忘れていた問題 4
麻奈はユエと鉢合わせしないように、周りを見ながら慎重に進んでいた。この感覚は、まだ人の形に戻る前のビシャードを警戒していた時に似ている。そう思って、麻奈は彼らが無事でいるのか気になった。大抵の怪我なら時間が経てば治るが、それでも目の前で彼らが傷つくのを見てしまったのは衝撃だった。
麻奈は今、誰にも見られないようにこっそりと非常階段を上っていた。石造りの非常階段は、裏庭に面した校舎の外側にあるため、誰の目にも触れないだろうと思ったのだ。
風の吹かないぬるい空気の中、麻奈は三階分の非常階段を上った。運動不足とはいえ、このぐらいは軽いものだと思っていた。しかし、上っている最中からだんだんと動悸が激しくなって息が苦しくなってきた。
おかしい。と思った途端、麻奈は強烈な吐き気に襲われた。視界がぐらぐらと揺れて立っていられなくなり、階段を上りきった所でしゃがみ込んでしまった。
目の前が暗くなり、視界が狭まってくる。麻奈はせりあがってくる吐き気を必死にこらえていた。遠くから、キンという耳鳴りに似た音が聞こえてくる。
『お前が選手を辞退しろよ』
突然、耳元で男の声が聞こえた。麻奈は冷や汗をかきながら辺りを見た。しかし、非常階段には誰の姿も見えない。
(気持ちが悪い)
確かに、以前どこかで聞いたことのある声だった。まるで、頭の中をかき回されているようだと麻奈は思った。これ以上ここに居たくない。麻奈はそう思うと、ふらつく足取りで立ち上がった。
校舎へと続く扉はすぐ目の前だ。麻奈は重たい鉄の扉を開いて逃げるように校舎の中へと駆け込んだ。
(今の声、誰だっけ……思い出すのがなんだか怖い)
記憶に追いつかれまいと懸命に走った。しかし、忌まわしい声は麻奈を追いかけるように後からやってきた。
『お前よりも努力している聖華が補欠になるなんて、俺は納得がいかない』
怒り交じりの声は、今やはっきりと声量を増して麻奈に迫ってくる。
(やめて。こんなの聞かせないで!)
麻奈は耳を押さえて走り続けた。それでも、声は消えることなく麻奈に覆い被さってくる。
L字の短い方の突き当たりに位置する図書室の扉を、麻奈はやっとの思いで開いた。古いインクの匂いと微かな埃っぽい空気。木で出来た机や椅子も麻奈の記憶のままだった。
そこにビシャードがひとり椅子に腰かけているのが見えた。彼は眉間にしわを寄せながら、本のページをめくっていたが、麻奈が入ってきたことに気づいてその手を止めた。
「ミナカミ、無事で戻ってきたのか。どうした? 顔が真っ青だ」
ビシャードはふらつく足取りの麻奈に近づくと、その手を取って近くの椅子へ座らせた。
「何か、悪いことがおこったのだな」
ビシャードは麻奈と視線を合わせるために、椅子の正面で膝をついた。細く骨ばった腕を伸ばして麻奈の額に手を当てる。
「熱はないが震えているな。寒いか?」
麻奈は首を横に振った。
「寒くはありません。でも、少しの間手を握ってくれませんか?」
麻奈がそう言うと、ビシャードは長い睫毛を数回瞬かせてから、両手で麻奈の震えている手をそっと包んだ。麻奈はビシャードの掌の体温を感じて目を閉じた。麻奈よりも少し冷たい手。でも、温かい。
さっきまで聞こえていた男の声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
「落ち着いたか?」
強張っていた肩の力が抜けたのを待っていたかのように、ビシャードが声を掛けた。麻奈はゆっくりと目を開いた。目の下に隈を作った不健康そうなビシャードの細い顔が、心配そうに麻奈を見上げている。
「はい、陛下のおかげです」
「それは、良かった――」
心配そうな瞳は変わらずだったが、ビシャードの顔に微笑みが浮かんだ。頬まで赤くなっているのはなぜだろうかと麻奈は思ったが、それは口にしないでおいた。
「さっきはすまなかったな。ミナカミを守ると言ったのに、何の役にも立てなった。本当に不甲斐ないことだ。今もこうして隠れていることしか出来ないとは」
ビシャードは悔しそうに下を向いた。その唇の端が切れていることに麻奈はようやく気が付いた。よく見れば、ビシャードの衣服には赤黒い水玉が点々と落ちていて、顔には殴られた青痣が未だくっきりと付けられていた。
「もしかして、まだ傷が治っていないんですか?」
「一度目は治った。これは、二度目の傷だ」
ビシャードが言うには、ユエが鏡の前に居座り続けたのでそれを退かそうとした時に殴られたそうだ。
麻奈はそれを聞いてまた泣きたくなった。人が傷つくのを見るのは胸が痛む。それが、自分のためだというのならなおさらだった。
「私の方こそ、陛下を巻き込んでしまって――本当にごめんなさい」
「いい。ミナカミが無事で良かった。それよりも、あの死神に会わなかったか?」
「死神?」
麻奈は一瞬首を傾げたが、ビシャードはジュリアンを嫌ってそう呼んでいることを思い出した。
「ジュリアンには会ってません。そういえば、彼はどこにいるんですか?」
「あの男はサルーンとやらの部屋にある武器を取りにいった。ユエに対抗するならそれぐらい必要だそうだ。余は胸の骨が数本折れているから、ここで待つことにしたのだ」
さらりとそう告げるビシャードに、麻奈は真っ青になって立ち上がった。
「骨が折れているんですか? 大変、ここにとりあえず座ってください」
麻奈は自分が座っていた椅子にビシャードを座らせた。
「どうして言ってくれないんですか。私の心配なんてしている場合じゃありませんよ」
オロオロと取り乱す麻奈を、ビシャードは優しい目つきで眺めていた。
「手当はしましたか? 痛むところはないんですか?」
「非常に屈辱だが、死神が手当をしていった。今はあまり痛まないからそう心配するな。それよりも、聞きたいことがあるのだ。ここにある書物は何を意図して置かれているのだろうか?」
ビシャードの手招きに誘われて、麻奈は彼の隣の椅子に座った。机には数冊の本が積み上げられていて、先程までビシャードはそれを読んでいたようだった。
「何を意図してと言われても――ここにある本は皆に貸し出すために置かれているんです」
麻奈がそう説明するとビシャードは側にあった本を手に取り、ページを開いて麻奈に差し出した。
「こんな書物を貸し出して、何か有益なことがあるのか? それとも、余には見えないだけでここには何か書かれているのだろうか?」
差し出された本を受け取って、麻奈は絶句した。そこには何も書かれていない真っ白いページが広がっていた。麻奈は他のページをめくってみた。しかし、どこも同じように何も書かれていない。慌ててタイトルを見てみたが、そこには有名な時代小説のタイトルが書かれていた。麻奈はまだ読んだ事はなかったが、いつか読みたいと思ってそのまま未読になっていた本だ。
麻奈は他の本も手に取った。白い。どの本も、ただただ真っ白いページが続いている。
「どうして?」
麻奈は背中が冷たくなった。こんなおかしなことが起きるなんて、麻奈の想像の範囲を超えている。しかし、麻奈はふと思った。今まで真っ白な本は全て自分が読んだことがない本だった。では、自分が読んだことがある本だったならどうだろうと。
麻奈は本棚の間を歩き、昔借りたことのある本を手に取った。恐る恐るページを開く。そして、ため息を吐いた。そこには、黒い小さな字がびっしりと詰まっていた。 麻奈はその本をビシャードの所へ持って行った。
「どうして何も書かれていないのか分かりました。たぶん此処は、私の記憶をもとにして作られているんです」
「どういうことだ?」
「つまり、私が読んだことが無い本は再現できないんです。その証拠に、私が一度読んだことがあったものは、きちんと中身が書かれています」
そう言って、麻奈は中身綴られている本をビシャードに見せた。彼は眉間を険しくしてページをペラペラとめくった。
「もしも、それが本当だとするならば、此処は一体何なのだ? 我々は、一体何の中に居るのだ?」
ビシャードは気味が悪そうに辺りを見渡した。麻奈も自分の肩を抱きしめた。人智の及ばないものを目の前にすると、自分が酷くちっぽけな存在になってしまったような気がする。
思いつめた顔で自分の腕を抱く麻奈を心配してか、ビシャードは明るい声をだした。
「そういえば、あの腕の多い男はどうした? 彼も元の姿に戻れたのか?」
「えぇ、サルーンさんもここに帰ってきました。でも、こっちに戻る途中で離れてしまいました。ユエがまだ鏡の前で待っていたからバラバラに逃げて来たんです」
「死神め、ミナカミが戻るときに間に合わなかったのか。使えぬ男だ」
ビシャードは眉を寄せながらジュリアンをなじった。少しだけ嬉しそうなのは、ジュリアンへの優越感からだろうか。
「まだユエが辺りを探し回っているかもしれません。ジュリアンもサルーンさんも無事だといいけど……」
麻奈は図書室の扉を見つめてため息を吐いた。そのとき、麻奈の不安を更に煽るようなパンという破裂音が小さく聞こえてきた。
ハッとして身を固くするふたりの耳に、二度三度と乾いた音が聞こえた。それは、サルーンの過去で嫌というほど聞いた音だった。
麻奈は図書室の扉に駆け寄った。
「行くな!」
今にも飛び出して行こうとする麻奈に、ビシャードが鋭い声をあげた。
「ミナカミが行ってもどうにもなるまい。危険すぎる」
まだ怪我の治らないビシャードは、立ち上がるだけでも顔を痛みに歪ませている。麻奈は彼の制止を振り切って駆け出した。
銃声はそう遠くない所から聞こえたはずだった。撃ったのはジュリアンか、それともサルーンだろうか。麻奈は、今は静かになっている廊下を走った。