サルーンのトラウマ 9
残酷な表現があります。
滲んでいた景色がゆっくりと固まりだすと、そこは辺り一面火の海になっていた。森は、度重なる火柱を投下されて、木々も草も炎に呑まれていた。
「こんなに炎が広がっていたら、消すのはもう……」
火の粉を含んだ熱風が麻奈たちに吹きつける。麻奈は手で顔を覆ってそれを避けると、辺りを見渡した。火の手は舐めるように森に広がってゆいく。空からは、次々と雨音に似た轟音をまき散らしながら焼夷弾が投下されている。絨毯爆撃。その名の通り、絨毯を広げるように爆弾を投下してゆくつもりらしい。
「過去のサルーンさんたちは、どこに行ったんでしょうか?」
「こっちだ」
麻奈の手を引いてサルーンが歩き出した。何もかも燃えている森のその先に、深い谷間が見えてきた。突然現れた地面の裂け目はとても深く、対岸の岩肌には古道がジグザグに下へ降りる道を作っている。
よく見ると、崖には吊り橋が掛けられていて、爆風に煽られてゆらゆらと頼りなげに揺れている。その橋の前に、トリアーニーが立っていた。揺れる吊り橋を前にして、先に進むことも出来ずにじっと橋を見つめている。
そこへ、過去のサルーンたちが姿を現した。彼らもまた、吊り橋の上のトリアーニーを見つけて駆け寄ってきた。それを見て、トリアーニーは威嚇するように叫んだ。
「何しに来た!」
「君が心配で追ってきたんだ。こんな所にいたら、君まで焼け死ぬぞ」
「そっちは危険だ。それ以上行くんじゃない」
サルーンとユゥジーンの呼びかけにも答えようとせずに、トリアーニーは吊り橋の綱をぐっと掴んだ。そのまま橋に足をかける。
「来るな。ここは、お前たちが入ることは許されない」
「トリアーニー、その橋は危険だ。俺たちはここを動かないから、戻ってきてくれ」
ユゥジーンが必死に叫ぶが、彼女の返事は歩を進めることだけだった。ユゥジーンが舌打ちする。
「そんなに――そんなに墓が大切か!」
トリアーニーは驚愕の表情で振り向いた。
「そんなに、先祖の墓が大事なのか、トリアーニー?」
「どういうことだ。ここには彼らの墓があるのか?」
「そうだ。昔ばあちゃんから聞いたことがある。森の奥、大地の裂け目には英雄たちの墓があるのだと。彼らの聖地とは、自分たちの先祖の墓のことなんだよ。彼らは砂漠の先住民だ。恐らく、赤い血の民族が聖地を知るずっと前から、ここは彼らの聖なる墓場だったんだ。だから彼らはここを定期的に訪れる必要があるんだ。墓参りのためにね」
「じゃあ、なぜ我々の軍はここを奪還しようと言っているんだ?」
サルーンは唇を噛みしめた。俄かには信じられない話なのだろう。ユゥジーンの話が本当だとすれば、赤い血の民族はただの侵略者ということになってしまう。サルーンの問いに、トリアーニーが噛みつくように吠えた。
「白々しい。お前たちの目的は、リライトだろう」
「リライト? あの幻の鉱石のことか!」
「そうだ。あれを売れば国家予算などはるかに超える金が手に入る。お前たち赤い血の民族は、浅ましくも我らの墓を荒らし、このリライトを発掘するつもりなのだろう」
トリアーニーが対岸の崖を指差した。その岩肌は淡い緑色をしていて、不思議な輝きを放っていた。
「ここは、はるか以前から我らの大事な先祖の眠る土地だ。お前たちの好きにはさせない」
トリアーニーは激しく揺れる吊り橋の上で、爆音にかき消されないほどの大声を上げた。その瞳は、初めて彼女を見たときと同じように、静かな炎が燃えているようだ。
ユゥジーンが吊り橋の綱に手をかけた。空には相変わらず黒い機影が隊列を組んで爆弾を投下していて、背後の森には炎がせまっている。しかし、そんなことを感じさせないほどユゥジーンの声は穏やかだった。
「その気持ちは俺にも分かるよトリアーニー。でも、ここにいたら君は間違いなく死ぬだろう。今はこの森から出ることが先決だよ」
「うるさい! 私は聖地と運命を共にする覚悟は出来ている」
「君は俺たちを助けてくれた。だから、今度は俺が君を助けたいんだ。もちろん、先祖の誇りも大切だ――だけど、君の命だって大切じゃないか。一緒に行こう、トリアーニー」
ユゥジーンは手を差し伸べながらゆっくりとトリアーニーに近づいて行った。微かに微笑みながら差し出される手に、トリアーニーは戸惑っているように見えた。ユゥジーンはゆっくりと橋を進む。まだ熱に浮かされているはずなのに、彼の歩みはしっかりとしていた。
サルーンはたまらず飛行機に手を振った。
「やめろ! まだここに仲間がいるんだぞ。リライトだって炎に焼かれるぞ!」
「無駄だよ。リライトは炎ぐらいで傷付くことはない」
「くそっ!」
そのとき、ザァッという轟音がまた降り注いだ。次いで、谷に火柱が上がる。サルーンは咄嗟にその場に身を伏せた。サルーンは息も出来ないほどの熱風に耐えながら立ち上がった。ユゥジーンとトリアーニーの姿が見えない。谷にかけられた橋は、半ばから火が燃え移り途中からぷつりと切れていた。
サルーンは慌てて崖を覗き込んだ。
「ユゥジーン、無事だったか」
サルーンが安堵の息を吐いた。崖の中腹に、太い綱に掴まってぶら下がっているユゥジーンとトリアーニーの姿が見えた。
「今引き上げる。待ってろ」
「駄目だ。この綱を引っ張るのはやめてくれ」
サルーンが綱を掴んでふたりいっぺんに引き上げようとするのを、ユゥジーンが止める。
「さっきの爆発で、脆くなってちぎれそうなんだ。一人ずつ上がるしかない」
ユゥジーンの言うとおり、彼らが持っている綱は、ほつれて今にも切れそうになっている。これではいつ切れてもおかしくない。サルーンは伸ばしていた手を止めた。トリアーニーとユゥジーンとを交互に見つめる。一人を引き上げている間、果たして綱はもつのだろうか。
「女性の方が優先だろう?」
サルーンはハッとした表情で友人を見た。ユゥジーンはこんな時にも関わらず、歯を見せて笑っていた。
「そうだな……お前の言う通りだ」
サルーンがトリアーニーに手を伸ばすと、彼女は煤だらけの腕を迷うようにおずおずと伸ばした。サルーンがその手を引っ張りあげる。腕一本で難なくサルーンがトリアーニーを引き上げ終えると、彼はまた地面に腹ばいになった。今度はユゥジーンの番だ。
「上げるぞ、手出せ」
ユゥジーンがほっとした顔で手を伸ばしたその時、更に追加の弾が耳障りな音を立てて落ちてきた。サルーンは空を仰いだ。ほとんど真上から黒い塊が落ちてくるのが見える。
耳が聞こえなくなるほどの轟音が鳴り響き、谷全体が崩れ始めたのではないかと思えるほどの爆発が起きて、サルーンの体は木の葉のように宙に投げ出されていた。今度の爆弾は、焼夷弾ではなかったのだ。
何もかも吹き飛ぶほどの爆風が収まる頃、サルーンはようやく目を開けた。四肢がまったく動かない。体のあちこちの感覚がないのだ。サルーンはこのとき、何が起きたのかまだ全く理解出来ていなかった。
煙が立ち込める。やっと体の感覚が戻ってきたころ、激しい咳をしながらサルーンは右手の感覚がおかしいことに気が付いた。不思議に思って見下ろすと、肘の先から下が大きな岩の下敷きになっているのが見えた。
「っぐぅ」
途端、強烈な痛みと吐き気に襲われた。歯を食いしばって呻いたが、痛みを逃がすことは出来ない。その声を聴きつけて、トリアーニーがサルーンの元へ駆けつけた。
「あの男はどこだ?」
トリアーニーが石をどかしながら訪ねる。サルーンはこの時初めて、ユゥジーンの姿がないことに気が付いた。がちがちと歯を鳴らしながら、首を横に振る。彼を目で探す余裕もないが、ユゥジーンの名を弱弱しく口にした。
「待て。お前の処置をしてから私が探す。今はしゃべるな」
トリアーニーが自分の袖口を破り、その端切れを丸めてサルーンの口に押し込んだ。つぶれたサルーンの右腕を見て、彼女は顔色を変えた。辺りには、サルーンの血液が流れて血だまりになっている。
ユゥジーンは一体どうしたのだろうか。サルーンは友人の顔を思い浮かべた。自分を見上げたときの、ほっとしたような彼の顔が頭にこびりついて離れない。
サルーンは嫌な予感がしていた。ユゥジーンを掴んでいたはずの自分の右腕。なぜ離してしまったのだろう。
トリアーニーが止血のために結んだ布は、あまり役には立たないようだった。しかし、彼女は力一杯サルーンの傷口の上を縛った。いまのトリアーニーにはこれぐらいしか出来ることはなかった。
トリアーニーは立ち上がると、まだ煙の立っている谷を見下ろした。そこには原型がないほどに谷が崩れ、岩肌が大きくえぐり取られていた。ユゥジーンの姿は見えない。トリアーニーの瞳に涙が浮かんだ。
「あの男は、死んだ。この爆発では助からない……私を先に引き上げたばかりに、あいつが犠牲に――」
サルーンは呆然としながら彼女の言葉を聞いた。ユゥジーンが死んだなんて、信じたくはなかった。しかし、信じないわけにはいかない現実を突きつけられている。
サルーンの意識は、激痛と友人を失った痛みで遂に決壊してしまった。薄れゆく意識の中でサルーンが見たのは、飄々と笑うユゥジーンの笑顔だった。
ユゥジーンを守ると誓った約束は、守れなかった。