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サルーンのトラウマ 10

 麻奈は一部始終をただ黙って見ていた。震えることも出来ないほどに凄惨な出来事を、息を殺して見つめていることしか出来なかった。麻奈はいつの間にか自分の拳を口元に当て、それをぐっと噛みしめていた。痛みでこの感情を逃がさなければ、自分は叫び出していただろう。自分の体を抱きしめるように隻腕を肩に回しているサルーンの前で、そんなことをしたくはなかった。


 これだけ悲惨な体験をしていたサルーンが、今また過去を見せつけられて正気でいられるのかが麻奈は心配だった。しかしサルーンは深く息を吐き出すと、ゆっくりと数回瞬きをして麻奈を振り返った。


「大丈夫か? 酷い光景を見せてすまなかったな」


 自分のことよりも、まず麻奈の心配をするサルーンに涙が出てきた。どこまでこの人は優しいのだろうか。麻奈は涙を拭いながら頷いた。


「私は平気です。それよりも、サルーンさんの方こそ大丈夫ですか?」


 まだ息の荒いサルーンだが、彼は額の汗を軽く拭うと小さく頷いた。顔色が悪い。気丈に振舞っているように見えるが、その額には汗が浮いているのが見て取れる。しかし、麻奈にはどうすることも出来ない。


 気が付くと、辺りの景色はまたその姿を変えるべく、いつの間にかゆっくりと溶けだしていた。まるで、サラサラと景色がこぼれ落ちる音が聞こえてくるようだ。


 次に姿を現したのは、ひびだらけの石壁に囲まれた部屋だった。そこには四台の寝台が置かれていて、包帯で体中巻かれた人々が横たわっている。部屋には何かの薬品の匂いと、生臭いような血の臭いが微かに感じられる。恐らくここは、病院だ。


 カーテンが引いてある窓際の寝台に、赤銅色の髪をした男を見つけた。麻奈たちはそっと彼の寝台の側まで近づいて行った。過去のサルーンは目を開けて天井を見つめているようだったが、その瞳は虚ろで顔はげっそりと痩せこけていた。


 ユゥジーンを失ったショックと疲労で、サルーンは抜け殻のようになってしまっていた。無理もない。麻奈は目を伏せた。失ったものがあまりに大きかったのだろう。


「あの後、トリアーニーが俺を助けてくれたらしい」 


 麻奈の隣で、過去の自分を見下ろしているサルーンがポツリと漏らした。


「彼女は、俺を森の外まで引きずって行ったんだ。自分も怪我をしているのに――敵である赤い血の民族の俺を助けるために」


「優しい人だったんですね」


「気が付いた時には、俺は一人で森の外に横たわっていた。遠くの方で仲間が救助に来てくれたのを見たときは、魂が抜けるほど安心した。結局、彼女に礼を言うことも出来なかった……」


 麻奈はサルーンを見上げた。彼の瞳には、廃校で見せたときのような虚ろな何かが映っているような気がした。

また元のサルーンに戻ってしまうのだろうかと麻奈が不安に思ったとき、扉の無い崩れかけた病室に、高い靴音を響かせて一人の女性が駆け込んできた。長い髪を揺らして、目を真っ赤に染めたその女性は寝台の上のサルーンを見るなり、大粒の涙を流して彼の寝台の側まで来た。その女性を見た途端、遠くを見ていた過去のサルーンの瞳が急に見開かれた。


「アリーシャ」


「サルーン、無事だったのね。あなたが爆発に巻き込まれたっていう知らせを聞いて、私……」


「どうしてこんなところまで?」


「友人が怪我をしたんだもの、お見舞いに来るのは当然でしょう――それに、ユゥジーンが行方不明になったって聞いたから……」


 透明な涙がアリーシャの頬を伝って落ちた。サルーンは、そんなアリーシャから目を逸らしてから、ぎこちない動きで立ち上がった。


「そんな体でどこに行くの?」


 ふらつくサルーンの体をアリーシャが支えようとしたが、その手をサルーンが片方しか自由にならない手でたたき落とした。


「お前にだけは、こんな姿を見られたくはなかったよ」


 サルーンはまるでアリーシャから逃げるように、体を引きずりながら病室を後にした。取り残されたアリーシャは、綺麗な顔をくしゃりと歪めて両手で顔を覆って泣いていた。華奢な肩が震えているのが、麻奈の位置からでもよく分かった。

 

 麻奈とサルーンは、病室を出て行った過去のサルーンを追いかけた。ふたりとも何も言えなかった。麻奈はアリーシャの話を聞きたかったが、今はそんな雰囲気ではないこともよく分かっていた。


 過去のサルーンは崩れかけた廊下を歩いて、手洗い場までやってきた。鏡の付いた洗面台の前に立つと、サルーンは長い溜息をついた。


「アリーシャは、ユゥジーンが死んだことを知らないのか」


 サルーンは鏡に頭を打ちつけながら、無事な方の拳を握りしめていた。良く見ると、その拳は小刻みに震えていた。


「俺が教えなければいけないのか! あいつに、ユゥジーンの最後を」


 サルーンは唇を噛みしめた。彼女との約束を果たせなかったことを、悔やんでいるのだろう。その表情は暗く、苦渋に満ちている。大事な親友を失った。守ると約束していたユゥジーンを死なせてしまったサルーンの苦しみは、麻奈には計り知れない。


 気遣いながら隣に立つ現在のサルーンをちらと見上げると、彼の唇が大きく歪むのを麻奈は見た。皮肉そうに弧を描いて、そこから低い笑い声が漏れだした。


「俺は一体、聖地に何をしに行ったんだろうな。味方に爆撃され、守ると約束した幼馴染を死なせて……おまけに殲滅するはずの敵に助けられる始末だ」


「サルーンさん……」


「あのとき俺が迷っていたのは、ふたりとも助けたかったからじゃあ、なかったんだよ」


「あのときって?」


「ユゥジーンとトリアーニーが谷に落ちたときのことだ」


 サルーンは、これ以上ないくらい眉間を険しくしながら口を開いた。話すのがそんなにも辛いのならば、無理に吐き出さなくてもいいと麻奈は思ったのだが、言葉が上手く出てこなかった。


「俺はあのとき、もしもユゥジーンがこのままいなくなったら、アリーシャが俺のものになるかもしれないと思ったんだ。ユゥジーンを失った彼女を慰めるふりをして、アリーシャの心に忍び込めるかもしれないと考えていたんだよ」


 サルーンの赤い瞳から、大粒の涙がこぼれた。


「俺はあんなにも酷いことを考えていたのに、ユゥジーンはトリアーニーを先に助けるべきだと言った。あいつは、綺麗で純粋で……だから死んだんだ」


 サルーンは自分の右腕の先に巻かれている包帯を外した。だんだんと露わになるサルーンの傷跡を目にして、麻奈はそっと目を伏せた。


「俺があいつの代わりになれば良かった。生きるべきなのは、あいつの方だったんだ」


 サルーンは残っている左腕で、まだ生々しい傷跡を残した右腕に爪を立てた。ギリギリと力を込めて、傷ついた腕に爪痕を刻む。


 麻奈は思わず、サルーンの左手にしがみついた。サルーンはそれでも自分の腕に爪を立てることをやめない。


「神が本当にあの聖地に居たのなら、ユゥジーンを生かすべきだったんだよ。俺はこれからどんな顔をしてアリーシャに会えばいいんだ? おめおめと生き残った俺が、彼女にユゥジーンの死をどうやって告げればいいんだ……」


 麻奈は、サルーンの左腕にしがみついたまま、彼の頬を思いきり叩いた。鋭い視線をぶつけられ、麻奈はその瞳の強さに怯えたが、それでも精一杯彼を睨み返した。


「サルーンさんは、ユゥジーンさんをちゃんと助けようとしたじゃないですか! 私は見ていましたよ。あなたがトリアーニーさんを助けた後に、ユゥジーンさんにもを差し伸べているところを。本当にユゥジーンさんに死んでほしかったのなら、あんなことは絶対にしません。サルーンさんは、彼を一生懸命助けようとしたんです!」


 麻奈は、自分でも思った以上に大きな声を上げていた。後悔するサルーンの姿をこれ以上見ていられなかったのだ。


「サルーンさんは優しい人です。たった少しの時間一緒にいただけの私ですらそれが分かるんですから――」


 麻奈の瞳からも、いつの間にか涙が出ていた。


「だからもう、自分を責めるのはやめて下さい。あなたは、正しいことをしたんです。ユゥジーンさんのことは、仕方がなかったんです」


 未だ麻奈がしがみついたままのサルーンの左腕が、心なしか震えているように感じた。麻奈は彼の腕を抱え込むようにして抱きしめた。太く、たくましい腕。しかし、深く傷ついているボロボロの腕だ。


「アリーシャさんだって、きちんと話せば分かってくれます。それとも、アリーシャさんはそんなことも分からないぐらい愚かな人ですか?」


「いや。彼女は聡明で、優しい人だ」


「それじゃあ、きっと大丈夫です」


 麻奈はいつもサルーンがしてくれているように、彼の頭をそっと撫でた。精一杯背伸びをして、やっと届いた彼の前髪の部分をぎこちなく撫でる。


「サルーンさんは、悪くありません」


 呪文のようにそう呟く麻奈を見つめ、サルーンは困ったような顔をしてから、ふっと肩の力を抜いた。そして、麻奈が頭を撫でやすいように自ら頭を下げてくれた。


「君がそう言ってくれると、少し気持ちが楽になるようだ」


「サルーンさんは、悪くないです」 


 サルーンは眉を下げて笑った。精悍な彼が見せる、情けなくも弛緩したその顔は、なんだか麻奈もほっとした気持ちにさせる笑顔だった。

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