鏡へ(サルーンの場合) 1
休むことなく続いていた扉を叩く音は、いつしか体当たりをする激しい振動へと変わっていた。扉はビシャードとサルーンがぶつかるたびに、ギシギシと軋んで悲鳴のような音を立てている。
今にも破られそうな扉を前にして、麻奈はだんだんと周りを見ることが出来るようになっていた。扉の外では、さっきからずっとビシャードとサルーンが自分を心配してくれていた事をようやく思い出した。
麻奈が自分を見ていないことを悟ったジュリアンが、そっと離れていった。そして、念を押すかのように唇に人差し指を当ててみせる。麻奈はまだ少しくらくらする頭で頷いた。約束、ジュリアンとの秘密。誰にも話してはいけないと言われるまでもなく、あんなことを誰にも話せるわけがない。
ミシミシと音を立てる扉をジュリアンが開くと、まずビシャードが勢い良く部屋へと入ってきた。次いでサルーンも顔を出す。
「ミナカミ無事かっ」
血相を変えて駆け寄ってくるビシャードに、麻奈は驚きながらも頷きを返した。
「あの男に何もされなかったか」
ビシャードは心配そうに麻奈の肩に手を添える。その手に赤い擦り剥けが出来ている事に気がついて、麻奈は二人に申し訳なくなった。こんなに心配されていた事にとても驚く。
心配かけてしまってすみませんと口にして、麻奈が肩に置かれたビシャードの手からそっと身を引くと、彼は少し傷ついたような表情をした。しかしそれもすぐに消え、麻奈の姿に異常は見当たらないのを確認すると、一応安心したようだった。
「何をしていたのか、話す気はないのか」
サルーンはジュリアンに非難する口調で迫った。彼にしては珍しく感情の籠った視線を向けている。
「ありません。彼女とは少し個人的な話をしていただけです。それを貴方たちに話す必要はないでしょう」
ジュリアンは飄々と追及をかわしている。彼はまるでそれを楽しんでいるかのように、サルーンやビシャードの視線さえも受け流す。そうなると、締め出されていた男たちの矛先は自然と麻奈へと向いた。
「ミナカミ、何があったんだ」
麻奈はビシャードから視線を外して首を振ることしか出来ない。なぜか少し後ろめたくて、恥ずかしくて、麻奈は初めからビシャードとサルーンに顔を向けられずにいた。それをやんわりとした拒絶と取ったビシャードが、悲しそうに目を伏せた。
焼け焦げたベッドルームから出てきても、誰も口を開こうとはしなかった。ジュリアン以外、皆の視線は自然と下へと下がっていた。重苦しい空気の中、麻奈はこれからの事を話すための口火を切った。
「あの――私この後、少し寄りたい所があるんです」
麻奈はおずおずと顔を上げると、皆が麻奈をじっと見ていた。誰も何も言わなかったが、話の続きを求められているのを感じて、麻奈は話を進めた。
「これから螺旋階段に行きたいんです。サルーンさんと、それからジュリアンに陛下も。少しだけ付き合ってもらえませんか。もしかしたら危険かもしれないんですけど……」
「危険?」
ジュリアンが聞き返す。麻奈は、つい先ほどユエが自分の部屋を訪ねて来た時の事を話した。
「ユエは出口を探す事に反対なんです。余計な事はするなって脅すぐらい」
今思い出しても、あの時のユエの剣幕は恐ろしかった。あの忠告を破ったら、一体どんな事になるのか想像するだけでも震えてしまいそうになる。しかし、麻奈はそれでもサルーンを大鏡の前に連れて行きたいと思った。さっきはまだ踏ん切りがつかなかったが、皆で行けば何とかなるような気がしていた。
「サルーンさんに、元の姿に戻してみせますって約束しました。だからこれから鏡に行ってみようと思ってるんですが、少ない人数で行くのはちょっと怖いんです」
麻奈は唇を噛んでうつむいた。サルーンを救いたい。大鏡に行けばそれが叶うかもしれない。ならば、望みが薄くてもそれにすがってみたいと思うのだ。しかし、危険を顧みずそれが出来るかと言われたら、麻奈はそれほど強くはない。麻奈は自分でそれが良く分かっていた。だからこうして皆を誘っていく事しか出来ない。
「確かに、麻奈が鏡に近づけないのは困りますね。多分、麻奈が行かなければ鏡は何の変化も起こらないでしょう」
「ユエという男をどうにか説得できないのか。出口を見つけても、残るのは個人の自由だと言えばいい」
「難しいでしょうね。彼は麻奈まで此処からいなくなるのが気に食わないと思っているようですから。出口を見つけること自体、不愉快なんでしょう」
今まで黙って話を聞いていたサルーンが、突然扉に向かって歩き出した。彼の多すぎる手は、着いて来いというように麻奈に向かって手招きをしている。一緒に大鏡まで付いていってやるという事らしい。
麻奈はサルーンの手招きに従った。あとの二人を振り返ると、ジュリアンが頷いていた。
「私も行きます。この一連の出来事をきちんと把握しておきたいですから」
「ミナカミに危険が及ばないように、余はいつもそなたの側にいるぞ」
ビシャードが麻奈の隣にピタリと張り付く。手放しで麻奈を守ってくれると言ったビシャードに、麻奈は胸が熱くなって頭を下げた。
サルーンがそのまま扉を出ようとしたところで、ジュリアンが神妙な顔で待ったをかけた。
「もしもユエが本気だったら――かなり危険な事になりますよ。なにしろ、この中で圧倒的に強いのは彼なんですから。麻奈も彼の怪力を見たことがあるでしょう」
そう言われて、以前ユエが鉄の扉を蹴破った時の事を思い出した。分厚い鉄の蝶番がネジごと外れているのを見て、その凄まじい力に戦慄したのを覚えている。
「我々三人で太刀打ち出来るかどうか――。貴方は見かけ通りなんですか、ビシャード?」
「どういう意味だ」
ジュリアンのちくりと刺さりそうな質問に、ビシャードは気を悪くしたようだ。細い神経質そうな眉を思い切りしかめている。
「勿論そのままの意味です。失礼ですが、貴方が強いとはとても思えません。それとも、何か不思議な力でも秘めているのでしょうか」
ビシャードは、ふんと鼻を鳴らした。
「見くびってもらっては困る。これでもそれなりの力は持ち合わせている。それよりお前こそ、ミナカミの盾になるぐらいの覚悟はあるのだろうな」
それにはジュリアンも氷のような微笑みを浮かべたまま沈黙を返した。なぜか自分を挟んで繰り返される刺々しいやり取りに、麻奈は首をすくめた。しかし、そこから逃れるタイミングを図れずにいる麻奈は、二人から離れる事も出来ずにただただ二人の間に挟まれて事の成り行きを傍観することしか出来なかった。
「と、とりあえず。皆さん服を着てからの方がいいと思います」
麻奈はおずおずと片手を上げて発言してみる。ジュリアンとビシャードは相変わらず上半身裸のままでにらみ合っていた。それを見て、少し離れたところにいるサルーンは一人関係ない顔でうんうんと頷いている。しかし、初めから服を着ていないサルーンも見事な筋肉の付いた上半身を晒していた。