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サルーンのトラウマ 6

 サルーンは男を後ろ手に縛り、紐の先端を木にくくりつけてからユゥジーンに向き直った。血で汚れ、憔悴していたサルーンの顔に少し生気が戻ったように見えた。


「ユゥジーン、無事だったか」


 サルーンの瞳がみるみる赤く充血していく。


「お前……この状態を無事って言っちゃうのかよ」


 ユゥジーンは血塗れの顔を歪ませながら笑った。彼の左足は太ももから下が真っ赤に染まっている。先の戦闘で被弾した傷だった。ユゥジーンはびっこを引きながらサルーンに近づいてきた。


「そんなかすり傷、よくあることだ」


 サルーンが自分のシャツを引き裂きながら笑うと、ユゥジーンは不満を洩らして草の上に倒れ込んだ。


「マジかよ――軍人って信じられねぇ。絶対マゾだよこいつら」


 ユゥジーンの投げ出した左足を、サルーンが止血する。太ももの少し上の部分をきつめに縛ると、ユゥジーンがうっとうめき声を上げた。


「ところで、これからどこに行けばいいんだ。本陣の場所お前知ってるの?」


「大体の場所は知っている。だが、もしも移動していたらお手上げだ。通信兵がいないから確認出来ない」


 ユゥジーンはそうか、と呟いて止血してもらったばかりの足に目を向けた。この足でそこまで行けるのかを心配しているのだろうか。彼の額には、脂汗が滲んでいる。相当痛むようだ。


「結構きつい道のりになりそうだ――あいつもいるしな」


 ユゥジーンがちらりと縛られている男を見る。男はサルーンとユゥジーンを真正面から睨みつけていた。心の底から憎んでいると言わんばかりの顔だ。


「殺せ」


 男の口から、甲高い声が漏れた。サルーンとユゥジーンは顔を見合わせた。サルーンが男に近づいて、彼のヘルメットを剥ぎ取った。すると、そこから豊かな黒い髪がさらさらと滑り落ちてきた。


「女……」


 サルーンは目を剥いた。間近で見てみると、彼女はまだ若く、美しい顔立ちをしていた。とりわけ、生命力溢れるような黒い瞳が目を引く。


「今すぐ殺せ。赤い血の奴等の捕虜になるくらいなら、死んだ方がましだ」


 彼女は悔しそうに青い唇を歪める。


「悪いが望み通りには出来ない。お前は貴重な情報源だ」


「私は何も喋らないぞ。お前たちのような卑劣な者に、我々のことを一言だって洩らすものかっ」


 文字どおり、女は噛みつくような勢いで一息に言った。


「拷問にでも何でもかけるといい――私は何をされても絶対に口を割らない」


 一度もサルーンから逸らされる事のない女の目が、強い意志を讃えてキラキラと光る。


「悪いが、それを判断するのは俺じゃあない」


 サルーンはそんな視線に堪えかねたように、自分の手に握られている布に視線を落とした。それはユゥジーンの足を止血した時に使ったサルーンのシャツの切れ端だった。


「自害されても厄介だ」


 言い訳をするようにサルーンは布を女の口に噛ませてから、頭の後ろで固く結んだ。妙齢の女性に酷いことをしているようで気が咎めるのだろう。


「その心配はない。彼女は絶対に自害はしないよ」


 今までじっと二人を見ていたユゥジーンが口を挟んだ。


「というより、出来ないのさ。彼らの宗教では自分で命を絶つことを禁じているんだ」


 ユゥジーンは女から視線を外さない。戦場に来てまで彼が求めた青の民族が間近にいるのだ。ユゥジーンのいつものにやけた顔は真剣なものに変わっていた。


「彼らは自分の肉体を神から借り受けたものだと教えられている。自ら命を絶つと、借り物の肉体を神に返すことが出来なくなって、永遠に地獄をさ迷わなくてはならないんだよ」


「さすがに詳しいな」


「まぁね」


 ユゥジーンは唇の端を上げて居心地悪そうに笑った。サルーンに今までとは違う一面を披露してしまったことが恥ずかしいのかもしれない。


「――お前もそう思ってるのか」


 サルーンは少し遠い目つきで幼馴染みを見つめた。ユゥジーンは寂しそうに肩をすくめる。束の間、二人の間にざらりとした空気が流れた。ユゥジーンはそんな空気を破るように、足の傷を庇いながらよっこらせと立ち上がった。


「じゃあ、そろそろ行こうか。土産を持ってさ」


「あぁ、そうだな」


 サルーンは木に結んでいた紐をほどいて女を先に歩かせた。女は不快感を一杯に表した顔をしたが、大人しく歩き出す。サルーンは彼女の持っていた銃を拾い上げた。寂しそうだったサルーンの手に、しっくりと馴染むように銃が握られる。


「まだ彼女の仲間がいるかもしれない。気を抜くな」


 ユゥジーンは固い表情で頷く。サルーンは上官の顔でそれを見ていた。厳しいようだが、捕虜を連れた状態でユゥジーンを背負うことは今のサルーンには無理なようだ。


 歩きだしたばかりだが、サルーンは空を見上げてため息の代わりに深呼吸をした。空はいつの間にか暗くなっている。道のりは長い。


「ところでさ、お前初めから知っていたのか」


 ユゥジーンが脂汗をかきながら、小声でサルーンに話しかけた。痛みを紛らわそうとしているのだろうかと考えて、サルーンは何のことだ。と返事を返した。


「俺たちのキャンプを囮に使ったこと」


 サルーンは女に気取られないように、静かに息を飲んだ。


「なんでそのことを隠してた。俺たち兵卒は替えのきく使い捨てか」


「違う――」


「違わないだろう。この森全てが言わば前線なんだ、あんな所に少人数のキャンプを張ること自体おかしな話なんだよ。襲ってくれと言わんばかりじゃないか」


ユゥジーンは周囲の警戒を怠ることなく、語尾を荒げた。


「どうして作戦内容を黙ってたんだ。それだけで心構えも大分違ったはずだ。これほど大きな被害も出なかったかもしれないっ」


「……上の指示だ」


 ユゥジーンはぎりぎりと唇を噛みしめた。


「安全圏から高みの見物をしているような奴等が、額を突き合わせてゲームの駒を動かすように俺たちを動かしたってわけか」


「――すまない」


 耐えかねたサルーンは小さな声で呟いた。しかし、彼が本当に謝りたい相手は、もう何の言葉を聞くことも出来ない。ユゥジーンがサルーンの肩に手を置く。


「ごめん、俺も少し言い過ぎた。サルーンが悪いわけじゃないのは分かっているよ。お前だって相当悩んだんだろう。だから俺に雨の話をしたんだな」


 サルーンはひたすら前だけを見ながら頷いた。


「軍令には背くことは出来ない――だが、お前だけは絶対に助けたかったんだ」


「あぁ、お前のお陰で俺は助かった。それに、お前に夜襲を仄めかされた後、俺は他の連中にもそれを教えて回ったんだ。きっとうまく逃げ延びた奴もいるはずだ」


 ユゥジーンの精一杯の慰めは、罪悪感に沈んだサルーンの顔を上げさせた。再び目を開いたサルーンの顔は何かを吹っ切ったような強い表情をしていた。ユゥジーンはもう一度サルーンの肩を叩くと、足を引きずりながら歩き出した。


「とにかく、まず俺たちも本陣に合流することが――」


 先決だ。という言葉を遮って、サルーンが突然身を伏せた。紐が引かれた女は堪らずそれに引きずられる形で地面に座り込んだ。ユゥジーンも慌てて低い体勢を取る。


 目の前の木の間から顔を少しだけ出し、サルーンは銃を構える。彼の後ろで、ユゥジーンはそっと銃の安全装置を解除した。怪我をした足では満足に移動することは出来ない。ユゥジーンはサルーンを援護するように、木の陰から銃口を向けた。






 前方にちらちらと動く影を見付けて、二人の緊張は一気に高まった。敵なのか味方なのか、この距離からではまだ判別は出来ない。


 女は焦る様子も見せずに、実に大人しくその場に腰を下ろしたままだった。ユゥジーンがそれを不振に思ったとき、女の視線がちらりと横に走った。


 はっと気が付いて、振り返ったユゥジーンの前には、熊のような大きな影が立ち塞がっていた。ユゥジーンが声を出そうとした瞬間、腹に強烈な衝撃が走った。ユゥジーンは、サルーンに警告することも出来ずに、意識が暗く遠退いていくのを感じていた。


 サルーンは後ろで何かが倒れる音を聞いて、すぐさま振り向いて息を飲んだ。彼のすぐ鼻の先には、銃口が突きつけられている。ユゥジーンを地面に転がした男が低く唸りながら銃の先端をぎらつかせる。太い筒。散弾銃だ。広範囲に飛び散る銃弾を、こんなに近い距離で避けることは出来ない。男の低い唸り声は、彼の荒い息遣いと相まって、獣じみた印象をサルーンに与えた。


「武器を捨てろ」


 片手に自動小銃を持った男が、新たに横手から現れた。細く鋭い目をした、細面の男だった。二人とも唇が青い。既に囲まれていたのだと知って、サルーンは悔しそうに顔を歪めた。地面に昏倒しているユゥジーンの姿を確認してから、サルーンは持っていた銃を放り投げた。小銃の男は満足そうに頷いてから、女に声をかけた。


「トリアーニー大丈夫か?」


 男はナイフを取り出して女の手首を縛っていた紐を切り捨てた。トリアーニーと呼ばれた女は、自由になった手で猿ぐつわをむりしり取ると、大きく一度息を吸った。


「ありがとうジャコブ。助かった」


 彼女はサルーンの持っていた銃を拾い上げると、馴れた手付きで肩に背負った。これはもともと彼女の銃なのだ。


「これで立場は逆転ね」


 腰に手を当てて勝ち誇ったように笑う女を、サルーンは黙って見つめていた。サルーンはこのとき、両腕を頭の後ろで組んで手向かう意思がないことを示していたが、さりげなく逃走する方法を探していた。しかしこの三人には隙が無く、意識のないユゥジーンを担いで逃げるのはほとんど不可能だった。


 細い目をした小銃の男が、それじゃあ。と改めてサルーンに銃口を向ける。


「会ったばかりだが、さよならだ」


 低く唸り声をあげていた大柄の男もユゥジーンに照準をぴたりと合わせた。


「待って」


 トリアーニーが両手を上げて二人の間に割って入った。


「まだ殺しては駄目。彼らは利用出来る。赤の民族に取引を持ちかけるチャンスだわ」


 小銃の男の細い目が更に細まった。


「我らの目的は、赤い血の奴等をこの聖地から未来永劫追放することだ。……こんな一介の兵士の命でそれが出来るとはとても思えないな」


「今の状態では、確かにそれは難しい。でもメディアを使えば、もしかしたら可能かもしれない」


 サルーンたちを生かすことにあまり乗り気ではない仲間たちに、トリアーニーは更に続けた。


「それにその男、我々の思想や宗教的なしきたりのことを良く知っていた。こいつがどの程度我々の事を知っているのか把握したい」


 そう告げた後、トリアーニーは何とも冷たい瞳でユゥジーンを見下ろした。


「もしも聖地の本当の意味を知っているなら――」


 つい先刻まで熱く燃えたぎる目をしていたトリアーニーの瞳は、まるで別人のように冷たくさえざえと輝いた。ジャコブと呼ばれた男は、ねめつけるように倒れているユゥジーンの後頭部を見た。その無機質な視線からは、なんの感状も読み取れない。単純に、利害を計っているのかもしれない。


 ジャコブはほんの一瞬顔を嫌そうに歪めたが、すぐに表情を消して、発案者のトリアーニーに言った。


「お前が気になるのなら、連れて行こう。メディアの件は――検討しておく」


 ジャコブは熊のような大男に合図を贈ると、大男は心得たとばかりにユゥジーンを肩に背負った。細身とはいえ、サルーンと同じぐらいの身長をしたユゥジーンを、いかにも軽々と持ち上げた光景はかなり不気味だった。さきほどから一言も言葉を発しないのも、彼を薄気味悪く見せている原因の一つだろう。


「仕事を増やして悪いね。ウォレス」


 トリアーニーがすまなそうに男の腕を叩いた。ウォレスと呼ばれた男は、ふるふると首を振ってトリアーニーに答える。親しい様子の彼らを、サルーンは焦りと不安な思いで見ていた。このままでは、本当に捕虜になってしまう。


「これ以上荷物は増やしたくないんでね。お前には歩いてもらうことにしよう」


 ジャコブはサルーンの腰にしまわれているコンバットナイフを鞘ごと抜き取った。これで本当にサルーンは丸腰になってしまった。


「良いナイフだな」


 ジャコブはサルーンのナイフを弄びながらサルーンの腹にぴたりと当てる。


「なぁ、考えたら捕虜は二人もいらないだろう」


 ジャコブはトリアーニーを振り返る。サルーンの腹に分厚いコンバットナイフの先端がちくりと当たる。


「駄目よ。二人いなくちゃ交渉にならない。我々が本気であるのを解らせるには二人は絶対に必要だわ」


「一人は見せしめか――分かったよ」


 ジャコブが頷くのを見届けてから、トリアーニーはサルーンの両手を紐で拘束した。つい先ほどとは逆の立場で繰り返される作業を思って、サルーンの口許に皮肉な笑みが浮かんだ。今ならさっきのトリアーニーの気持ちがよく分かるのだろう。


「さぁ、月が昇りきる前に戻ろうか。今夜は満月だ」


 ジャコブの言葉に二人は顔を見合わせ歩き出した。サルーンも仕方なしに一行について行く。その足取りは重く、彼の背中は一回り小さくなったように見えた。


 遠ざかるサルーンたちの背中を見ながら、麻奈は握り締めていた拳をそっとほどいた。手のひらが湿っていて気持ちが悪かった。

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