サルーンのトラウマ 3
残酷な表現を含みます。
「ここは、一体どこですか?」
「ここは、聖地の周りにある砂漠だ」
サルーンはザクザクと砂の中に足を突っ込みながら歩いてきた。
「聖地?」
聞きなれない言葉だ。サルーンは頷いてから、こんもりと盛り上がる森を示した。
「聖地は、文字通り聖なる場所のことだ。ほとんど草木の育たないこの地で、唯一の緑があるところだ」
麻奈は空を仰いだ。暑すぎる気候と乾いた空。確かに、これでは植物は育たないだろう。しかし、目の前の森はそんな場所でも生き生きとその存在を誇示している。まさに、奇跡のような場所だ。オアシスがあるのかもしれない。
「この森が、聖地なんですね」
「いや。森の奥深くに、遠い昔神が降臨したといわれる場所がある。そこが本当の聖地なんだ。森は、その時に出来たという言い伝えが残っている」
「神、ですか」
難しい話題になったと思った。麻奈は神を特に信じていないわけではないのだが、熱心に信仰しているわけでもなかった。せいぜいお正月に初詣に行くぐらいだ。
「俺の国では、聖地には誰も足を踏み入れてはいけないと教えられる。あの森は神が作り出したものだ。つまり、あそこは神のものなんで、だれも所有することはゆるされない。ところが、青い血の一族が聖地を占拠してしまったんだ」
「さっき聞いた時にも不思議に思ったんですが、青い血の民族ってどういう人たちなんですか?」
サルーンは妙な顔をした。困っているような、それでいて呆れているようなそんな顔つきだ。朝の挨拶に、何と言ったらいいのか分かりませんと言えば、きっと同じような顔を見ることが出来るだろう。
麻奈はそのサルーンの顔付きで分かった。サルーンの国では赤い血の民族と青い血の民族、その二種類の人達がいるのが常識なのだ。一見同じように見えても、麻奈とサルーンでは文字通り住んでいる世界が違うのだ。
サルーンも何か思うところがあったらしいが、眉間に僅かに皺を寄せるだけに留めて、麻奈の疑問に答えてくれた。
「青い血の民族というのは、もっと南に住んでいる者たちのことだ。彼らは独自の文化を持っていて、あまり我々と交わらずに暮らしている。向こうの自治は向こうに任せてあるんだ。同じ一つの国に住んではいるが、ほとんど彼らは異国の人々さ。その昔、この辺りの先住民である青い血の民族を、我々の国が統合したそうだが、詳しいことは歴史の授業をさぼっていたんで忘れてしまったよ」
サルーンは肩を竦めてみせる。きっと麻奈が理解しやすいようにと、大まかなことだけを話してくれたのだろう。お陰でとても分かりやすかった。
「さっきの爆発、青い血の民族なんですね?」
麻奈は唇を噛み締めた。悲惨な現場を思い出すと、麻奈の体に震えが起こる。
「その人たちが聖地を占領なんてしなかったら、戦争は起こらなかったんですよね? あんなにたくさんの人を殺してまで聖地を自分たちの物にしようとしてるなんて、許せません」
麻奈はやりきれない思いを、ついつい吐き出してしまった。サルーンを見上げると、彼は眉を下げて少し困った顔で笑った。
「君が熱くなることはない。それに――戦争は片方だけが悪い、なんていうことはないんだよ」
サルーンは、廃校で見せたような遠くを見つめる目をして、ぼそりと付け足した。
「どちらも人殺であることに変わりはないんだ」
その暗い声に、麻奈はどきりとした。サルーンもきっと人を殺しているのだろう。
「さて、君の話では俺の経験した出来事が再現されるんだったな。だったら、いっそのこと俺たちの方からそれを見に行くか」
サルーンは静かに森を見つめた。あの先に聖地が、そして戦場があるのだろう。
「はい。ちょっと怖いけど、行きましょう」
麻奈は少し不安に思ったが、ここまできたら、腹を括るしかない。それに、本当に辛いのはサルーンなのだ。いつもはすぐに始まる過去の再現も、今はどうやら始まる気配はない。二人は細かな砂に足を捕らわれながら歩き出した。
歩き出してすぐ、麻奈は自分の体力のなさにうんざりした。渇いた熱風に晒されて、麻奈のなけなしの体力はたちまち奪われてしまった。吹き出した汗はすぐに渇いて、いつの間にか塩の結晶になっていた。すぐ間近に見えていた森も、歩いても歩いても一向に到着する気配はない。
麻奈は眩しい太陽から目を逸らし、下ばかり見て歩いた。それでも暑さと照り返しは容赦なく襲ってくる。ビシャードの国とはまた違う暑さを体験して、麻奈の足取りは重く頼りなくなっていた。
サルーンが不意に麻奈の二の腕を掴んだ。びっくりして顔をあげると、サルーンが厳い顔で前方の砂漠を睨んでいた。そこには、点々と死体が横たわっていた。下半身が吹き飛んでいる。
「地雷原だ。ここは迂回して進もう」
麻奈は返事も出来ずに、うだるような暑さと死体に当てられ、ただ黙ってサルーンの後をついて行った。
こんもりとした砂丘の間を抜けると、急に開けた場所に出た。そこに突然現れた鬱蒼と繁る森はとても不思議な光景だった。麻奈は精も根も尽き果てたような抜け殻になって、ぼんやりと森を見た。
森に近づくにつれて、地面がだんだんと変わっていった。さらさらとした砂が、しっとりと水分を含んだ土に変わっている。からからに乾いていた熱風も、爽やかな緑の匂いが混ざる。心なしか気温まで低く感じるような気がした。灼熱の砂漠を歩いていただけに、突然の緑は確かに神の御業かと思えるほど神秘的に見えた。
「此処が、聖地の森……」
麻奈は、圧倒的な生命力を感じる森を見上げた。今の森からは何の音も聞こえない。しんと静まり返っていて、本当にここが戦場なのかと疑問に思うほどだった。
過去の人たちに二人の姿は見えないはずだと分かっていても、麻奈は鳥肌が立つのを抑えられなかった。この先で殺し合いをしている。
「大丈夫か」
余程酷い顔をしていたのか、サルーンが声をかけてきた。流石に大丈夫とは言えなかったが、麻奈は何とか頷いた。
「俺が君の盾になる。常に俺の後ろにいなさい」
サルーンが麻奈の頭をくしゃりと乱した。彼はこうして時々麻奈の頭を撫でる。しかし、麻奈はそれが嫌いではなかった。他の人がしたらなば子供扱いされているようで気に障るが、彼がするとごく自然に甘えられるような気がする。
それは彼が大人で、孤独を嫌っているからだろうか。サルーンは必要以上に麻奈を守ろうとする。それが麻奈には申し訳ない反面、心地良くてずるずる甘えてしまうのだ。ここに来てから、誰かに寄りかからないと安心出来なくなっている自分がいるのを自覚して、麻奈は少し不安になった。
麻奈はサルーンの後ろにぴたりと貼り付くようにして森に足を踏み入れた。広い背中は麻奈をすっぽりと覆い、危険を麻奈から遠ざけようとしてくれている。
森の木々は、枝葉を大きく広げて空を遮っていた。そのせいで辺りは薄暗かったが、強い日差しが弱まって、暑さに喘いでいた砂漠と違ってとても心地が良かった。
サルーンは森の地理が分かっているのか、道なき道を掻き分けて進む。麻奈は今までの光景を見てきて、どうしてもサルーンに聞きてみたいことがあった。
「どうして戦争は始まったんですか」
サルーンの歩みが心なしか遅くなった。
「君は、答えづらい質問をするなぁ」
振り返った彼の顔には何とも言えない苦い笑いが貼り付いていた。
「ここに来る前にも少し話したかもしれないが、一番の原因は宗教の違いから摩擦が起きたことだと思う。彼らとは元々民族が違うのだから考え方が違うのは仕方がないのかもしれない」
サルーンはまた歩き出した。隻腕では、足場の悪い森の中でバランスを取りづらそうに、少しふらついている。
「彼らもここを聖地と呼んで神聖視しているんだ。ただ、我々とはその見解が違う。我々はここに立ち入る事を禁じた。だが、彼らは此処を管理しようとした。定期的に人が出入りしていて、青い血の民族以外の者の侵入を拒んだ」
麻奈はふらつくサルーンの左側に回った。肘から先がない彼の腕を持ち上げてその腕を自分の肩にかける。麻奈に支えられて、サルーンは目だけで頷いてみせた。礼の代わりだろう。
「聖地としての神聖な価値ももちろんだが、オアシスとしてもここは貴重な場所だからな。彼らは砂漠に暮らす民だ。今はライフラインが確保されているが、昔は水や緑はそれは貴重なものだったことだろう」
麻奈は成るほどと頷いた。この争いは宗教戦争でもあり、民族紛争でもあるようだ。根の深い問題なのだろうなと思いながら、麻奈は額の汗を片手で拭った。 やっと吹き出るようになった汗が、二人の体をじっとりと濡らしていった。