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空に浮かぶもの 4

「こっちだ」


 サルーンの声が静かな廊下に響く。一階に下りると、扇状に広がる職員玄関が目に付いた。黒いタイルが敷かれた、砂浜のような形のそれを目にすると、麻奈の中に懐かしい思いが湧き上がってくる。中学生だった当事は、日の当たらない職員玄関は冷たくて固い印象しかなかったが、それすらも今は懐かしく感じられる。

 サルーンはブーツの音を鳴らしながら、そこから外へと出て行った。麻奈もその背中を慌てて追いかける。


 外に出ると、薄闇の中でサルーンがじっとこちらを見ながら立っていた。六本の腕を持つ彼の影が、不気味な仏像のように足元から伸びている。


「空を」


 見てみろ。と言わんばかりにサルーンが空を見上げる。麻奈もそれに習って上を見上げた。空は相変わらず綺麗な茜色に染まっている。ピンクの雲と藍色のグラデーション。ここに烏でも飛んでいれば、とても長閑な風景になる事だろう。薄く延びた雲が、風も無いのに流れていく。そして……


「月……」


 白く輝く丸い月が、夕焼けの中を気持ち良さそうに浮かんでいるのが見えた。


「どうして――今まで月なんて出ていなかったのに」


 まん丸い月は既に中天まで昇っていて、茜色の空にぽっかりと浮かんでいる。場違いに自己主張する薄っぺらな満月を眺めながら、麻奈は頭を捻った。

 夕焼けの景色が変わることは無いと言っていたジュリアンの言葉を思い返す。あれは嘘だったのか。それとも、何か異常な事が起こっているのだろうか。麻奈にはどちらなのか確かめるほど、此処の知識が備わっていない。


「月が出るのは珍しいことなんですか」


「俺が此処に来てから、初めてだ」


「どうして、この事を私に教えてくれたんですか」


 サルーンは空を見上げたまま、鼻をひくつかせている。そうしていると、彼はまるで巨大な犬のようだ。


「此処は変化し始めている。今までとは、何かが違う」


 サルーンは顔をゆっくりと下げると、麻奈を正面から真っ直ぐに見下ろした。絡み合う視線には、確かにサルーンの意思が込められていた。


「君が来てからだ。俺は君がその鍵だと考えている」


「私が? まさか、そんな訳――」


「君は、以前此処から出たいと言っていた。俺を家に帰してみせると」


 麻奈は頷く。確かに一方的ではあったが、サルーンとそう約束したのを覚えている。あの時の気持ちに今も変わりはない。


「君のように、はっきりと此処から出たいと思うことが出来る者は、実はとても少ない。皆、心のどこかで此処を出る事に躊躇いがある」


 麻奈は、さっき此処から出たくないと言っていた男の事を思い出した。サルーンも彼と同じように此処から出たくないと考えているのだろうか。


「どうして帰りたくないんですか」


 サルーンの瞳が細くなった。酷く悲しそうに見える。


「国に帰っても、辛い現実しかない」


 彼はきつく目を瞑ると、大きな両手で顔を覆う。その手は小刻みに震えていた。


「でも、サルーンさんだって本当は帰りたいと思っているんですよね? そうじゃなければ、私に月の事を教えたりしません」


「分らない……。狂おしいほど帰りたくなる時がある。だが、次の瞬間にはそれと同じくらい帰るのが恐ろしくなるんだ」


 苦しそうに心のうちを話すサルーンを見ていると、麻奈の胸は締め付けられるように痛んだ。サルーンは内乱中の国から来たとジュリアンは言った。きっと麻奈には想像も出来ないような辛い体験をしてきたのだろう。


「苦しい。どちらも選べなくて、どちらも恐ろしいんだ。そして、俺は結局動けずに此処に留まることしか出来ない」


 それは低い、消え入りそうな声だった。

 麻奈はサルーンの腕にそっと触れた。少しでも彼の慰めになればいいと思って。触れた手のひらから、彼独特の熱い体温を感じた。

 顔を上げたサルーンの瞳は赤く充血していたが、乾いていた。もう彼の涙は枯れ果ててしまったのかもしれない。


「君なら何とかしてくれるのか? 俺を救ってくれるのか」


 サルーンが麻奈に手を伸ばした。六本の長い長い手。その腕は傷だらけで垢じみていたが、それらが自分の体に絡みついてきても、麻奈は逃げなかった。以前のように嫌悪感も湧いてこない。

 麻奈をきつく抱き寄せるサルーンは、溺れる者が藁を掴むような仕草に似ているような気がした。辛い現実と、残酷なこの場所に溺れるサルーン。今はただ、サルーンが哀れで悲しいと思った。

 麻奈はサルーンの硬くて分厚い胸板に顔を押し付け、彼の背中へ手を回してぎゅっと力を込めた。


「大丈夫。きっと、大丈夫ですよ」


 サルーンの腕の中で何度も呟いた言葉は、何の根拠もありはしない。しかし、少しでもサルーンが安心できればいいと思った。それが、今の麻奈に出来る精一杯のことなのだから。

 どの位そうしていただろうか。麻奈は鼻を小さく鳴らして、そっとサルーンの腕の中から離れた。今度は麻奈がサルーンを案内する番だった。


「サルーンさん。今度は私に付いてきて下さい。貴方に紹介したい人がいるんです」


 サルーンは相変わらず、赤く充血した目で麻奈を見るともなしに見ていたが、やがてそれが小さく上下に揺れた。麻奈はサルーンを校舎の中へ入るように促して、自分も歩き出した。

 ふと、奇妙な気配を感じた気がして顔を上げた。誰かに見られているような、そんな落ち着かない気持ちになる。視線というのは、なぜこうも敏感に感じ取ることができるのだろう。麻奈はじっと息を潜めて自分たちを見ている者の気配を探ろうとした。しかし、辺りを見渡しても、校舎の窓辺を見ても誰の姿もありはしない。


 麻奈はお手上げというように、空を仰いだ。そこには相変わらず白く輝く月が浮かんでいる。

 麻奈はポケットから携帯電話を取り出した。なぜそんなことをしようと思ったのか、自分でもよく分らないけれど、麻奈は空に向かって携帯を突き出した。小さなシャッター音を鳴らして、麻奈は夕焼け空を四角く切り取っていた。モニターを覗き込んで撮った画像に満足してから、麻奈はサルーンを追い駆けて小走りに駆けていった。


 誰もいなくなった校舎の外に、また静寂が戻ってきた。このとき、中天に輝く月がぱちりと瞬いた事に、誰も気がつく者はいなかった。

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