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鏡へ(サルーンの場合) 3

暴力的な表現があります。

 精一杯伸ばした両腕は、緊張と恐怖でふるふると震えていた。麻奈は銃口をユエに向けたまま、汗ばむ指を引き金にそっと当てる。安全装置はすでに解除していた。


「お願いだから、もうやめて」


 ユエに銃口を向けながら、麻奈はもう一度はっきりと口にした。しかし確かな口調とは裏腹に、かたかたと震えている両腕は、意識して力を込めていなければ、今にも銃を取り落としてしまいそうなほど緊張していた。

 どうかユエが拳銃を知っていますように。半ば祈るようにして、麻奈は持っている凶器をユエに向け続ける。

 ユエの瞳が再び麻奈を捉えた。ほとんど条件反射で麻奈は後退った。


「何だそれは」


 ユエの言葉に麻奈は唇を噛み締めた。彼はこれが何なのか分からないのだ。それはつまり、麻奈は威嚇するために撃たなければならないという事だ。

 麻奈は構えていた両腕を僅かに下に逸らした。上手く撃てるだろうか。汗が手のひらにじわりと滲んでくる。浅く繰り返していた呼吸を一瞬止めて、麻奈は引き金を引いた。


 パン、と思いのほか乾いた音が廊下に響き渡る。引き金を引いた瞬間、思わず目を閉じてしまった麻奈は、玉がどこに当たったのかよく分からなかった。ユエだけは自分の足元から大分離れた所に開いた、小さな穴を見つめていた。


「俺に盾突くか……いい度胸だ」


 銃を知らなくとも攻撃された事を理解したユエは、すぐさまビシャードを床に放り捨てると、麻奈に向かって近付いてきた。

 麻奈は慌てて銃を構えなおす。しかし、今度はどこを狙っていいか分からない。

 サルーンの予測では、威嚇で銃の威力を示せばユエの動きを封じられるはずだった。こんな風に向かって来られたら、麻奈には成すすべがない。

 いっその事、急所を外してもう一度撃ってみようかとも思ったが、そんな度胸は持ち合わせてはいなかった。


「これ以上、俺を怒らせるなよ」


 苛立ちを隠そうともせずに、ユエは小さく舌打ちをして麻奈に向かってくる。その歩みは決して早くはなかったが、麻奈は金縛りにあったかのように動けなくなってしまった。 

 もう駄目。そんな風に思った瞬間、床に放り出されていたビシャードが、ユエの足にすがり付いてその歩みを止めさせた。


「にげ……ろミナカミ」


 しかし、満身創痍のビシャードではユエを止めていられるのも一瞬だった。ユエは足にまとわり付くビシャードの腕を蹴り飛ばすと、その腹にもう一度重たい蹴りを入れた。グッと声にならない声を上げるビシャード。


「逃げれば、コイツを殺すぞ」


 ユエが見せ付けるように、ビシャードの背中に足を乗せた。みしみしという音が聞こえてきそうなほど、ユエはそこにゆっくりと体重をのせる。


「やめてっ」


「お前がその玩具を捨てて、これ以上抵抗しないのならば、そうしよう」


 ユエはそう言ってから、(いや)。と宙を見上げて付け足した。


「逃げるお前を捕まえるのも一興か――。鬼ごっこでもするか?」


「いいから陛下から離れてっ」


 麻奈は泣きながら声を張り上げた。ユエの足元で倒れていビシャードを見ると、彼はぐったりとしたまま動かなくなっていた。

 今ここでユエを説得できなければ、本当に誰かを失うことにもなるかもしれない。

 麻奈は覚悟を決めた。痛い事は恐ろしいけれど、これ以上皆が傷つくのは見たくない。

 麻奈は持っていた銃を、誰もいない廊下に投げ捨てた。


「ねぇユエ、貴方のしたいようにしていいよ。ユエが望むなら、元の姿を詮索したりしない。元いた国に帰ろうなんて言わない。その代わり、皆が元に戻るのを邪魔したりしないで。私たちに出口を探させて」


 ユエの表情は変わらない。それでも麻奈は続けた。今自分に出来る事を精一杯考える。


「――出口を見つけても、私は此処にずっと残るって約束するよ」


 懇願するようにユエを見上げると、ようやく彼の顔に表情が浮かんだ。勝ち誇った顔。ユエは値踏みするように麻奈を見つめる。麻奈はその視線を真正面から受け止めた。今の言葉に嘘偽りがないということをユエに分からせるには、視線を逸らしてはいけないと思った。


「いいだろう」


 しばらく考えた後、ユエはビシャードの背中から足を退けた。

 麻奈は苦しそうに咳き込むビシャードに駆け寄ろうとしたが、ユエが麻奈の手を取ってそれを阻んだ。


「今の言葉、本当だな」


 ユエは怯える麻奈の手を強く握り締めると、それを自分の口元まで近づけた。麻奈は震えながら頷く。 ビシャードの、駄目だ。という声が聞こえたが、麻奈はそれをあえて無視した。

 その様子を満足そうに見ていたユエは、握っていた麻奈の指先を薄い唇に含んだ。湿った舌先が麻奈の指を転がすように舐め回していく。ぬめった感触に麻奈が眉をしかめると、ユエは鋭い犬歯に麻奈の人差し指を押し当て、ぶつりと皮膚を噛み切った。


「っつ」


 飛び上がるほどの痛みが指先に走り、麻奈は反射的に指を引き抜いた。小さな噛み傷からは、じわりと血が滲んでいた。

 ユエは唇に残る紅のような麻奈の血を、舌を出して舐めとった。薄く笑うユエはまるで生き血を啜る吸血鬼のようだ。冷たくて残忍で、そして妖しいほどに美しい。いつか、本で読んだそれにそっくりじゃないかと麻奈は思った。


 更に、彼は自分の指も同じように噛み切ると、それを麻奈に向けて突き出した。麻奈は熱を持ってじんじんと痛む指を強く握りながら、目を丸くしてそれを見ていた。

 ユエが何をしたいのかさっぱり分からない。しかし、今は彼に従うしかない。そう自分に言い聞かせて、麻奈はそっと床に視線を走らせた。ビシャードもジュリアンも、未だ床に倒れたまま動かない。階下に落ちたサルーンはここから見る事は出来ないが、きっと彼も同じだろう。これ以上誰も傷つけさせるわけにはいかない。


「誓え」


 ユエは自分で噛み切った指を、麻奈の方へぐいと更に近づけてきた。これを一体どうしろというのだろうか。麻奈は困り果てて、ユエの赤く染まっていく指を眺めた。すると、彼は舌打ちしながら麻奈の傷ついた指を掴んだ。二人の傷口を合わせるように指を押し付け、ユエはその上からもう片方の手で固く握りしめた。

 触れ合った指先がドクドクと大きく脈を打ち、まるでユエの血が流れ込んできたように麻奈には感じられた。


「今の言葉をもう一度。血に誓いを立てろ」


 そう言われても、誓いなど立てたことがない。麻奈は指先からゆっくりと伝って落ちる血とユエとを交互に見ていた。


「麻奈――駄目です」


 その時、壁際に横たわったままのジュリアンが、僅かに顔だけをこちらに向けた。体が痛むのだろう、顔を歪めながらも彼は必死に起き上がろうとしている。

 ユエの気がジュリアンへと逸れたのを感じて、麻奈は首を振ってジュリアンを制す。そして、麻奈は息を大きく吸いこんだ。頭の中は空っぽになっていたが、意外にも口からは淀みなく言葉が出てきた。


「私たちの邪魔をしないと約束してくれるなら……私はこれから、ユエの意向に――」


 従います。の言葉が出る前に、麻奈の視界が突然大きく揺れた。いつの間に立ち上がっていたのか、突進してきたジュリアンが、ユエからもぎ取るようにして麻奈を抱き上げていた。

 たったそれだけの動きでも、相当無理をしているのだろう。ジュリアンの額には脂汗が浮かび、足元はかなりふらついている。麻奈の腰を抱くその手が小刻みに震えているのは、痛みのためか、それとも恐怖のためだろうか。


「ジュリアンっ」


「誓わせません。絶対にっ」


 その細い体のどこにそんな力があるのかと思うほどの力強さで、ジュリアンが麻奈を肩に担ぐと、吹き抜けの柵の外側へ思い切り放り投げた。ユエが慌てて手を伸ばしたが、麻奈の体は柵を飛び越え、放物線を描いて宙に舞った。

 悲鳴も上げる事が出来ずに、麻奈は階下へと落下していった。


 確かに目を開けているはずなのに、麻奈には周りが何も見えなくなっていた。麻奈がその時に感じていたのは、落下するとき特有の腹の奥が冷えていくような感覚だけだった。だから、自分の落下地点でサルーンが六本の腕を広げて待ち受けている事に、麻奈は全く気がついていなかった。

 気がつくと、ドンという衝撃とともに麻奈はサルーンの逞しい腕に抱き止められていた。


「そのまま鏡へ」


 ジュリアンの声が上から降ってくる。しかし次の瞬間、それは彼の呻き声に変わっていた。


「そこを動くなよっ」


 柵の上からユエが顔を出す。その眉は吊り上がり、顔は怒りに染まっていた。


「サルーンさん、下ろして下さい」


 サルーンは麻奈を抱きかかえたまま、階段を駆け上がり始めた。踊り場の大鏡まであと数段。

 鏡が鈍く光り始める。サルーンはこのまま鏡へと入る気なのだ。麻奈は慌てた。それは、ジュリアンとビシャードを怒り狂ったユエと共に置いて行く事になる。


「やめろっ」


 ユエが階段を駆け降りてくる。跳躍するように段を飛ばして下るスピードは恐ろしく速い。


「サルーンさん待って下さい、ジュリアン達が――」


「あの男のした事を無駄にするな」


 そう言うと、サルーンは迷いなく鏡に身を投じた。

 麻奈は鏡に入る寸前、残されたビシャードとジュリアンに手を伸ばした。そうせずにはいられなかったのだ。

 鏡に完全に飲み込まれる直前、ユエの指先が麻奈の手を掠めた。しかしそれは一瞬の事で、麻奈とサルーンは冷たい鏡の中へと沈んでいった。

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