忘れていた問題 1
一部暴力的な表現があります。
「びっくりしました。急に持ち上げるんですもん……」
麻奈はほの暗い鏡の中で尻もちをついた腰を摩りながら、自分を放り投げたサルーンに向かって口を尖らせた。
「すまなかった。あの少女に時間がないと言われて焦っていたんだ」
サルーンは少しばつが悪そうな顔で麻奈に手を差し伸べた。
「ところで、これからどっちに進めばいいのかな?」
麻奈は点々と夜空の星のように輝く空間を見渡しながら、密かに首を捻った。ビシャードの時はどこを目指したのかを思い出そうとしたが、その部分はあまり覚えていないことに気が付いた。
あの時は負傷したビシャードを助けたい一心で、麻奈もどこをどう進んだのか覚えていない。ただ歩いていたら出口に着いていたというような感じだ。今度も適当に進んでいればやがて出口にたどり着けるだろうと思い、ふたりはとにかく歩き出した。
隣を歩くサルーンの足取りはしっかりしている。彼はもう落ち着いたのだろうか。麻奈は包帯の取れた彼の傷口をそっと見た。盛り上がった切断面を見ると、サルーンの傷の酷さが際立って胸が痛くなる。その視線に気がついたサルーンが、足を止めて麻奈の顔を覗き込んでくる。
「どうした? もしかして、まだ腰が痛むか?」
「いいえ。サルーンさんはいつも心配してくれるんだなぁと思って。本当に辛いのは、サルーンさんの方なのに、あなたはいつも私の身を案じてくれていました。ありがとうございます。私、サルーンさんが一緒にいてくれて、本当に感謝しています」
麻奈の言葉にサルーンは目を瞬き、そして首を振った。
「お礼を言うのは俺の方だよ。君が言ってくれた言葉で、俺は随分救われたんだ。これで、故郷に帰ったらアリーシャに全てを話せる気がする」
「辛い役ですね……」
「仕方がないさ。俺もアリーシャも、ユゥジーンの死を乗り越えなければいけないんだ」
サルーンはまた、廃校で見たときのように遠くを見つめた。しかし、その瞳は凛として固い決意に満ちていた。麻奈はそれを見て、彼はもう大丈夫なのだと思った。暗い過去に囚われたりしない、乗り越えた者の瞳だ。
「あれじゃあないか?」
サルーンの指差す方を見ると、大きな鏡から光がこぼれているのが見えた。その鏡の大きさといいあふれ出る紫色の光といい、間違いなさそうだ。
鏡の前に立つと、まずはサルーンから鏡に手を伸ばした。彼の日に焼けた右腕は、何の抵抗もなく鏡に飲み込まれていく。そのままサルーンの体がゆっくりと沈んでゆくのを見て、麻奈は何か重大なことを忘れているような気になった。
「そうだ! ユエは……?」
サルーンと共にこちら来る時に、ユエの静止を振り切って強引に鏡に入ったことを思い出した。恐らく、怒り狂ったユエ鏡の前で待ち構えているに違いない。麻奈は慌ててサルーンの後を追った。隻腕の彼がこれ以上傷つくところなど絶対に見たくない。
すっかり慣れてしまった冷たい感触に、目を閉じることも忘れた麻奈の目の前に飛び込んできたのは、正に予想通りの光景だった。
「お帰り、遅かったな」
漆黒の上着を翻して振り返ったユエは、それは美しく禍々しく微笑んだ。麻奈は彼の足もとで床に膝をついているサルーンを見つけて息を呑んだ。嫌な予感は当たっていた。ユエはやはり鏡の前で麻奈たちの帰りを待っていたのだ。
麻奈はさっと辺りを見渡して、二階で倒れていたはずのジュリアンたちの姿を探した。しかし、彼らの姿は既にそこにはない。彼らのことだから、きっと上手く逃げることが出来たのだろう。
「あんまり遅いから待ちくたびれた。お前らを待っていたご褒美に、きっちり遊んでくれるんだよな?」
麻奈から目を逸らさずに、ユエはサルーンにゆっくりと手を伸ばした。これは、質問ではなく脅迫なのだと麻奈は思った。自分たちには選択肢なんて残されていない。そう感じさせるだけの力の差がユエにはある。
少し前には恐怖しか感じなかった彼の脅しに、麻奈は不思議と怒りを感じていた。文字通り、死線を目にして怖いという感情が鈍っているのだろうか。
「そんなやり方卑怯だわ。力にものを言わせて、何でも自分の思い通りになるとでも思っているの?」
麻奈の静かな怒りを感じて、ユエは面白そうに目を細めた。
「力が無い者が、有るものに従うのは当然だろう。弱い奴は虐げられる。強い奴が全てを手に入れる」
ユエはサルーンに伸ばしていた手を引っ込めると、麻奈にゆっくりと近づいた。
「お前の国ではどうか知らねぇが、これが俺の真理だ。俺の前では、全員それに従ってもらう」
麻奈は、はっきりとそう言い切るユエに身を震わせた。話がまるで通じない。彼には麻奈の常識や倫理観は全く通用しないのだ。
ユエが麻奈に気を取られている隙に、サルーンがふらつきながらも立ち上がった。腹を押さえているところを見ると、そこに不意打ちを食らったらしい。
「彼と話しても無駄だ。ユエもまた、この場に狂わされたひとりなんだ。不安や欲望が強すぎて、正常な判断力なんて残っていない――」
サルーンの話をさえぎって、ユエが彼の頬に拳をめり込ませた。声も無くのけぞるサルーンの口元から、赤いものが滴った。
「ここは外野がうるさいな。もっと静かなところで議論をするか? じっくり、お互いが納得するまで……」
ユエは麻奈に更に近づいた。麻奈はそんなユエを不可解な思いで見上げていた。彼の姿はどこにも異常な所は見られない。それどころか、完璧な美しさを持っているように見える。しかし、その中身は驚くほど残忍だ。まともな外見につい騙されてしまうが、ユエもこの廃校の住人だということを忘れていた。
変わるのは、外見だけではないのだ。内面もまた歪んでいく。
麻奈はぐっと唇を噛みしめ、口元に笑みを浮かべて近づいてくるユエの顔を思いきり引っ叩いた。パンと小気味いい音がして、麻奈の掌にジンとした痛みが走る。
ユエは麻奈の平手を平然と頬に受け止めていた。目を閉じることさえしなかったところを見ると、痛くも痒くも無いらしい。むしろ面白そうに眼を細めた様子は、小さな動物が抵抗する様を見て楽しんでいるような余裕が感じられる。恐らく、飼い猫が爪を立てたぐらいにしか思っていないのだろう。麻奈はそんなユエをキッと睨みつけた。
「さっきは誓いを立てようとしたけど、前言撤回。ユエの思い通りになんて、絶対なってあげない!」
麻奈はそれだけ言うと、螺旋階段の手摺にひらりと飛び乗り、一気に階下へと滑り降りた。昔よく教師の目を盗んでやった遊び。今でも上手く出来たことに、麻奈は内心ほっと息を吐いた。
軽い音を立てて床に着地を決めると、麻奈は全速力で走りだした。後ろを振り向くまでもなく、ユエが麻奈の後を追ってくる足音が聞こえてきた。目の前で逃げる獲物を、ユエは追わずにはいられないだろうと思っていた。そのために、わざとユエの頬まで張ったのだ。
これで、サルーンを守ることが出来た。麻奈は満足しながら息をきらして廊下を走り抜けた。