遭遇 2
麻奈を助けた男には、異様に長い腕が六本生えていた。通常の腕がある位置に二本、胸から腹にかけて四本の腕が生えている。その為なのか、男は上半身には何も身に着けていない。
下半身には、たくさんのポケットが付いた迷彩柄のズボンと、黒い重厚なブーツを履いている。
今、男が麻奈を掴んでいるのは通常の腕二本と、胸の上部から生えている二本だった。たくさんのたくましい腕が男の体からにょっきりと生えている様子は例えようも無く不気味だった。おまけに、男の空いている腕は何かを求めるように手を握ったり開いたりしている。
麻奈は男を目にした途端、自分の状況も忘れて震えていた。今すぐこの腕を振り払ってしまいたい衝動に駆られるが、慌てて思い直す。今この手を放したら、麻奈は真っ逆さまに地面に激突してしまう。
お礼を言わなければと思うのに、なかなか口から言葉が出てこない。麻奈は口を開いたまま動けなくなってしまった。
男は麻奈を軽々と引っ張り上げると、自分の目線の高さまで引き上げた。残りの腕がそれぞれ麻奈の腰に当てられる。背中に悪寒と鳥肌が走った。男はそのまま、ひび割れの無い安全な廊下へと移動する。
その様子を少し離れた所で見ていたジュリアンは、麻奈が引き上げられたのを確認して密かに胸を撫で下ろしていた。彼は男の邪魔にならない様にと、一歩後ろへ下がって見ていたのだった。ジュリアンは安堵の息を吐き出しながら、改めて男の腕に抱えられた麻奈を見て彼は思う。
まるで蜘蛛に捕まった綺麗な虫のようだ、と。
長身の男の腕にすっぽりと収まっている麻奈は、いつもよりとても華奢に見えた。恐怖のために、荒い呼吸を繰り返して激しく上下している豊かな胸。艶やかな髪が纏わり付いている汗で湿った首筋。微かに震えながら、何か言葉を発しようと半開きになっている唇。その全てが彼には妙に艶めかしく見えた。
ジュリアンは無意識に乾いた唇を舌で湿らせていた。
麻奈を抱えた男は、充血した眼で腕の中の少女を見つめていた。その口元にはうっすらと微笑みすら浮かべている。
「――助けてくれてありがとうございました」
ようやく麻奈が口に出来た言葉は、ずいぶんと掠れていた。
その途端、男の顔から奇妙な熱がすっと引き、絡めていた視線を不意に外した。そして、男は急にぽいっと麻奈を放り投げた。まるで、興味が無くなったというかのように。
「いだっ」
突然放り出された麻奈は、お尻を強か打ちつけて涙目で叫んだ。ジュリアンが、大丈夫ですか?と駆け寄って来る。
麻奈を投げた男は、今までの様子が嘘のような無表情になり、虚ろな瞳で麻奈を見下ろしていた。否、その瞳はもう麻奈すら見てはいなかった。
「サルーン、助けてくれてありがとうございました。よく私達が来たのが分かりましたねぇ」
サルーンと呼ばれた男は虚ろな瞳のままジュリアンの方を向いたが、直ぐに興味が無さそうにあらぬ方向を向いてしまった。
「音が聞こえた」
答える声には張りが無く、どこか気だるげだった。
「彼がサルーンさん? じゃあ、ジュリアンが紹介したかったのはこの人」
麻奈は隣に立つサルーンを見上げて、その身長の高さに今更ながら驚いた。麻奈は決して背が低くはないのだが、その麻奈が首を垂直にして見上げなければならないほどの長身だ。おまけに、彼は全体的に筋肉質で体格が良いので、なお更大きく見えてしまう。
赤銅色の髪は無造作に伸びていて、顔には無精髭が生えている。くっきりとした二重の大きな赤茶色の目と、きりっとした眉が精悍な印象を与えるが、虚ろな表情と体から生えている六本の腕がその印象を台無しにしていた。
麻奈がしげしげと見つめていると、サルーンと視線がぶつかった。しかし、サルーンの瞳は虚ろなまま動かない。確かに視線は交わっているのに、何の感情も浮かばないその目を見て、麻奈はサルーンの奇異な外見以上に薄ら寒いものを感じた。
「紹介します。こちらがサルーン。彼は内乱中の国から来たそうですよ」
だからこの廊下はぼろぼろなのかと納得する麻奈。ジュリアンは、今度はサルーンに麻奈を紹介し始めた。
「サルーン、こちらは麻奈。ついさっき此処に来たばかりです」
「どうも、よろしく」
紹介されて麻奈は深く頭を下げるが、サルーンは無反応。
「あの、本当にさっきはありがとうございました。サルーンさんがいなかったら、私死んでいたかもしれません」
更に話しかけるが、やはり反応は無い。
嫌われたのだろうか。あからさまに無視をされると気分が沈む。麻奈はこっそりため息を吐きながらサルーンから視線を逸らした。
「では、行きましょうか?」
突然明るい声でジュリアンに肩を叩かれ、麻奈は驚いてジュリアンを見た。
「もういいの?」
「えぇ、今は顔合わせだけにしようと思っていました。サルーンは無口なのでこのまま此処に居ても、ほとんど独り言になってしまいますよ」
「そういう事なら。あの、失礼します」
麻奈はもう一度頭を下げてサルーンに背を向けた。その拍子に麻奈のポケットから何かが落ちて、瓦礫の隙間に入り込んだ。あまり音がしなかったせいだろう。その事に、今は誰も気が付かなかった。
麻奈がジュリアンの後を追って歩き出すと、後ろから声がかかった。
「この場所は危険だ。気をつけろ」
「はい」
麻奈は手を振った。サルーンの視線は相変わらず明後日の方向を向いていたし、六本の腕は不気味に動いていたが、何となく嬉しくなった。どうやら嫌われてはいなかったようだ。
少し心が温まった気がしたのも束の間、またぼろぼろに崩れかかった廊下を前にすると、気持ちは一気に急降下してしまった。
もう廊下の中ほどまで進んだジュリアンに置いていかれないように、麻奈は意を決してそろそろと慎重に進みだした。行きで大分慣れたのか、帰り道の方がスムーズに渡ることが出来た。
崖のような廊下を無事渡りきり、瓦礫が疎らに転がっている道を歩きながら、ふと疑問に思ったことをジュリアンに尋ねてみた。
「サルーンさんは、どうしてあんな姿になったのかな」
ジュリアンは含みのある顔で笑いながら、邪魔な瓦礫を蹴飛ばした。
「さぁ……。今度会った時にサルーンに聞いてみて下さい」
麻奈は横倒しになっている柱の残骸を乗り越えながら、うん。と気の無い返事を返した。顔を上げたその時、ある事に気が付いた。
「またあった」
「何がですか」
麻奈は廊下の壁に備え付けられている鏡を指差す。
「ほら、あれ。此処には大きな鏡が沢山あるね。どの廊下にも必ず一面は掛けてある」
ジュリアンは、あぁ。と呟いて鏡の前で足を止めた。ぼろぼろでひびの入った壁とは相反して、その鏡は一点の曇りもなく夕焼けの紅い光を反射している。
ジュリアンは一時鏡を見ていたが、何気なく足元の瓦礫を拾い上げる。屈んだ拍子に首のネックレスがぶつかり合って、シャラシャラと音を立てた。ジュリアンは手の中の瓦礫を暫くもて遊んでいたが、突然、鏡目掛けてそれを投げつけた。
ガシャーンと音を立てて割れ落ちる鏡を、ジュリアンは複雑な表情で見つめていた。そして、疲れたようにぐるりと首を回すと、いつもの笑顔で麻奈を振り返った。
「行きましょうか」
麻奈は反射的に頷いた。見てはいけないものを見てしまった気分になる。まずい話だったかな? と麻奈はこっそり首を捻った。