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サルーンのトラウマ 1

 麻奈は無意識に閉じていた目をゆっくりと開いた。鏡の中は、以前入り込んだときと同じように薄暗い。サルーンは抱き上げていた麻奈を落とすように下ろしてから、乱れていた息を整えた。


「此処が鏡の中か?」


「そうだと思います――前もこんな感じだったので間違いないです」


 麻奈はサルーンを振り仰いで、息を飲んだ。そこには右腕の無いサルーンが立っていた。  


 彼の肘の少し下から、本来在るべき腕が消えている。そこは既に包帯が巻かれていたが、今までのサルーンの姿に慣れてしまっていただけに、麻奈は驚きで声も出ない。


 麻奈はサルーンから視線を逸らした。腕を失ったサルーンに、何をどう言っていいのか分からないのだ。この姿を見てしまった後に、元に戻れて良かったですね。などとはとても言えない。


 ただ、一つだけ麻奈には納得出来た事がある。 六本腕のサルーンを見る度に、なぜ彼がそんな姿を望んだのか気になっていた。しかし、今ならそれが分かる。片腕の人間が一番望む物は、やはり失った腕だろう。


「血が出ている。大丈夫か?」


 サルーンは麻奈の指を示す。ユエに噛まれた指からは、まだじわりと血が流れ出していた。綺麗な切り傷では無いため、なかなか傷が塞がらないのかもしれない。麻奈は痛みが遅れてやってきた指を彼から隠しながら、眉を寄せた。


「私には、サルーンさんの傷の方がよっぽど心配です」


「これは、もう手当てがされてから時間も大分経っている。大丈夫だ」


 サルーンは何とも言えない顔をして左腕を軽く叩いた。


「ジュリアンたちは大丈夫でしょうか?」


「ユエの八つ当たりぐらいは受けているかもしれないが――。なに、恐らく心配は要らない。ユエも馬鹿ではない。もしも、ジュリアンたちに何かあったら、君が黙ってはいないだろう?」


「勿論です」


「ユエは君に執心している。ジュリアンたちを殺してしまったら、君が自棄になって自殺を図るかもしれないだろう? それだけは彼も避けたいと思うはずだ。だから、そう心配する事はないのさ」


「そうでしょうか?」


 麻奈は少し不安だった。ユエが激情に任せて暴力を振るう可能性だって充分有り得るのだ。


 それにしても、と麻奈は首を傾げた。今のサルーンはいつに無く饒舌だ。いつもの途切れ途切れの単語だけの会話ではなく、真っ直ぐに麻奈を見下ろしてくる視線も、普段の彼らしくない。


 麻奈はそう考えて、密かに首を振った。恐らく、これが本当のサルーンなのだ。今までの彼は、あの場所によって性格さえも歪められていたのだろう。意思の光る精悍な顔つきのサルーンは、これまでとはまるで別人のように見える。


「それにしても、君も無茶をする人だ」


 呆れ顔のサルーンに、麻奈は困った顔を返した。そう言われても、あの時はああ言うしかないと思ったのだ。今考えると、確かにかなり無茶苦茶な提案だったかもしれない。ユエが約束を守る保証は何もなかったのだ。


「私もそう思います。でも、さっきは焦っていたんです。とにかく必死だったので」


 サルーンが柔らかく微笑んだ。それは、いつかサルーンの部屋で見たそれよりも、温かな顔だった。


「そうだな。君は優しい人だからな」


 サルーンが麻奈の頭をくしゃりとかき混ぜた。サルーンの温かい手の温もりは今までと変わらない。麻奈は心地よい手に身を任せた。優しいその手つきは、まるでサルーンに誉められているようだ。


「俺は、君に謝らなければいけない事があったんだ」


 顔を上げると、サルーンが済まなそう表情をしていた。


「ぼんやりとしか覚えていないが、君に暴力を奮ってしまった――済まなかった。許して欲しい」


 大きな体を折り曲げて、サルーンは麻奈に深く頭を下げる。


 以前、麻奈が彼の部屋に押し掛けたときに、サルーンに殴り飛ばされた事を言っているのだろう。確かに酷い怪我を負わされたが、麻奈にはサルーンを責める気持ちはない。


 あの時のサルーンは、正気ではなかったのだ。もっと言えば、麻奈のことすら目に入っていなかったのだろう。


「いいえ、気にしないで下さい。」


 彼に頭を上げるように言うと、サルーンは辛そうな顔をしたまま麻奈の頭に手を乗せた。幼い子供にするように、サルーンはよしよしと優しく頭を撫でてくれる。子供のように扱われているのだが、麻奈は彼にそうされるのは、なぜか不思議と違和感を感じなかった。


 思えば、サルーンには拒絶の言葉ばかりかけられてきたように思う。しかし、今は彼と普通に会話をしている。麻奈はようやく、サルーンの懐に入れた気がした。


「ところで、これから何が起こるのかを知っておきたい。君はそれを知っているかい?」


「それは――」


 麻奈はサルーンに話そうか、一瞬迷った。ビシャードの時と全く同じ展開になるのならば、この後サルーンの過去がリアルに再現されるはずだ。それも、トラウマを抉られるような辛い過去ばかりを。


 彼にそれを告げるのは酷だと思った。今思えば、ビシャードも目の前で再現される自分の過去を見るのは辛そうだった。


 しかし、それでも告げなければならない。恐らく時間はそう残されていないだろう。もしかすると、今すぐにでもそれは始まってしまうかもしれない。麻奈は、精一杯言葉を選んで口を開いた。


「この後に、サルーンさんの過去に起きた事を見ることになると思います。もしかしたら、それは辛いものになるかもしれません。ビシャード陛下のときは、そうでした」


 ここで麻奈はちらりとサルーンを見上げた。彼は表情を変えずに頷く。先を続けろという事らしい。


「以前はビシャード陛下とはぐれてしまったので、それからの事は実は私も良く分からないんです。それで、その――お邪魔なようでしたら、私は少し離れた所にいますね。このままふたりで固まっていたら、私までサルーンさんの過去を見てしまうことに……」


 麻奈の声は段々と小さくなっていった。他人の一番触れられたくない過去を見てしまうのは、麻奈にとっても辛い事だ。おまけに、ビシャードの時には彼の過去に怯えてしまい、結果的に更にビシャードを追い詰めてしまった。もうあんな失敗は繰り返したくない。


 サルーンは僅かに眉を寄せたが、特に麻奈の話に不快な様子を示すことなく静かに一つ頷いた。


「ビシャードの時には、君はずっと彼の側にいたのかい?」


「はい」


「じゃあ、俺も側にいてもらうことにしよう。勿論、君さえ良ければだけど」


「でも」


「いいんだ。それに、もしもそのままはぐれて、片方だけ此処に取り残されてしまうとも限らないだろう? ふたり一緒に居たほうが安全だ」


 麻奈は申し訳なくなった。二人で一緒に居れば、必然的に麻奈にもサルーンの過去が見えてしまう。それは恐らくサルーンにとって辛い事に違いない。しかし、彼はそれよりも麻奈の安全を取ってくれたのだ。麻奈にもそれが分かるので、申し訳なさ半分、感謝半分で頭を下げた。


「ありがとうございます。じゃあ、せめて後ろの方にいますね」


 サルーンは目元を少し綻ばせると、のんびり歩き出した。その後ろを、麻奈はぴったりと付いて歩く。サルーンが不意に振り返った。


「まるで、親鳥にでもなった気分だ」


「え?」


「そんなに恐縮しなくても大丈夫だから、隣を歩きなさい」


 呆れたように自分の隣を示すサルーンの顔が、少し綻んでいる。


「じゃあ。失礼します」


「手でも握ってあげようか?」


 麻奈は目を見開いてサルーンを見上げた。


「冗談だ」


 そう答える彼の顔は、にやりと笑っているように見えた。

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