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空に浮かぶもの 5

 ひんやりと冷たい校舎に入ると、サルーンがぼんやりとした様子で職員玄関に佇んでいた。麻奈を待っていてくれたようだが、その瞳は相変わらず捉えどころがない。

 麻奈が東側の階段に向かうことを告げると、サルーンは黙って歩き出した。

 彼にビシャードを紹介して、元の姿に戻る事が出来るという希望を持ってもらいたい。麻奈はそう考えていた。今のところ何が原因で戻れるのかは分らないが、きっとその方法を見つけてみせる。そして、全員で此処から出る道を探すのだ。麻奈はひっそりと拳を握り締めた。


 胸に灯った微かな希望を頼りに、麻奈はジュリアンの部屋がある三階にやってきた。

 普段は何の物音も聞こえることのない静かな廊下に、何かを言い争っているような男の声が微かに響いていた。珍しい事に、語気を荒げたジュリアンの声も聞こえてくる。


「何かあったのかも」


 嫌な予感を感じて、麻奈は足を速めた。ジュリアンの部屋の扉に手をかけ、まさに扉を力一杯開こうとしたその時、中からジュリアンとビシャードの声が漏れ聞こえてきた。


「いいから早く……脱ぎなさい……」


「やめ……離せ。無礼者が……」


 部屋の中から聞こえてきた声に不穏な空気を感じて、麻奈は扉に手をかけたままその場に固まってしまった。薄いグレーの扉を凝視しながら、このまま扉を開けてもいいものかと考える。

 じっと扉を見続けていても、中の様子が透視出来るわけもない。麻奈は思い切って扉を少しだけ横にずらした。中の様子を探るだけなら構わないだろう。もしも何か不都合なことが起きていたら、何も見なかったことにして逃げよう。麻奈はそう決心していた。


 息を殺して僅かな隙間から中の様子を覗き見ると、上半身裸のジュリアンがビシャードの服を剥ぎ取ろうとしながら馬乗りになっていた。床に押し倒されているビシャードが、ジュリアンを必死に押し返そうとしているが、彼の細い腕ではとてもジュリアンには適わないようだ。ビシャードの服は引っ張られ、ほとんど半分脱げかけている。ジュリアンはビシャードが逃げられないように足で体を拘束したまま、実に的確にビシャードの服を脱がしていく。


 麻奈は音もなく扉を閉めて、後ろのサルーンを振り返った。心臓が飛び跳ねているような激しい動悸がする。中を見なければ良かったと思っても今更遅すぎた。

 そんな麻奈を見て、サルーンは不思議そうに中の様子を覗こうとする。


「だ、駄目!サルーンさん、今は駄目です。その……そう、取り込み中みたいで」


「どういうことだ」


「えっと、その――すごくプライベートな事かもしれないので、ここは一つ何も見なかった事にして出直しましょう」


「何を見なかった事にするつもりですか」


 焦って喋りまくる麻奈の背後に、人影が近付いた。その手には戦利品のビシャードの服が握られている。


「ごめん。見てないよ。私、今来たばっかりで、その……」


 麻奈は頬を真っ赤にしてジュリアンから視線を逸らした。そんな麻奈のおかしな様子に気が付いて、ジュリアンは渋い顔をする。


「薄気味悪い誤解はやめてください。それよりも、珍しいですね。サルーンと二人なんて」


 ジュリアンは扉を大きく開いて、部屋に二人を招き入れた。部屋の中には下半身に大きなタオルを巻いたビシャードが憮然とした顔でソファーに座っていた。麻奈が軽く会釈をするのを見て、彼の顔はみるみる蕩けるような笑顔になっていった。しかしそれもつかの間、麻奈の言葉を聞いて彼は顔を引きつらせた。


「突然来てしまってすみません。あの……私たちお邪魔ではなかったですか。もしそうだったら、今すぐ出直しますから」


「だから、違うと言っているでしょう」


 含みのある麻奈の物言いに、ジュリアンから抗議の声があがった。バスルームから出てきたジュリアンは、相変わらず上半身に何も身に着けていない。今洗濯を始めたばかりらしく、バスルームから洗濯機の回り始める音が聞こえてきた。


「妙な勘違いはやめて下さい。何をどう見ればそんな勘違いが出来るんですか」


 ビシャードは唇を噛み締めて何かに耐えているような顔をして頷いている。弁解の言葉も出てこないらしい。


「だって……」


 どう見るもなにも、麻奈にはそのようにしか見えなかったのだ。なぜあんな事になっていたのか恐る恐る尋ねてみると、ジュリアンが不愉快な顔で事情を話してくれた。


「私は彼の血だらけの服を洗濯しようとしただけです。それなのに、ビシャードが洗濯している間これを着るのが嫌だと抵抗するから――」


 ジュリアンは手に持っていた深緑色のジャージをヒラヒラと振った。それは、麻奈には見覚えがある学校指定のジャージだった。一番評判の良くない深緑色のそれをあえて選ぶあたり、ジュリアンの悪意を感じる。


「そのような奇妙な服を着るぐらいなら、あのままの方がましだ。余の美意識に係わる」


 麻奈は成る程と頷いた。ビシャードの我が儘にジュリアンの堪忍袋の尾がぶちっと切れてしまったらしい。ビシャードは生まれが高貴なだけあって、気位が高いのかもしれない。

 麻奈は安堵のため息と共に、笑がこみ上げてきた。ジュリアンが薔薇の人じゃなくて本当に良かったと心から安心する。もしも本当にそうだったとしたら、麻奈は容易には立ち直れないような気がしていた。


「それで、何か用ですか」


「あぁ、そうなの。サルーンさんにビシャード陛下を紹介したくて。それから……」


 麻奈は部屋を横切って、一直線に窓辺に向かった。大きな窓を開け放ち、空に浮かんでいる目当てのものを指差した。


「サルーンさんが教えてくれたの。空に月が昇ってるって――」


 ジュリアンたちは気がついていた? と麻奈が後ろを振り向くと、ジュリアンもビシャードも、目を大きく見開いて紅い空に浮かぶ丸い月を見上げていた。どうやら、月に気がついたのはサルーンと麻奈の方が先のようだ。


「これは――驚きましたね」


 麻奈のすぐ隣に来ていたジュリアンが大きく息を飲んだのが分かった。その様子は、ここに居る誰よりも動揺しているように見える。

 それもそのはずだと麻奈は思う。以前、此処は不変だと説明してくれたのはジュリアンだった。


「私も、ついさっきサルーンさんに教えてもらったの。これは一体どういうことなの。何かの前ぶれなのかな」


「分かりません。……こんな事は初めてです」


 ジュリアンは睨み付けるように月から視線を外さない。

 一人この場の空気に染まることなく、釈然としない顔をしていたビシャードが堪えきれずに質問を挟んだ。


「この月とやらが出ているから、一体何だというのだ」


 彼はまだ此処の詳しい事情を知らないようだ。おまけに、先ほどまで視覚も聴覚も奪われていたのだから、この空の変わりようがいまいちぴんとこないらしい。

 麻奈は出来るだけ簡潔に、ジュリアンから教わった事をビシャードに伝えた。彼は途中質問を挟みながらも、頷きながら麻奈の話を聞いていた。


「成る程、大体のことは飲み込めた。見たところ、今は害もなさそうだが、誰もこの変化について説明出来る者はいないのか」


 ビシャードは端から順に皆の顔を見渡したが、それに答えられる者は誰もいなかった。ビシャードはふむ、と一つ頷くと肋骨の透けて見える胸の前で腕を組んだ。


「では、あれを眺めてむやみに騒ぎ立てるだけ時間の無駄というものだ。今は捨て置けばよい。それよりも、今後の方針を決めておくほうがよほど意味があるだろう」


 麻奈はビシャードの理にかなった意見に驚いた。彼がこんなに冷静な思考が出来るなどと思わなかったのだ。本人には口が裂けても言えないが、激情していた過去のビシャードの姿を見ていると、彼はもっと感情的な人間だと思っていたのだ。


「何か異論は」


 再びソファーに納まるビシャードは、異論など言わせない。という空気を纏っていた。彼は人を従わせる側の人間なのだということを、このとき麻奈は思い出した。


「いえ、ありませんよ」


 ジュリアンがやっと月から目を離して、静かに窓を閉めた。


「やはり、どう考えてもあの鏡以外に出口は考えられませんね。これからは大鏡を徹底的に調べたほうがいいでしょう」


 ジュリアンは靴音を響かせながら、ビシャードが座るソファーまで歩み寄っていった。偉そうにふんぞり返っているビシャードに近づくジュリアンは、こうして見ると謁見を申し出た家臣のようだ。しかし、その口から出た内容はそんな関係からは程遠いものだった。


「その前に一つ確認させて下さい。ビシャード、貴方には此処から出る意志がありますか。もしもそれが無いのなら、私たちの邪魔になりますから、どこかの部屋にでも閉じ籠っていて下さい」


 挑戦的とも取れるが、これがジュリアンのやり方なのだろう。使えるのか使えないのか、はっきりさせておこうというのがいかにもジュリアンらしい。

 一度、役に立たないと判断された麻奈も、部屋に帰るように言われた経験がある。もうあの時のような事にはならないと麻奈は胸に誓った。役立たずの烙印は二度と押されたくない。


 ビシャードは戸惑うように視線を泳がせた。その様子は、明らかに答えを迷っているように見える。ふと、ビシャードの瞳が麻奈に向けられた。見詰め合う形でお互いを見ていると、ビシャードが一度大きく深呼吸をした。


「それは――分からない。まだ国に帰ろうと思うほどの強い意思は正直持ってはいない。だが、ミナカミ」


「は、はい」


 突然名前を呼ばれて、麻奈の声はひっくり返ってしまった。


「ミナカミは、故郷に帰りたいか」


 優しく、少し淋しそうにビシャードは麻奈に問いかける。


「帰りたいです。私だけじゃなく、此処にいる皆も家に帰したいと思っています」


 麻奈は正直な気持ちを答えた。自分だけではなく、此処にいる全員。それは、帰ることに乗り気ではないユエも含めてだ。

 麻奈は漠然とした思いだが、此処に留まるのは良くないことなのだと思っている。何が良くないのか、はっきりとは分らないけれど、何となく自然の摂理に反しているようなどこか歪んだ心地になるのだった。

 ビシャードは麻奈の答えにゆっくりと頷くと、薄く微笑んだ。

 

「では、それに協力しよう。余はミナカミの願いを全力で叶えたい。今の答えでは不服か」


「いいえ。信用しますよ、陛下」


 ジュリアンは目を細めると、今度は麻奈に向き直った。


「今から少し時間をもらえますか。どうしても麻奈に確認しておきたいことがあるのです」


 それは、いつもと変わらない何気ない口振りだったので、麻奈はすぐに首を縦に振った。まだ洗濯中のジュリアンたちの服も乾いてはいないだろう。これから大鏡に向かうにしても、もう少し準備が必要だった。


 ジュリアンは麻奈が頷くと、にっこり笑ってその手を掴んだ。そして有無を言わせぬまま、奥の寝室へと麻奈を引っぱって行った。これには麻奈も驚いた。

 半ば押し込められるように部屋に連れてこられた麻奈は、驚いてジュリアンを振り返った。彼は後ろ手に扉を閉めてから、カチャリと小さな音を立てて扉に鍵かけてしまった。

 麻奈は扉が閉められる寸前、ビシャードが慌てて追い掛けて来るのと、今まで完全に気配を消していたサルーンが扉を掴もうとするのを見た気がした。

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