サルーンのトラウマ 11
「くそ、くそ……」
鏡に向かって未だ拳を叩き付けている過去のサルーンの声が響き渡った。その背中は麻奈が見ていて哀れに思えるほど深く傷つき、すべてを拒絶していた。もし出来るならば、彼にも同じ言葉をかけてあげたいと麻奈は思った。少しでも彼の気持ちを晴らしてあげたい。しかしそれは無理なことだ。麻奈の姿は過去の人たちには見ることも出来ず、声も届かない。ただ過去のサルーンが苦しんでいるのを見ていることしかできないのが麻奈には辛い。しかし、突然どこからともなく男の声が聞こえてきた。
「辛いのなら、そこから逃げてしまいませんか?」
場違いなほど明るいその声に、鏡の前に立つサルーンはハッとして顔を上げた。見ると、鏡の中から彼をじっと見つめている男がいる。
「辛いことがあるなら、こちらへ来ませんか?」
「なんだ? 夢か……」
サルーンは驚いた顔で鏡の中で微笑む男を見つめていた。麻奈は鏡に浮かんだ男の顔を見て、小さく声を上げた。鏡の中で薄く微笑みながらサルーンに手を差し出しているのは、紛れもなくあのジュリアンだった。彼はまるで、傷つき打ちひしがれているサルーンをからかうような口調で笑いかける。
「悩みも苦しみも、こちらに来れば感じずに済むかもしれませんよ」
サルーンは放心したような虚ろな表情をしていた。驚きすぎて彼の中の何かが麻痺してしまったのだろうか。サルーンは甘い誘惑の言葉に引き寄せられるように身を乗り出すと、ジュリアンの手を取ろうと鏡に向けて手を伸ばした。
「行っちゃ駄目!」
麻奈は思わず叫んでいた。しかし、本来この場にいるわけではない麻奈の声は、ふたりには届くことはない。
ジュリアンの手を取ったサルーンの体が、ゆっくりと鏡の中に沈んでゆく。それを見ながら、麻奈は焦りにも似た不快感を覚えていた。
「どうしてジュリアンが?」
「そういえば、俺が知る限りでは新しい人間をつれてくるのはいつも彼だったな」
麻奈の隣で、苦い顔をしながら過去の出来事を見ていたサルーンが、思い出したようにそう呟いた。それはつまり、廃校に人々を引きずり込む片棒をジュリアンが担いでいるということなのだろうか。
麻奈はそんなはずはないと思いながらも、心のどこかでそれを否定できない自分を意識していた。実際、麻奈を連れてきたのもジュリアンなのだ。しかし、そんな思いを振り払うように麻奈は唇をきつく結んだ。嫌な想像を押し込めなければ。そうしなければ心の拠り所を失ってしまう。
「たぶん、この鏡がこの場所からの出口になるはずです。行きましょうサルーンさん」
「その鏡を通らなくては、本当の出口は見つからないのだろうか?」
「私にもよく分かりません。でも、ここに残っていたら何が起こるか分からないんです」
サルーンはふむ、と呟いてから辺りを見渡すようにして歩き始めた。
「少し散策してみるか? ここがどういう所なのか分かる手がかりがあるかもしれないぞ」
サルーンがそう言って麻奈を振り返ったとき、手洗い場の入り口から少女特融の可愛らしい声が聞こえた。
「それはやめた方がいいと思うよ」
麻奈が驚いてそちらを見ると、そこには以前ビシャードの過去でも出会った少女が立っていた。相変わらず泥遊びでもしてきたような汚れた衣服に、少しだけ大人びた微笑みを浮かべている。
「ここに長くいるのは、あんまりおすすめ出来ない。早くしないと出口が閉じて、自分の故郷どころか、あの廃校にも帰れなくなるから」
少女は半袖の裾から伸びる細い手で、鏡を指差した。
「もう少しで出入り口が消えてしまうよ。ここから元いた場所に帰る道はない。あるのは、廃校へ戻る道だけ」
「あなたはどうしてそんなことを知っているの?」
麻奈は少女の目線に合わせて少し身をかがめた。その仕草に気を悪くしたのか、少女は麻奈に厳しい視線をぶつける。ついでにぷぅと膨らませた頬が何とも可愛らしいと思ったが、麻奈はそれを口には出さずに彼女の答えを待った。しかし、少女は麻奈を不躾に指を向けて、諌めるような口ぶりで声を荒げた。
「ちょっとあなた。またこんな所をうろうろしているの?」
少女は大人びたため息を吐いてから麻奈を見上げた。
「あなたはもうここに来ない方がいいわ。これ以上いたら、せっかく封印した過去の事を全部思い出してしまうわよ。あなたが忘れている、辛くて悲しいこと全部」
麻奈は少女の言葉に身震いした。そんなものはないはずだと言い返そうとした口は、ひゅっと息を吸い込んだまま言葉は出てこなかった。あからさまに顔色を変えた麻奈を気遣ってなのか、サルーンが麻奈を背に隠すように前に出た。
「君は、一体何者だ? どうしてこの場所にそんなに詳しいんだ?」
少女は一瞬だけ大きな瞳を伏せたが、すぐにまた洗面台の鏡を指差して見せた。
「残念だけど、あなたたちにはそんなことを詮索している時間は残されていないの。早くあの鏡を潜らないと、本当にこの場所に取り残されてしまうわよ」
まるで答えをはぐらかすような少女に、サルーンは疑惑の眼差しを向けていたが、やがて彼女の指差す鏡を唸りながら見つめた。次の瞬間、サルーンは麻奈の手を引いたかと思うと、長身な体を屈めて麻奈をその肩に担いだ。急に高くなった視界に、麻奈は戸惑った声をあげた。
サルーンは、まだ小さな光がこぼれている洗面台の鏡に手を突っ込んで出口が開いているのを確かめてから、やおら麻奈をその中へと放り込んだ。これには麻奈も仰天して、ぎゃ、という悲鳴をあげながら鏡の中へと消えていった。サルーンはひらひらと手を振っている少女をひと睨みしてから、洗面台に足をかけて自身も鏡の中へと入って行った。
後に残された少女は、口元に浮かべていた笑みを消して、可愛らしく振り続けていた手をぴたりと止めた。
「あの娘も、姿が変わるのは時間の問題かもね――」
ため息とともに吐き出されたその言葉は、ただの鏡に戻ってしまった洗面台の鏡に弾かれて消えた。