忘れていた問題 2
計算通りことが進んだのは喜ばしいが、ここから完全にノープランだった。麻奈はとにかく走りながら、この先どうするべきかを考えた。
(大丈夫、殺されることはまずないはず。だぶん、きっと……)
麻奈は不安な気持ちで後ろをちらりと振り返った。少し距離がある所で、ユエがにやにやしながら追いかけてくるのが見えた。
(遊んでる)
麻奈は寒気を覚えるのと同時に少しむっとした。ずいぶんなめられたものだ。あの表情は、自分などすぐに捕まえられると馬鹿にている顔だ。しかし、それならば麻奈にも付け入る隙がある。
(何て言ったって、こっちは勝手知ったる母校なんだからね)
麻奈は職員玄関を通り過ぎ、L字の短い方の先端部に位置する階段を駆け上がった。階段を上がったすぐ側には、保健室があった。麻奈はその扉を迷いなく開けた。中に入って素早く扉に鍵をかける。
これで少しは時間を稼げるだろうと思ったが、すぐに思い直した。相手は鍵のかかった放送室の鉄の扉さえ蹴破る男だ。
麻奈は記憶の中と寸分違わない保険室の様子にホッと息を吐いた。消毒液の匂いと、衝立の奥にあるカーテン付きのベッド。養護教諭の机の上に置かれた歯の模型さえも懐かしい。麻奈は部屋の奥に置いてあるベッドへと向かった。麻奈の記憶の通りならば、この奥に目当ての物があるはずだ。
麻奈がベッドの乗り越えたその時、保険室の扉がガタガタと大きな音を立てて揺れた。すりガラスの向こうに、ユエの巨大な黒い影が見える。
「もう追いついてきたの?」
麻奈は咄嗟にベッドを取り囲むカーテンを引いた。カーテンレールが滑る音がして、麻奈の視界は白一色になった。
ユエはしばらくガタガタと保健室の扉を揺らしていたが、突然苛立ったように扉を蹴り倒した。扉が破壊される大きな音と、すりガラスが割れる音が辺りに響いたが、ユエは気にした様子も無くそれらを踏みしだいて中に入って行った。
辺りの様子を窺い、麻奈が隠れていそうな場所を破壊しながら探す。宝探しをしているようで、まどろっこしくて楽しいと彼は思った。そして、ユエは不自然にカーテンが引かれた一角に目を止めて、そちらに足を向けた。
「一体どこにいるのかな?」
わざとらしい言葉を呟きながら、ユエは一息にカーテンを開けた。カーテンレールが滑る音がシャッと鳴り、ユエはそこに白い掛布団をかけた盛り上げりを見つけた。ユエは笑い出した。
「なんだよ、随分可愛らしい隠れ方をするじゃないか」
白いなだらかな盛りあがりの脇に腰を下ろし、そのくびれた曲線に手を這わせた。
「声も出ない、か?」
ユエの手が白い布団を辿りゆっくりと上に上がった。布団の端を掴んで引くと、それをするすると床に落としていった。そして、ユエは息をのんだ。
掛布団の下から露わになったのは、ご丁寧にも二つ並べられた枕だった。ユエは舌打ちをして辺りを見渡した。他に隠れられる所はこの部屋にはもう残されていない。ふと、彼が窓際に目をやると、ベランダの窓がわずかだが開いていることに気が付いた。
「ここから逃げたな」
ユエがベランダに飛び出すと、麻奈がちょうど外を走って逃げているところを見つけた。
「くそ!」
ユエはまた盛大な舌打ちをしてから、外へと降りる道を探した。ここは二階部分なので、どこか近くに階段があるはずだ。しかし、ユエの目にはそれが見つからない。そうしている間に、麻奈は職員玄関の前を駆け抜け、校舎の角を曲がって逃げてゆく。
やられた。と思った時には、もう麻奈の姿はとっくに見えなくなっていた。ユエは歯ぎしりしながら麻奈の去って行った方をいつまでも見つめた。
「絶対に許さねぇぞ。あの女――」
麻奈は二階の保健室のベランダから、ユエがこちらを悔しそうに睨んでいるのを、爽快な気分で振り返った。舌でもだしてやろうかと思ったが、後が怖いのでやめておいた。もっとも、今でも相当怒っているだろうから、それをしてもしなくても同じかもしれない。
保健室のベランダには、そこに常駐している養護教諭の為の特別な避難階段が付けられている。種を明かせば、麻奈はベランダの外側に付いている鉄で出来た折りたたみ式の梯子を下りてきただけだった。しかし、それはベランダの外側に付いているため、一見しただけでは見つけることは出来ない。これはこの学校の生徒である麻奈にしか知らない逃走経路だった。
思えば、ユエにはいままでやられっぱなしだった。ユエを出し抜いて逃げ切れたことは、麻奈にとっては名誉を回復したような胸が晴れる出来事だった。しかし、油断はできない。広いようで狭い校舎なのだ。またいつユエと鉢合わせするとも限らない。今度会ったら絶対に無事ではいられないだろう。
麻奈はその時のことを考えて不安になりながら、ジュリアンたちを探すことにした。彼らの怪我の具合も心配だ。何より一人きりで居るのは心細い。
麻奈が校舎の入り口に足を向けたその時、一階の教室からおびただしい数の緑の蔦が伸びてきて、それらが一斉に麻奈の方に向かって突進してきた。
麻奈はあっという間にうねる緑の波に飲み込まれ、息も出来ないほど体のあちことを引っ張られていた。無数の蔦たちは、寄り集まってまるで一つの生き物のような動きで麻奈を担ぎ上げると、そのまませっせと運んでいった。
「この葉っぱ、もしかしてリーズガルド?」
麻奈の四肢に巻き付いていた葉が、肯定するようにサワサワと揺れる。こんなに手荒い扱いは初めてだが、彼のいたずらだろうかと麻奈は身を固くした。
「すぐに離して。今はリーズガルドと遊んでいられないの」
言葉の分かる葉に呼びかけるが、彼はそれには一切答えぬまま、麻奈を祭りの神輿よろしく担いで行った。