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空に浮かぶもの 1

 その異変に初めに気が付いたのは、サルーンだった。彼は日頃、ほとんど自室から出て来ることはない。他人にも、この場所にも、彼は一切興味が湧かないのだ。

 サルーンは天井にぽっかりと開いている、穴という名の天窓から空を眺める事を日課にしていた。

 そして彼はいつも思う。どうでもいい――。

 此処で起こる全ての事や、自分自身の状態さえ今の彼にはどうでもいい事だった。 何を見ても何を聞いても、自分の過去を忘れる事は出来ないのだ。それならば、いっそ何もせずにどっぷりとこの罪悪感に浸っていよう。後悔の沼に敢えてはまろう。それが自分に出来る唯一の罪滅ぼしなのだと彼は考えていた。


 サルーンの腹がきゅうと鳴った。そう言えば随分腹が空いていた。此処では何も食べなくても生きながらえることが出来るのに、生理的欲求からは解放されない。

 サルーンは、前にスープの話をした少女の事を考えた。此処から絶対に脱出してみせる。と公言した黒い髪の少女。かなり一方的ではあったが、自分と交した約束を守るために今も彼女は出口を探しているのだろうか。


 あの少女には、この夕日がどう見えているのだろう。サルーンはじっと紅い光を浴び続けた。あの日もこんな燃えるような紅い夕焼けだったことを思い出す。だからサルーンは、今日も空を見上げるのだ。

 しかし、今日の空は何かがおかしい。サルーンは天窓を仰ぎ続けて、やっと違和感の正体を突き止めた。


「月が、出ている……」


 鮮やかな茜色の空に、小さくて丸い月がぽっかりと浮かんでいた。










 麻奈が鼻歌を歌いながら浴室の扉を開けると、白い湯煙が立ち上ってきた。入浴剤を片手に持って、弾む気持ちを抑えながらバスタブにさらさらと白い粉末を入れる。甘い花の香りと共に、たちまち乳白色に濁った湯が出来上がる。麻奈は、お湯を軽く掻き混ぜてから、湯船に体を滑り込ませた。


「ふぅ、最高」


 興奮して張りつめていた気持ちは、心地よい湯にほぐされて弛緩していった。

 風呂に入っている時間だけは、この奇妙な現実を忘れさせてくれる。 とろけるようなため息を吐いて、麻奈は手足を一杯に伸ばして寛いだ。


 円形をした浴槽は、麻奈が足を伸ばしたぐらいでは淵に届かないほど広い。初めて入った時には、一人で使うには些か広すぎるのではないかと思ったくらいだ。


「まぁ、誰かと入る予定もないけどねぇ」

 

 まさかこの時、もう一人この浴室に入ってこようとしている者がいることなど、麻奈は夢にも思っていなかった。鼻唄を歌いながらのんびり寛ぐ麻奈の背後で、浴室の扉がカチャリと小さく音を立てて開いた。

 麻奈が僅かに流れてくる冷気を感じて振り返る。そこには、湯煙を纏わり付かせたユエが立っていた。


「え、ちょっと……何でっ」


 本当に焦っていると、まともな言葉が出てこないのだと、麻奈はこの時初めて知った。自分が何を言っているのかよく分からないが、とにかく出来るだけユエの目に触れないように湯船の中で後ずさりした。


 ユエは靴が濡れるのも気にせずに、どんどん湯船に近付いてくる。

 無意識に胸元を手で隠しながら、麻奈は顎まで湯につかった。そして、白濁していることに感謝した。入浴剤を入れておいて本当に良かった。

 ユエはひと時、湯の中に視線を落としていたが、真剣な顔で湯船の淵にしゃがみこんだ。 ユエの長い上着の裾が床に垂れて、べチャリと濡れる。


「湯が白いな」


「――入浴剤を入れたから」


 ユエは分っているのかいないのか、面白くもなさそうに白く濁る湯を見つめている。一向にそこから動かないユエに、麻奈は段々と苛立ってきた。


「早く出て行ってよ。一体何考えて――」


「あれは、お前がやったのか」


 いつの間にか、ユエは真っ直ぐに麻奈の瞳を見つめていた。低く真剣な声で迫る彼は、いつもと何かが違う。麻奈は、自分の体に冷たい電気が走ったような気持ちになった。慎重に答えなければいけないような気がするが、彼の質問の意味がまるで分からない。必然的にこう口にするしかなかった。


「何のこと」


 舌打ちを一つするユエに、麻奈は恐ろしいものを感じた。


「とぼけるなよ。アイツを元の姿に戻したのはお前だろう」


「アイツって、ビシャード陛下のこと」


「名前はどうだっていい。お前がやったんだろう」


 ユエは至極真面目な顔をしている。その冷たい表情はハッとするほど美しかった。

 麻奈は首を横に振る。ユエが何を勘違いしているのかは知らないが、自分にはそんな大それた事など出来るわけがない。


「陛下が元に戻れたのは、あの鏡のおかげでしょう。私は、特に何もしていないもの」


 ユエはザバリと水しぶきを上げながら、服のまま湯船に入って来た。麻奈は飛んでくる水滴を顔に受けながら悲鳴を上げた。


「ちょっと、何してるのっ」


 ユエは水面を激しく波立たせながら麻奈に近付いて来る。麻奈の心にも、湯船の水面のような不穏な波が広がってゆく。自分の答えの何が気に入らなかったのだろうか。

 ユエの黒い服は忽ちお湯を吸って重たくなったが、本人は特に気にする様子もなく湯船を真っ直ぐに横切って来る。

 いつもとは違う、彼の余裕の無い表情が麻奈を一層不安にさせた。

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