サルーンのトラウマ 8
「いつまで後を付いてくるつもりだ」
サルーンの言葉に麻奈はどきりとした。過去の人々に、自分たちの姿が見えているわけはない。しかし、サルーンの瞳は真っ直ぐに麻奈たちを見据えていた。麻奈がどうしようかとおろおろしていると、後ろの茂みがガサガサ揺れてそこからトリアーニーが出てきた。
「なぜ撃たないんだ?」
疲れの見えるサルーンの問いに、トリアーニーは小銃を下ろして黙ったまま視線を下向かせた。彼女の敵意に燃えていた瞳には、今は戸惑うような色が浮かび、自分でも何をしているのか分からないというような顔をしていた。
「俺たちを監視して殺すつもりか?それとも、何か別の思惑があるのか?」
トリアーニーは唇を引き結んだ。何かと葛藤するような厳しい表情をして、彼女はサルーンとユゥジーンを見つめている。
「――今、私たちは神に祈りを捧げる時間だ」
やっとトリアーニーの口から出た不可解な言葉に、サルーンは眉をひそめた。
「私たちの祈りは、神との約束を確認することだ。神を恐れ敬うこと、盗まないこと、そして……同胞を殺さないこと」
このとき、サルーンの肩に担がれているユゥジーンがハッと身動ぎした。
「同じシー二―の神を信仰するその男は、残念だが我らの同胞だと私は思う。だから、私はお前たちをこのまま逃がすことにした」
トリアーニーはサルーンにゆっくりと近付いた。まだ警戒するように慎重に歩きながら、トリアーニーはサルーンに小さな袋を手渡した。
「これは?」
「薬草だ。その男は怪我が酷い。熱がでるぞ」
「それならもう出始めている。これをどうすればいい?」
「本来は煎じて飲む。だが細かく砕いて飲み込むだけでも応急処置にはなるだろう」
サルーンはユゥジーンを下ろして、トリアーニーの瞳を覗き込んだ。
「信じて、いいのか?」
トリアーニーはサルーンの手から緑色の葉を引ったくると、迷いなく自分の口に放り込んだ。毒ではないという証明だろう。それをよく咀嚼してから、トリアーニーはユゥジーンに顔を近づけた。サルーンが止める間もなく、彼女は口移しでユゥジーンに薬草を含ませた。苦しそうにしながらも、ユゥジーンは必死でそれを飲み込む。
「これで、そのうち熱は下がるだろう」
「すまない」
ぐいと口許を拭うトリアーニーに、サルーンは礼を言った。
「これだけだ。私がするのは、お前たちを殺さないことだけ――後は、自分たちで森を抜けろ。神がお前たちを生かすと決められたら、抜けることが出来るだろう」
「俺まで殺さないのは、どういうわけだ?」
「足がいるだろう。もしもそいつが五体満足だったなら、お前は生きていなかったかもな」
トリアーニーはにこりともせずに淡々と話す。
「もう行け。じきに祈りの時間も終わる。――皆にはその男の事は話していないから、見つかれば撃たれるぞ」
サルーンは頷くと、また渾身の力を振り絞るようにユゥジーンを背に担いだ。ぐったりと力なく背負われるユゥジーンが、このとき小さな声をあげた。
「俺たちを逃がして、君は大丈夫なのか、トリアーニー?」
トリアーニーは、微かに目を剥いた。自分の名前を口にしたユゥジーンに驚いているようだ。
「お前には関係の無いことだ」
彼女はユゥジーンを鋭くねめつけてから顔を背けた。ユゥジーンは高熱で震える唇を、少しだけ上げた。
「ありがとう。君のことは、忘れないよ」
「わ、私は……お前たちなど知らん」
トリアーニーはそれだけ言うと背を向けた。サルーンはユゥジーンを背負ったまま、複雑そうな顔をしている。そのとき、不吉を告げるような低い音がして、空に小さな機影が映った。月の光を浴びて輝くそれは、規則正しい隊列を組みながら森へと近づいてくる。
「あれは?」
皆が空を見上げた。
「軍の戦闘機だ。偵察にしては数が多すぎるな」
「まさか――」
ユゥジーンの言葉を遮って、ザァっという激しい雨が降るような音が降ってきた。
「焼夷弾っ」
サルーンが叫ぶ声をかき消すように、雨音のする爆弾が森に落下した。落ちた地点は、サルーンたちからは離れた所だったが、激しい火柱が上がるのを誰もが見た。すぐに第二、第三の弾頭が投下される。
「まさか、絨毯爆撃をするつもりかっ」
サルーンは空を睨みながら呟いた。その額には、汗の玉が浮いている。
「あの方角は――」
トリアーニーが、弾かれたように爆弾が投下された方角へと走って行った。止める間もなく、彼女は木々の闇に姿を消した。
「サルーン」
サルーンの背中に負われているユゥジーンが、小さな声を上げる。サルーンは頷いてから、彼女の後を追いかけて森の中へと消えて行った。
爆弾の投下されている所に、何があるというのだろうか。麻奈は真っ赤に染まっている空を仰いで彼らの行先を思った。すると、何の前触れもなく麻奈の見上げた空が崩れ始めた。また場面が変わるのだ。
「サルーンさん、この後何が起きるんですか? あの先に何があるんですか?」
麻奈は飛び出して行った過去のサルーンたちの身を案じて、そう訊ねずにはいられなかった。サルーンは唇を一文字に引き結んで沈黙している。額には、小さな汗が浮かんでいた。
「サルーンさん?」
「いや……大丈夫だ。もしかしたら、君はこの先目を閉じていた方がいいかもしれない」
「いいえ。大丈夫です」
サルーンの大きな体が心なしか震えているように見えた。しかし、過去の再現は止められはしない。麻奈はサルーンのじっとりと汗ばんだ背中に手を添えた。
何が起きても、今度は一緒に過去を見届けよう。麻奈は固く唇を噛んで辺りを見た。もう、景色は色と形を成し始めている。もうすぐ始まる。そして、サルーンの記憶の終わりが近いことが麻奈にもわかっていた。