サルーンのトラウマ 5
残酷な表現があります
過去のサルーンとユゥジーンがキャンプに戻ると、一人の青年が足早に近寄って来た。きびきびとした動きで敬礼をすると、幾分上擦った声で申し上げますと声を張り上げる。
「軍曹殿、キリアス曹長殿がお呼びであります。至急幕舎までお越し下さい」
青年は一息に喋ると、大きく肩で息を吸い込んだ。緊張しているのだろう。青年は直立不動のまま、上官の返事を待っている。
「分かった。下がっていい」
サルーンの声に、青年は弾かれたように最敬礼をすると、声高らかに失礼しますと告げて駆け出した。 ユゥジーンが隣でにやにや笑っている。
「鬼軍曹に話しかけるのも楽じゃないなぁ、兵卒は」
「ユゥジーン、ここでは言葉に気を付けろ。幼馴染みとはいえ、今は俺の方が上官だ」
ユゥジーンは切れ長の瞳を細めてから、姿勢を真っ直ぐに正した。
「失礼致しました、軍曹殿」
「やれば出来るじゃないか。では今から見回りに戻れ」
「了解致しました。その前に、一つ質問をよろしいですか」
「許可する」
「ありがとうございます。このキャンプには将官殿や、佐官殿が居りません。なぜですか」
サルーンの眉間がぴくりと動く。ユゥジーンはそんなサルーンの動作を、一つも漏らすまいと見つめていた。まるでサルーンの真意を図っているようだ。サルーンは突然空を見上げた。
「今夜あたり、一雨降りそうだな」
ユゥジーンもつられて空を見たが、雲一つない乾いた空が広がっている。ここは砂漠のど真ん中なのだ。雨など降るわけもない。ユゥジーンは疑問を口にしかけたが、はっとした。
「まさか……そういうことかよっ」
口調が乱れたことにも気が付かずに、ユゥジーンは踵を返すと慌たように駆けだしていた。後に残されたサルーンは、苦いものでも口に含んだような渋い顔をして曹長の幕舎に向かって歩き出した。
少し離れた所で、麻奈とサルーンは過去のやり取りを見ていた。 彼らの会話の内容がさっぱり分からない麻奈は首を傾げる。
「どういうことですか。雨が降ると何かまずいことでもあるんですか」
「いや、そうじゃない。こんなところで雨は降るはずがないんだ」
「じゃあ、どうしてサルーンさんはあんなことを」
「あれは……あいつにだけは、今夜の夜襲に備えろと伝えたかったんだ」
「夜襲」
馴染みのない言葉を、麻奈は口の中で繰り返してみた。しかし、実感はあまり沸いてはこない。
「そう、夜襲のはずだったんだ」
サルーンが吐き捨てるようにそう言った途端、辺りの景色がぐにゃりと崩れだした。ゆらゆらと不自然に歪みながら、ゆっくりと流れ去っていく景色。麻奈はサルーンの側に身を寄せたおそらく、次の場面で本格的な戦闘が始まる予感がする。
麻奈は怯えながらサルーンにしがみついていた。相変わらず世界は形を変え続けて、まだその形を定められずにいる。
麻奈は一度目を閉じた。このまま次の場面になど変わらなければいいのにと思う。しかし、目を開けてみると辺りの景色は徐々に落ち着きを取り戻して、何かの形を成そうとしていた。
紅い。いつの間にか、そこは夕暮れの森になっていた。昼間の森の木陰は暗がりに姿を変え、雲ひとつなかった青い空は茜色の雲と藍色のグラデーションに変わっていた。
空を仰いだまま、麻奈はその景色がとても綺麗だと思った。昼間の薄暗い森とはまた違う、美しくも静謐な夕暮れの森。ここが聖なる場所と言われるのも頷けるような気がする。
しかし、この時遠くから聞こえてきたのは、パンパンと何かが弾けるような音だった。その途端、サルーンは慌てて麻奈の頭を掴んで地面に伏せた。
容赦のない力に麻奈は驚いたが、真剣な表情で音のする方に顔を向けるサルーンを見て、麻奈の背筋が凍りついた。
恐らく、この音の正体は銃声だ。爆竹を鳴らすような軽い音が森の四方から聞こえてくる。これは、人の命を奪っている音。
麻奈は頭を低くして地面にうずくまる。自分の呼吸と。サルーンの息遣いの音だけが聞こえる。サルーンの腕が、麻奈を守るように背中に巻きついた。
風を切る音がして、何かが二人の頭上を掠めて飛んでいった。麻奈は震えた。目の前の惨事から目を背けたくて、ひたすら地面に目を向けた。自分の早い呼吸とサルーンの息遣いの音に混じって、叫び声が聞こえる。それは沢山の声が合わさって、祭りの時の興奮した喧騒に似ているような気がした。
密着したサルーンの体から緊張が伝わってくる。彼もまた、酷く緊張しているようだ。
「ここから離れるぞ。やはり君には危険すぎる」
サルーンがそっと囁いた。とても優しい、ひっそりとした声。しかし、麻奈はその声に潜む小さな震えに気が付いた。
辛い思い出を見つめ続けるのは、勇気と強い心が必要だ。サルーンは辛すぎる過去に背を向けたいのではないだろうか。しかし、それも仕方がないと麻奈は密かに思った。若い兵卒たちが倒れていく光景は、本当の地獄のような光景だった。
ところが、サルーンはこの後麻奈に力強く告げた。
「今から君を森の外まで送り届ける。こんな所で女の子を一人にするのは心配だが、ここよりはましだろう。そこで俺が戻るまで待っていてくれ」
「でもサルーンさんは?」
「俺の過去だ。ちゃんと見届けてくるよ」
「一人でなんて、行かせられません」
麻奈がそう言った途端近くの茂みが揺れて、一人の男が飛び出してきた。麻奈はその男を見て、危うく声をあげそうになってしまった。
深い緑色の上下の繋ぎに、迷彩柄のベストを着ている。ヘルメットや服のあちこちに草が張り付けてあるのは、カムフラージュのためだろう。汚れて所々擦り切れてはいるが、間違いなく戦闘服だ。それは良く見ると、サルーン側の服装とは少し違うようだ。
男は砂漠の民らしく、ヘルメットから覗く顔は濃いオリーブ色の肌をしていた。しかし、一番麻奈の目を引いたのは男の青い色をした唇だっだ。
「本当に、青い」
麻奈はこの時、昔受けた生物の授業を思い出した。横道に逸れるのが得意だったその教師は、青い血には銅が流れているのだと教えてくれた。最も、地球上で青い血を持つのは昆虫だけだとその先生は言っていたけれど。
飛び出してきた男は、グリップが二つ付いた細身の銃を構えながら視線を周囲に走らせていた。一人で警戒しながら歩いている所を見ると、本当に少人数での襲撃だったらしい。
男は木の影に身を隠しながらゆっくりと移動していた。辺りを抜け目なく探っている様子は、野生動物のようで無駄がない。
しかし、男は突然小さく息を飲んでその場に凍りついた。男の喉元には背後から腕が回されて、いつの間にか分厚いナイフが突きつけられている。
「動くな」
鋭い声が低く警告する。麻奈はその声に聞き覚えがあった。男の背後から姿を現したのは、過去のサルーンだった。
彼はあっという間に男の銃を抑えると、ナイフを意識させるように男の喉に切っ先をあてがった。男は観念したように大人しく銃を離す。
「両手を頭の後ろで組め。妙な素振りはするな」
男は言われるままに手を上げかけたが、一瞬の隙をついてサルーンに肘鉄を食らわせ素早く身を引き剥がした。しなやかな動きで男はサルーンの顔を目掛けて回し蹴りを放つ。空気を裂く音が今にも聞こえてきそうな鋭い蹴りを、サルーンは片腕だけで防いでみせた。
男は僅かに目を見開いて驚きの表情を見せたが、直ぐに後方に跳んで距離を取った。その素早い動きは、猫科の動物を連想させる。まさに、毛を逆立てて威嚇する山猫のようだ。
微妙な距離を保って睨みあう二人に、突然気の抜けるような場違いな声がかけられた。
「はいはい、ストップだよ」
木立の間から、ユゥジーンが姿を現した。彼の手にしている銃の口は、男にぴたりと向けられている。
「そこを動くなよ。そうそう、そのままね。両手を見えるように上げな」
ユゥジーンはサルーンに紐を放り投げた。何も言わなくても、サルーンは心得たように男の両手を紐で縛る。男は悔しそうな顔で唇を噛み締めたが、ユゥジーンの握る銃を前にしては暴れるのを諦めたらしい。
しかし、その瞳はまだ完全に無抵抗に甘んじる気はないことを物語っていた。