲んできた。ジュリアンは銃口を下げることなくユエを狙い続けている。彼は本当にユエを殺すつもりなのだ。まるで悪夢のようだと思った。
麻奈が後退したそのとき、呻き声と共にユエが口を開いた。
「こういう奴なんだよ。やっとこいつの本心が分かっただろう?」
そう言って麻奈を見下ろすユエの目には以前のような覇気はない。彼が唇を歪めると、そこから紅い血が一筋流れ出した。吐き出される声は弱々しく、せき込むたびに小さな紅い水玉が床に飛び散った。
「やめてジュリアン。お願いだから」
「皆のためを考えたら、こうするのは仕方がないんです。いい加減に聞き分けてください」
「嫌だ。ジュリアンがこんな人だなんて思わなかった……」
麻奈は泣いていた。完全にジュリアンという人間を見誤っていたのだ。彼がこんなに冷酷な判断が下せるような人だとは思ってもみなかった。
しかし、どこか心の片隅で「やっぱりね」と呟く自分もいることに麻奈は気が付いていた。ユエもリーズガルドも、あんなにジュリアンを信用してはいけないと言っていたのに、麻奈はジュリアンに甘える心地よさを手放したくないがために、あえてそれらを聞かなかったことにしたのだ。
なんて馬鹿な自分。なんておめでたい自分。麻奈は涙でぼやけているジュリアンを見上げた。彼はいつものように口元を緩めて微笑んでいる。
ユエのことは正直に言うとあまり好きではない。こんなに野蛮で話の通じない者に麻奈は会ったことが無かった。しかし、だからと言って彼を見捨てることなど麻奈にはとても出来なかった。
ジュリアンの靴音が近づいてくる。麻奈はその分だけ後ろへと下がったが、すぐに廊下の壁に背中が触れた。もうこれ以上は下がれない。それでも、麻奈は少しでもジュリアンから離れようと、壁に背を付けたまま横に移動する。その動きに合わせてゆっくりとスライドする銃口。
ふたりはじわりじわりと追いつめられていた。緊張のあまり呼吸すら上手く出来ていないのではないかと思えてくる。
麻奈がユエと共にさらに一歩横に踏み出したとき、突然背中に触れていた固い壁の感触が消え失せた。後ろを振り返ると、理科室と理科準備室の間に見たこともない切れ目が出来ていて、そこから薄暗い廊下が奥へと続いているのが見えた。
麻奈の記憶では、こんな場所にこのような廊下は存在しないはずだ。それに、ついさっきまではこの壁には奥へと続く廊下など存在しなかった。
その暗くて不気味な廊下は、見ているだけで吸い込まれそうなほど細くて長かった。それは、二度と出てくることが叶わないような得体のしれない道だ。しかし、麻奈はユエの肩を支えながら、その廊下にするりと身を滑り込ませた。途端、周りの温度がひやりと下がった気がした。
後ろからジュリアンの焦ったような声が聞こえてきたがそれもほんの一瞬で、麻奈が振り向いた時には廊下の入り口は跡形も無く消えていた。