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空に浮かぶもの 3

 麻奈はすっかり冷えてしまった体に、乾きたての服を身に付けた。乾燥機のお陰で、ほんのりと暖かい洋服に袖を通すと、少しだけ気分が落ち着いたような気がする。

 床の水溜まりを避けながら、麻奈はふらふらとバスルームから出た。床を水浸しにした張本人は、今は一体どこで何をしているのだろうか。

 

 麻奈はぼんやりと、ユエが体を張って自分を助けてくれた時の事を思い出していた。まだビシャードがゼリ―状だった頃、麻奈を求めて追い掛けて来る彼から、ユエが身を呈して逃がしてくれたときのことだった。あの時は驚いた反面、ユエの行動がとてもうれしかった。本当は良い人なのだと、心の中でユエを見直していた。それなのに……。

 麻奈は下唇を噛み締める。


 ずきずきと痛む喉を摩りながら、少し頼りない足取りで部屋を出た。こんな不安な気持ちのときに、この部屋は広すぎる。

 麻奈はいつの間にか、ジュリアンとビシャードがいる三階を目指していた。

 人気の無い廊下をひたひたと歩くと、物悲しい気分が押し寄せる。この紅い光には、人を淋しい気持にさせる何かが含まれているのかもしれない。

 自分の足音だけを聞きながら歩いていると、何かが視界の端を横切った。ぎょっとして振り返ると、それは壁に掛けられた鏡に写る自分の姿だった。少し青い顔をして、眉も目じりも下がっている。酷い顔だった。


「ユエとは――友達でもなんでもなかったじゃない」


 麻奈は自分を叱るように呟いた。彼に裏切られたように感じるのは、筋違いなのだと言い聞かせる。しかし、それもあまり上手くはいかなかった。一度信頼を寄せてしまったせいで、さっきのショックをなかなか心から拭うことは出来ない。


「平気、平気」


 おまじないのように呟いてから、麻奈は一度深呼吸した。そう口にするだけでほんの少しだけ気分が軽くなるような気がする。ただの気休め、だがやらないよりはましだと思った瞬間……


『うそつき』


 突然聞こえてきた声に、麻奈は体を硬くした。鏡越しに背後を確認してみるが、廊下には誰の姿も映っていない。


「今の、なに……」


 それはとても小さな声だった。暗く震える女の声。

 麻奈は後ろを振り返った。やはりそこには誰もいない。廊下に備え付けてあるスピーカーから聞こえてきたようにも思えない。あの声はもっと間近から囁かれたように近くから聞こえたのだ。


 突然、麻奈は心細さを感じた。今の声を、どこかで聞いた事があるような気がする。いつも麻奈に明るく話しかけていた、少し舌足らずの可愛らしいあの声。

 麻奈は不安を振り払うように声の主を思い出そうとした。思い出したい。……でも、思い出したくない。


 麻奈は立ち止まったまま、そっと鏡の中の自分を見つめた。

 昔、鏡を裸のままにしてはいけないと話してくれたのは、一体誰であっただろう。鏡をむき出しのままにして置いておくと、夜にそこから魔物がやってくる。

 その話を幼い頃は怖がったが、成長するにつれてだんだん本気にしなくなっていった。しかし、それは本当に作り話だったのだろうか。

 麻奈は鏡の中の自分を見つめたまま、そこから動けなくなってしまった。少しでも動けば、不吉な何かに追い付かれて、一息に飲み込まれてしまうような気がする。


「そこにいたのか」


 突然気だるい声がかかり、麻奈を金縛りから解放した。


「サルーンさん。どうしてここに」


 振り返ると、サルーンが六本の腕を揺らしながらゆっくりと歩いてくるのが見えた。麻奈は安堵のため息をついてサルーンに近寄っていった。

 滅多に自分の部屋から出て来ることのないサルーンが、こんな所にいるのはとても奇妙な気がする。彼のすぐ側まで近付こうとしたが、最後にサルーンと会った時のことを思い出して、麻奈は数歩後ろへ下がった。あの時のサルーンは幻覚に翻弄されて麻奈を殴り飛ばしたのだ。

 今はどうだろうか。麻奈は立ち止まってサルーンの様子を窺った。


「君を探していた」


 サルーンは麻奈を見ない瞳で頷くと、六本の腕のうちの一本をぎこちなく麻奈に伸ばした。


「来てくれ」


 それだけ言うと、サルーンは麻奈の手を掴んで歩き出した。何の説明もなかったが、サルーンは麻奈をどこかへ案内したいらしい。

 麻奈は大きくて温かな手に導かれながら、暗い黄昏色の廊下を歩いていった。

 誰かに手を握ってもらっているだけで、今まで迷子になったように不安だった気持ちが、薄らいでいくのを感じた。


「冷たい」


 麻奈の手を引きながら、サルーンがぽつりと呟いた。麻奈は彼の漏らした言葉の意味が分からなくて首を傾ける。どうやら繋いだ自分の手の事を言っているらしい。


「あぁ、少し湯冷めしてしまって」


 冷めたい湯の中にいつまでもぼんやりと浸かっていたせいで、麻奈の体は芯から冷えてしまっていた。これでは何のために風呂に入ったのか分らなくなったが、もう一度湯を温める気にはならなかったのだ。


「サルーンさんの手はすごく温かいですね」


 麻奈は繋いでいた彼の手をぎゅっと握った。サルーンの手はぽかぽかと温かく、まるで小さな太陽のようだ。冷えた自分の手にじんわりと熱が戻ってくる。しかし、サルーンは繋いでいた手を唐突に離してしまった。

 失った暖かい熱を求めて、麻奈は反射的にサルーンの手を追いかける。しかし、よく考えたら彼と手を繋いでいたこと自体奇跡のようなものだったのだ。普段のサルーンの気質から言えば、彼はこんな事をするような性格ではない。付き合いの浅い麻奈でもそれぐらいの事は直ぐに分った。

 では、どうして彼はこんな事をしたのだろうかと首を捻った。よほど大事な用があるのだろうか。


 サルーンは麻奈の歩く早さを気を遣いながら、無言で歩く。時折振り返るのは、麻奈がちゃんと付いてきているのか確かめる為だろう。


「どこに行くんですか」


「後で分る」


 詳しい説明をするでもなく、サルーンはゆっくりと歩みを進めている。


 この学校には四つの階段がある。一つはL字型の長いほうの先端部分にある、瓦礫で塞がれて通る事の出来なくなった西側の階段。二つ目はL字の短い方の先端部分に位置していて、普通に通行可能な東側の階段。更に、校舎の真ん中に位置している大鏡のある螺旋階段。最後に、中庭に面して後者の外側に作られた非常階段。

 サルーンは廊下の先にある螺旋階段まで来ると、躊躇いなく階段を下り始めた。


「あ、待って」


 麻奈の鋭い悲鳴のような声にサルーンは足を止める。


「あの――そこは、今は通りたくないんです。すみません、向こうの東側の階段を使ってください」


 サルーンは同じ目線になった麻奈の瞳を覗き込む。そして特に表情を変えることなく階段を上がると、東側の階段へと続く廊下を歩き出した。理由を尋ねるわけでもなく、麻奈の言うとおりにしてくれたサルーンの優しさに麻奈は感謝した。単に興味が無いからなのかもしれない。


 麻奈は青い顔をしながらサルーンの後に続く。ユエの脅しは自分でも予想以上に効果抜群のようだ。あんなに男の人を怖いと思ったのは初めてのことだったのだ。

 悔しいが、今は螺旋階段を通る気にはとてもなれない。ユエはきっと、言ったことは実行に移すだろう。頭に浮かんでくる嫌な想像を無理やり追い出して、麻奈はサルーンの広い背中を見つめながら、東側の階段を下りていった。

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