空に浮かぶもの 6
激しいノックの音が聞こえる。ドアを叩いているのはビシャードか、それともサルーンだろうか。麻奈は激しく鳴っているドアに近寄ろうとしたが、その進路をジュリアンが素早く塞いだ。
麻奈は目の前に立ちふさがるジュリアンを見上げた。どうしてジュリアンはこんなやり方で自分を連れて来たのだろう。いつもと違う強引なやり方は、ジュリアンらしくないような気がした。
普段の彼ならばもっとスマートにさりげなく、二人で話す機会を作れるはずだろう。麻奈は眉を寄せて考える。こんな風にすれば、いかにも内緒話をしていますよと宣伝しているようなものなのに……。
「ジュリアン、一体どうしたの」
「驚かせて申し訳ありません。でも、今すぐでなければ駄目なんです」
そんなに急ぎの話とはなんだろう。麻奈はジュリアンが話を切りだしてくれるのを待った。ジュリアンは普段と変わりのない、温和な微笑みが浮かべている。それを見て、さっき彼から感じた違和感は、やはり気のせいかもしれないと思った。意識しているのが自分だけのような気がして、麻奈は急に恥ずかしくなった。
「どうしても、今ここで麻奈に聞きたい事があるんです。そう、二人きりで……」
ゆっくりと近づいて来るジュリアンの靴音。
「それは別に構わないけど。わざわざ此処じゃなくても――」
麻奈は部屋を見回した。黒い色をしたこの部屋に入るのは二回目になるが、二度と此処に足を踏み入れたくないと思ったのは、ついさっきの事だった。火事で何もかもが煤けてしまったこの部屋は、心なしか焦げ臭い空気が漂っているような気がする。生々しい火災の跡は、否が応にも想像力を掻き立てられてしまう。さぞかし酷い火災だったのだろう。
麻奈の浮かない顔を見ながら、ジュリアンは歩みを進める。寧ろ彼は楽しそうに麻奈に近づいていた。
「此処だと何か問題ですか」
ジュリアンの腕が麻奈に延びる。一瞬驚いてから、麻奈は頬を掠めるその手を避けて一歩後ろへ下がった。当然のようにジュリアンの手も追いかけて来たので、麻奈は更に後ろ後ろへと引いていった。
麻奈の顔に少しだけ不振の色が浮かぶ。普段こんな甘い雰囲気になったら、頬の一つでも染めているところだが、今のジュリアンからは甘いだけではない、何か良くない雰囲気を感じる。それが麻奈にとって一種のストッパーになっていて、近すぎる距離に危機感を感じているのだった。
背中に壁が触れて、麻奈は驚いて後ろを振り向いた。いつの間にか、もう壁際まで追い詰められていた。ジュリアンは薄く笑って、壁に両手を付く。ちょうど麻奈を挟んで作ったそれは、即席の小さな檻になった。
「教えて下さい。あの時、本当は何があったのか」
「あの時って」
「ビシャードと一緒に鏡の中に入った時のことです」
「それは――ジュリアンも知ってるはずでしょう。ユエと外から見ていたんだから」
「勿論ずっと見ていました。しかし、私は全てを見ていた訳ではありません。麻奈は一度ビシャードと離れてしまった時がありました。その時、あの鏡にはビシャードの姿しか映っていなかったんですよ」
鏡に映る映像のことまで考えていなかった麻奈は、そうだったのかと驚いた。何となくテレビの画面を思い浮かべてしまったが、鏡はどうやら二画面になることも、視点を切り替えることも出来ないらしい。
「だからあの時、麻奈が一人で何をしていたのか誰も知らないんです」
ジュリアンは小さな子供に言い聞かせるように、麻奈の瞳を覗き込んでくる。麻奈は吐息が掛かりそうなほど近付いてくるジュリアンから一生懸命顔を背けた。あの時の事を思い出そうとするがなかなか上手くいかない。
こんなに密着されていると、目のやり場に困る。上半身裸のジュリアンが近くにいては、思い出せるものも思い出せなくなりそうだ。と麻奈は心の中で毒づいた。
「そう言えば、あの時女の子に会った」
「女の子?」
麻奈は頷く。どうして忘れていたのだろう。あの時に出会ったふんわりとした雰囲気の可愛らしい少女を思い出した。
「十歳くらいの可愛い女の子に会ったの。陛下の国の洋服とは全然違う、スカートとブラウスのような服装をしていた。でも、なぜか服がすごく汚れてた。まるで、泥遊びでもしてきたみたいに。その子、陛下の姿がまた変わり始めていることを教えてくれたの」
今考えてみても不思議な少女だった。鏡の中に入ってから、麻奈たちの存在に気がついたのは、彼女だけなのだ。あの子は一体誰なのだろう。確かめる方法は無いと解っているのだが、考えずにはいられない。
しかし、そんな麻奈の思考をあっさり壊したのはジュリアンだった。彼は麻奈の話を聞くや、口元を吊り上げた。
「あぁ……やはり貴女は最高だ」
感嘆のため息を吐くジュリアンの三日月型の唇から白い歯が覗いた。
「麻奈が来てから、此処は確実に変わり始めています。それが例え偶然だとしても――貴女は私にとって幸運の女神だ」
ジュリアンが顔を更に近づけた。麻奈は耳に注がれるくすぐったい言葉に、気が遠くなるほど動転していた。一体ジュリアンはどうしてしまったのだろう。
そんな麻奈に、彼はまるで止めを刺すかのように耳に口をつける。
「麻奈が欲しい」
流し込まれたその言葉は、一瞬で麻奈の思考を沸騰させた。ジュリアンは動かなくなった麻奈に顔を近づけると、あっけないほど簡単に麻奈の唇を捕らえていた。吐息の伴う刺激的なスタンプは、麻奈の思考を今度こそ根こそぎ奪っていった。触れて、離れる。ただそれだけなのに、麻奈は真っ赤な顔で口元に手を当てた。
ジュリアンは更に麻奈の耳に 囁き続ける。今ここで畳み掛けておかなければ獲物を逃がしてしまうというように。
「貴女の全てを独占したい……。私にその権利を与えてくれますか」
今まで、恋にあと一歩及ばなかったジュリアンへの淡い好意は、呆気ないほどストンと堕とされていた。気がつくと、麻奈はこくこくと頷いていた。
もう外で扉を叩く音も、ビシャードが自分を呼ぶ声さえも聞こえない。聞こえるのは、馬鹿みたいに激しく鳴っている心臓の音とジュリアンの声だけだった。
「良かった。これで、麻奈は私だけのものですね。今の話は私と麻奈だけの秘密です。約束してくれますね」
麻奈はもう細かい理由など考えられなかった。ただただ条件反射で頷くだけ。ジュリアンはそんな従順な麻奈を見て笑った。それは、酷く歪な笑顔だった。