忘れていた問題 3
あの濃密な植物の匂いと湿気が満ちる部屋に下ろされた後、麻奈は彼の部屋が明るいことに気が付いた。以前来たときは黒いカーテンが引かれていたが、今日はそれを全て開け放ってある。
この部屋の主であるリーズガルドに一言文句を言おうと思い、麻奈は彼を振り返って絶句してしまった。
リーズガルドは泣いていた。大きな鳶色の瞳からポロポロと大粒の涙を流して、夕日を背にしてじっと麻奈を見ていた。
「どうしたの? 何かあったの?」
麻奈は部屋に伸びる緑の葉を踏まないように気を付けながら、リーズガルドに近づいた。何か辛辣な言葉が返ってくるかもしれないと身構えたが、彼の口から聞こえてくるのは小さな嗚咽だけだった。
「泣かないで。一体どうしちゃったの?」
麻奈は、成長途中の華奢な少年の肩にそっと手を置いた。震えている。リーズガルドは濡れた瞳を真っ直ぐ麻奈に向けると、彼も麻奈の肩を掴んできた。その以外に強い力に麻奈は少し驚いた。
「さっき、鏡の中で女の子に会っただろう? 小さくて、ふわふわした髪の」
「えぇ、ついさっき会ったけど――」
「やぱり生きていたんだ……その子、元気だった? 俺のことは何か言ってた? 今どこにいるの?」
まくし立てるようにに質問をするリーズガルドに、麻奈は戸惑った。
「ねぇ、何を話したの? あんた前にも会ってるんだろう? その子のことを教えてよ!」
興奮した様子のリーズガルドは、遂には麻奈の胸倉を掴んで激しく揺さぶり始めた。
「ちょっ――ちょっと、待って。話してあげるから、手を離して」
麻奈の悲鳴に、リーズガルドはハッとした顔をして掴んでいたシャツの胸元を離した。麻奈はふぅと一息ついてから、リーズガルドに問いかけた。
「ちゃんと話してあげるから、その前に私にも説明をして。あの女の子は、リーズガルドの知り合いなの?」
リーズガルドは唇を震わせながら、こくりと頷いた。
「良く知ってる。俺はあいつを探しに此処まで来たんだ」
「そうだったの。それじゃあ、見つかって良かったじゃない」
「良かったけど、全然良くないよ。俺がずっとずっと必死になって探していたのに、どうしてお前が見つけるんだよ。怖い思いをして探しに来たのは俺なのに!」
リーズガルドは、キッと麻奈を睨みつけた。
「何で俺が探してるときには出てこないで、よりによってお前が見つけるんだよ。あいつと何を話したの? ねぇ、早く教えて。あいつ、俺のこと何か言っていた?」
「私だって、あの子とはそんなにたくさん話をしたわけじゃないよ。ビシャード陛下が危険だと教えてくれたり、過去を見るのは危険だと忠告してくれたり……。私の方こそ、あの子が何者なのか教えて欲しいわ」
リーズガルドは、まだ涙をいっぱいに貯めた瞳で麻奈を睨んでいる。麻奈があの少女を見つけたことがそんなにも悔しいのだろうか。
「俺、あいつを見つけて此処から連れ出さなくちゃいけないんだ。それなのに、あいつは俺の前に出てこない……きっとあいつ、俺を恨んでいるんだ」
リーズガルドは唇を噛みしめてうつむいた。濡れた睫毛を伏せて、頬を真っ赤にして肩を震わせて泣いている。生意気で思春期特有のプライドの高さを持ち合わせていたリーズガルドが、恥も外聞もなく泣きじゃくっている。
麻奈はどうしたらよいのか分からずに、ただ幼い子供のように泣いているリーズガルドの頭を引き寄せた。身長のあまり変わらない少年と、自分の額を突き合わせるようにして、そっとそのハリネズミのような頭に手を添えるように抱えた。逆立っている彼の固い髪の毛が、麻奈の掌にチクチクと刺さる。
ここに来てから麻奈はひとつ分かったことがある。それは、他人の肌の温もりは人を安心させるのことが出来るということ。辛いときや不安になったときに、ただ手を握ってくれる人が居るだけで、心が少し休まるのだ。
リーズガルドは嗚咽を漏らしながら、大人しくされるままになっている。きっと悲しくて悔しくて、それと同時に少女が見つかったことに安堵して、押さえつけていた感情があふれてしまったのだろう。
「捕まえて――」
「え?」
リーズガルドが急に顔をあげたので、麻奈の目と鼻の先に涙でぐしゃぐしゃに濡れたリーズガルドの瞳が迫った。
「今度あいつに会ったら、捕まえて! それでここに連れてきてよ。あんたならできるかもしれない」
「捕まえるって言ったって、私だってもうあの子に会えないかもしれないよ」
「あんたなら大丈夫。絶対にあいつはまたあんたの所に出てくるよ」
リーズガルドは頷いた。真剣そのものといった表情だ。麻奈は少し戸惑いながらも、彼の真剣さに負けてしまった。
「分かった。彼女に会ったら、ここに来てくれるように話してみる」
その言葉に、リーズガルドは麻奈の肩に頭を項垂れて小さく「ありがとう」と呟いた。彼なり感謝しているのだろう。麻奈はそんな不器用な少年の頭を出来るだけ優しく撫でてやった。彼がこんな風に大人しくしていると、まるで大きな猫を撫でているような気分になってくる。
すると、リーズガルドはするりと麻奈から離れて、ぶるぶると頭を振った。それは、本当に猫がする仕草に良く似ていた。
「ちょっと気安いよ。あんまり触らないでくれる」
いつものリーズガルドに戻ってしまったようだ。麻奈はそれが良かったような残念なような、複雑な気持ちだ。
「ねぇ、ジュリアンたちがどこにいるか分かる? それからユエも。ユエに会わずにジュリアンたちのところに行きたいんだけど」
「あぁ、あんたあの人に追われてるんだっけ。ユエはあんたの部屋。ジュリアンたちは――三階の本が一杯ある部屋」
「図書室だ。ありがとう、行ってみる」
麻奈は自分の部屋にユエが居る事に恐怖を覚えながら、ジュリアンたちのいる図書室へ向かうことにした。部屋を出る直前、麻奈はリーズガルドを振り返る。
「そういえば、空に月が出ているんだよ」
「知らない。それが何?」
「何って言われても――。不思議だなぁとかどうしてだろうとか、何か思わないの?」
「興味ない。俺には関係ないもん」
「そう――」
麻奈はリーズガルドの部屋を出た。かみ合うようで、かみ合わない。リーズガルドの興味は、あの少女にしか向けられていないようだ。
此処に少女を探しに来たと彼は言った。つまり、リーズガルドは自ら此処にやって来たという事になる。
(入口がわかっても出口は分からないということか。あの少女に聞けば何か分かるのかな?)
麻奈は、鏡の中でしか出会えない不思議な少女のことを考えた。神出鬼没な少女は、一体今どこにいるのだろうか。