鏡へ(サルーンの場合) 2
一部暴力的な表現があります。
ジュリアンとビシャードが乾きたての服に袖を通してから、麻奈たちは螺旋階段に向かうことにした。すると部屋を出る直前、サルーンがズボンの裾を捲り上げて隠し持っていた小型の銃を取り出した。
「サルーンさん、それは」
「もしもの時のために持っておくといい。小さい分射程距離も短いが、威嚇としてなら使えるだろう」
サルーンは黒光りする銃をくるりと回し、グリップを麻奈に突きつけた。手の中にそれを押し込められた途端、麻奈の背中にざわざわと寒気が走る。サルーンは麻奈にこれを使えといっているのだ。
「何だそれは」
ビシャードが不思議そうに、麻奈の手の中の拳銃に顔を近づけてきた。
「そうか、ビシャードにはこれが何なのか分からないんですね。――もしかすると、ユエも拳銃を知らない可能性がありますね」
ジュリアンが眉を寄せながら呟く。
「問題ない。そこらに一発打ち込むだけで威力が分かるだろう」
「でも私、銃なんて使えません」
「大丈夫だ。安全装置をはずして引き金を引くだけでいい」
サルーンに説明されて、麻奈は再び手の中の銃を見つめる。手順が分かっても、これを扱える自信は全くなかった。
「念のためですよ。ですが、もしも私たち三人がユエにやられてしまった時には、躊躇わずにそれを使ってください」
麻奈はこくりと頷いて、預かった銃を握り締めた。それを見てジュリアンは麻奈の肩を軽く叩いた。本当に、こんな物を使わなければいいと麻奈は心の底から思った。
静かな廊下には麻奈たち以外人の影はない。ひっそりと静まり返った薄暗い校舎の中を、皆で連れだって歩くのはとても奇妙な心地がした。まるで校舎の中で肝試しをしているようだ。何しろ、先頭の男には腕が六本付いていて、隣の男は透明ときている。これで蔦男もいれば完璧だろう――。
麻奈は、早く皆が元の姿に戻れたら良いと思った。いっそのこと、皆で一緒に鏡の中に入れないだろうか。そんな事を考えていると、突然前を歩くサルーンの歩みが止まった。いつの間にか、二階の螺旋階段に到着していた。
階段に沿うように、ゆるりと円を描く銀色の柵が見える。階段の踊り場には暗く陰鬱な色のタイルが貼ってあり、大きな鏡が辺りの景色を写していた。螺旋階段は、麻奈が初めて此処に来たときと同じように古く薄汚れていた。
「どうしたんですか」
階段に足をかけたまま、固まっているサルーンにジュリアンが声をかけた。サルーンは振り返って首を振る。その唇が戻れと声を発する前に、黒衣の男が一階の暗がりから姿を現した。ユエは足音も立てずに螺旋階段を上ってくる。
「待ち伏せ……」
麻奈は息を呑んでジュリアンの袖をぎゅっと掴んだ。やはりやめておけば良かったのだろうか。麻奈はそう思ったが、今更もう遅い。
ユエの顔を見た途端、麻奈は自分の喉を締め付ける手の感触を思い出していた。ジュリアンたちと一緒にいても、一度植え付けられた恐怖はそうそう拭えるものではない。
ユエはゆっくりと階段を上がって来る。その顔には何の感情もなく、まるで散歩でもしているかのような、何気ない様子に見える。しかしその目は、先ほどから麻奈だけを捉えていた。それがかえって麻奈の恐怖を煽るのだ。
「俺は言ったよな? 此処には来るなと――」
ユエはどこかのんびりした口調で語りかけてくる。首を大袈裟なほど傾けて、麻奈を下から見上げていた。
「余計な事をするな、部屋で大人しくしていろと」
その迫力に麻奈は気圧されて、麻奈は無意識に後ろに下がった。ビシャードが庇うように前に出る。
「それなのに、お前はこんな所で一体何をしようとしているんだ」
ユエは麻奈から視線を外さない。そんな彼の様子は、まるで頭数を集めても無駄だと言っているように見える。ユエにとっては、何人集まってこようが、問題ではないのかもしれない。
「お前が良い子に出来ないなら、俺は優しく出来そうもねぇな――」
そう言うと、突然ユエが階段を駆け上った。サルーンがそれを止めようと、腰を低く落として身構える。そしてユエの鳩尾目掛けて拳を振るった。しかし、ユエはそれを軽く片手でいなしてかわすと、体を捻って強烈な回し蹴りでサルーンを階下に叩き落とした。
「サルーンさんっ」
麻奈とビシャードが手摺に駆け寄った。サルーンは受身も取る事が出来ずに、かなりの高さから階段を転がり落ちていった。まだ耳に残っている鈍い音が、不安を更に掻き立てる。
麻奈は指先の震えを抑えながら下を覗いた。一階の床には、うつ伏せに倒れているサルーンが見えた。彼は廊下に伏したままピクリとも動かない。麻奈の動悸はいよいよ激しくなった。知らず、拳銃を握り締めている手に力が入る。
ユエはサルーンに目もくれずに、階段をゆったりと上がって来る。美しい顔には汗一つ浮かぶことなく、息も乱れていない。
「ユエ、少し話を聞いてください。私たちは貴方の不利益になる事をしている訳ではありません。此処に残るも留まるも、最後に選ぶのは自分自身です。私たちはユエが此処に残るのを止めたりしません」
ジュリアンは近付いてくるユエと距離を取りながら説得する。しかし、ユエの歩みは止まらない。彼はジュリアンを無視して、ひたすら麻奈だけを睨みつけている。
ジュリアンは、ユエから死角になっている右手をさりげなくポケットに忍ばせた。それに気がついたユエは、突然階段を一気に駆け上がり、その勢いのままジュリアンに向かって走る。ジュリアンは小さく舌打ちしながらポケットから手を引き抜いた。
「遅ぇ」
ユエがジュリアンとの間合いを一瞬で詰めると、ジュリアンが右手をポケットから引き抜いた瞬間、そこに手刀を素早く落とした。硬い音を立てて、ジュリアンの手から何かが滑り落ちる。
ユエはそれを遠くへ蹴り飛ばしてから、ジュリアンの右腕を掴んで軽々と投げ飛ばした。思いきり壁に叩きつけられたジュリアンは、立ち上がる事も出来ずにそのままずるずると廊下に崩れ落ちた。
決して小柄ではないジュリアンが宙を舞っている姿を、麻奈は悪夢を見ているような心地で呆然と眺めていた。ユエの強さは圧倒的だ。皆で対峙すれば何とかなると思ったのは、甘い考えだったようだ。
麻奈が震えながら後ずさると、未だ無傷のビシャードが麻奈をユエの視線から隠すように立ちはだかった。しかし、ビシャードに勝ち目がないのは誰が見ても明らかだった。
「陛下、駄目です」
ビシャードの細い背中に庇われながら、麻奈は首を振った。線の細いビシャードなど、ユエの一息で吹き飛ばされてしまいそうだ。下手をしたら重傷を負うかもしれない。それは絶対に避けなければ。そう思うのに、麻奈の喉は張り付き、それ以上の言葉が出てこなかった。
「ミナカミ、そなたは逃げなさい」
ビシャードがそっと囁くが、麻奈は首を振った。
「余は、お前を知っているぞ」
ビシャードは、ユエと正面から対峙しながら口を開いた。ユエは片眉を動かしたきり何も言わない。
「その香のかおりと、その身のこなし――確かに覚えている。以前余を棒で打ち据えた者だ」
「――だったらどうした」
ユエがビシャードの顔目掛けて殴りかかる。空を切る音が聞こえそうなほど鋭い拳を、ビシャードは紙一重で何とかかわした。しかし、ユエは止まらなかった。素早くビシャードの懐に入り込むと、その腹に重たい一撃を叩き込む。ビシャードは体を海老のように丸めて膝を付いた。その顎をユエは容赦なく蹴り上げた。苦しそうな声をあげるビシャードの襟元を、ユエが乱暴に掴んで自分の目の高さまで持ち上げた。
「逃げ……ろ」
ビシャードは切れた唇を震わせて麻奈に訴える。麻奈は今度は首を振る事も出来ずに、きつく拳銃を握り締めていた。間近で振るわれる暴力が恐ろしくて、体が思うように動かない。
いつの間にか、麻奈の視界は涙で滲んでいた。ぼやけて滲む世界で、麻奈は周りを見た。階下に落ちたサルーンも、廊下に倒れているジュリアンも動かない。
「お願い! もうやめてっ」
気がつくと、麻奈は叫びながら拳銃をユエに向けていた。