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空に浮かぶもの 2

 ユエは水しぶきを上げながら、無造作に近付いてくる。麻奈は湯船から出るわけにもいかずに、浴槽の淵に精一杯背中を押し付けていた。これ以上は下がれない。おまけに、小さなタオルすら手元にない。

 麻奈は絶望的な思いで目の前に立つユエを見上げた。彼は変わらぬ無表情で、麻奈を静かに見下ろしていた。


「俺には、お前がやったようにしか見えなかった」


 さっきの返答では、やはり納得できなかったらしい。ユエはじっと麻奈を凝視している。欲しい答えを引き出すまで、彼はこうして静かなプレッシャーをかけ続けるのだろうか。麻奈は気が遠くなってきた。

 何も答えない麻奈に業を煮やしたのか、ユエは目線を合わせるようにその場にしゃがみ込んだ。彼の上着の裾が海草のように湯船に広がる。


 向かい合わせる形で座ったユエは、麻奈の喉にそっと指を這わせた。冷たい。麻奈は顔をしかめた。大きな手がゆっくりと自分の喉を包み込むように広がり、いきなり鷲摑みにされた。


「どうやってあいつを元に戻したんだ。答えろ」


 麻奈の背筋に悪感が走った。普段からユエは麻奈に何かと触れたがる、しかし今の彼が自分に触れているのは、いつもと違う理由なのだ。

 ユエの手に、ゆっくりと力が入る。強い圧迫感とともに、気道がじわじわと締めつけられていく。温かい湯の中にいるはずなのに、麻奈は体が冷たくなっていくのを感じた。


 親しいとまでは言わないが、少し前までユエとは多少気安く接する事が出来ていたはずだった。それなのに、なぜこんな扱いを受けるのか。麻奈にはまるで分からない。


「ユ、エ……くる、し」


 麻奈は危険を感じて、自分の首を締め上げているユエの腕を掻きむしった。ユエはそれでも麻奈を離さない。冷たい表情で少しずつ、少しずつ力を加えていく。

 麻奈の頭がジンジンと鬱血してきた頃、ようやくユエが手を放した。麻奈はむせかえりながら息を吸い込む。涙が溢れて、激しく咳込みながらユエを見上げた。

 すまなそうな表情など微塵もしていなかった。彼は自分の欲しい答えが手に入らなければ、麻奈を傷付ける事だって構わないようだ。


「ユエは、一体何が知りたいの。私は何も隠してない。心当たりがないから、私じゃないと言っただけ――」


 麻奈は力の入らない声とは裏腹に、ユエを睨みながら喉に手を当てた。きっとそこは赤く指の後が付いていることだろう。それだけユエの力は強かった。

 麻奈は震える声と体をユエに悟らせようないように努めたが、きっと無駄だろうと思った。麻奈が小刻みに震えるたびに、水面には小さな波紋が広がっていた。それでも、麻奈は精一杯の虚勢を張って彫刻のように動かないユエを睨みつける。

 さっき麻奈が暴れた時に水しぶきを浴びたのだろう。彼の頬や髪はぐっしょりと濡れていた。


「ユエだって元の姿に戻りたいから、その方法を知りたいんでしょう」

 

 前髪から滴り落ちる雫を払いもせずに、ユエは麻奈を見つめていた。このまま、本当に彫刻になってしまいそうだ。

 麻奈は改めてユエを見つめた。前から気になっていたことだが、この男には他の住人のように奇妙なところは一つもない。


「でも、どこも変わってないように見えるけど――」


 麻奈が疑問を吐き出さないうちに、顔の横から固い音が上がった。次いでパラパラと浴槽の欠片がお湯に落ちていく。何が起こったのか一瞬理解できなかった麻奈だったが、ユエの拳が浴槽の壁に突き刺さっているのを見てやっと理解した。

 大理石で出来ている浴槽にクモの巣状のひびをいれた張本人は、血が滲む拳を引っ込めることもせずに、静かに麻奈を見下ろしていた。


「それ以上何も言うな」


 ユエは更に一段低い声で麻奈の言葉を縛る。以前、彼にどこが変わったのか尋ねた時にも同じようなことがあったのを思いだした。

 ユエの拳から滴る血が、白い湯にぱっと紅い花を咲かせて、すぐに沈んでいく。麻奈は震えながらそれを呆然と見ていた。怖い。血が、暴力が、ユエの美しくも冷たい表情が。今は彼の全てが恐ろしいと思った。

 しかし、今回ばかりは麻奈も折れる気はない。


「暴力で黙らせようとしないで。ユエだって、元の姿に戻りたいんでしょう。だったら私も力になるから、ちゃんと話をしよう」


 震える声を懸命に絞り出して訴える。首を絞められたからこそ、こんな目に合わされる理由を聞かずにはいられない。きっと話せば分かり合えるはずだと麻奈は思っていた。

 ところが、ユエは突然喉の奥でくつくつと笑い始めた。いつもの余裕たっぷりの笑いではない。それは、ねっとりとした卑屈な笑い方だった。


「何が、おかしいの」


 螺子を巻きすぎた玩具のように笑い続けるユエを見て、麻奈はジュリアンの言葉を思い出した。

 彼は初めに言っていたではないか。此処に住む者は正気ではないと。


「何か、勘違いをしているようだな」


 やっと声を上げて笑うのを止めたユエは、唇に嫌な笑みを張り付けたまま、麻奈に向き直る。


「どういうこと」


「俺は一度でもお前に言ったか。元の姿に戻りたい、と」


 麻奈は首を傾げた。言っていないかもしれない。


「でも、元の姿に戻らなくちゃ此処から出られないんだよ。ユエだって、自分の故郷に帰りたいでしょう」


 ユエは笑みを深めた。それだけでユエの色気が匂い立つようで、麻奈は目眩がした。いつまでも、この男の前で無防備な姿を晒しているのは違う意味で危険な事を思い出した。

 ユエは滑るように二人の距離を更に詰めると、血だらけの手で麻奈の顎を持ち上げた。ピタリと密着する体。ユエは満足そうに笑いながら、楽しそうに話す。


「逆だよ、逆。俺は此処から本当に出たいなんて思ってねぇよ」


「どうして」


「分かるだろう。俺は今の姿が気に入ってるのさ」


 血が滴る指が麻奈の顎をくいと上向かせる。麻奈の恐怖で潤んだ瞳を覗き込んで、ユエは満足そうなため息を一つ落とした。


「俺はそれなりにこの場所が気に入ってるのさ。このままで、年も取らずにいられるのならそれも悪くない。今までは男ばかりで死ぬほどつまらなかったが、今はお前がいる。やっと女が現れて楽しくなってきたところだったのを……。全く余計な事をしやがって」


 ユエは空いている方の手で、鬱陶しそうに髪をかきあげた。


「俺はお前と此処で楽しくやれたらそれでいいんだよ」


 ユエは暗い笑みをその口許に張り付かせる。


「だから、お前を此処から出す気はねぇよ」


 宝石のようなユエのアイスブルーの瞳が、今は欲望と狂気で濁っているように見える。


「あの鏡には今後一切近付くなよ。でなけりゃ――」


 麻奈の耳に三日月型の唇を寄せると、ユエはひっそりと囁いた。


「どうなるか、分かるな」


 たっぷりと麻奈に恐怖を植え付けてから、ユエは手を離した。麻奈の怯えた視線を受け止めて、彼は水しぶきをあげて立ち上がった。


「良い子だから、おとなしくしてろ」


 さっきの麻奈の反応で、本当に何も知らないのだと分かったのだろう。ユエはいつもの余裕たっぷりの流し目を送ると、水に濡れた服をひきずりながら浴室を出て行った。

 麻奈はそれをぼんやりと見送りながら、彼と一緒に浴槽の熱もどこかへ行ってしまったように感じていた。心地良かったはずの湯は、もう湯煙も立ち昇らなくなっていた。

 すっかり生温くなってしまった湯の中で、麻奈はいつまでも動く事が出来ずにいた。

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